明治二十年代・三十年代の新聞をみると、都市下層社会を指すことばとして「貧民部落」「細民部落」が用いられ、時には「窮民」と呼ばれるばあいもある。そして当時、被差別部落はこれらの中に含まれていた。
これらの呼称は新聞が独自に採用(規定)したというよりは、あきらかに、政府(支配する側)が一定の基準を用いてこのような呼称でとらえ、その施策の対象としようとしていたのである。
そのことは次のことによってわかる。
明治二十年代・三十年代に大阪府警察部が用いた貧民調査の結果にもとづく基準によれば、大阪府内の貧民は次の五種類に分類されている(『大阪毎日新聞』明治二十八年六月三十日)。
(一) 震災の貧民(六三六人)
(二) 老年、幼児または廃疾で生計を営むことができない者(六二五〇人)
(三) 家族が多くて生活できない者(一万四八四四人)
(四) 遊惰者(七〇九七人)
(五) 乞食(定住している者一九三 九人、諸所を徘徊する者五五七八人)
ついで、一九一二年(明治四十五)七月二十三日付の『大阪毎日新聞』の連載記事「生活難問題」の(十四)で紹介されている同じ大阪府警察部の分類によれば、大阪市内の貧民(戸数三四二一戸、人口一万二七四二人)は次の三つに区分されている。
(一) 普通生活難を唱えている者=窮民または細民(五九八〇人)
(二) 三度の食事にも差支える者=極貧民(六七六二人)
(三) 一定の職業も住所もなく転々と住所を変える者=非人(人数は不詳)
そして、(二)の極貧民は南区名護町に集中し、(三)の非人は木津・今宮・西浜辺に限られているという。
しかし、上記のように被差別部落は貧民部落とされてきたのが、明治四十年代から「特殊部落」として独自の社会集団とされ、行政の施策の対象となってくる。
「特種部落」、「特殊部落」という呼称は日清戦争(一八九四〜五年)の頃から奈良県で使われはじめ、内務省地方局によって全国に及ぼされたといわれる(小島達雄「被差別部落の歴史的呼称をめぐって」、領家穣編『日本近代化と部落問題』明石書店、一九九六年所収)。
次に示す二つの事件に関する記事は、「特殊部落」という呼称が新聞紙上にあらわれた最も早いものに属するであろう。
一九〇七年(明治四十)五月三十日、兵庫県揖保郡林田尋常小学校の運動場において、「一生徒が特殊部落より通学せる一生徒を捕へ穢多と罵りたるを、教員敢て制止せざりしかば、特殊部落の父兄は大に憤り、翌三十一日部内の生徒一同を同盟休校せしめしが、漸やく村長の慰撫にて治まり付き、午後より登校するに至りしと」(『大阪毎日新聞』明治四十年六月二日)。
一九〇八年(明治四十一)十一月に行われた陸軍大演習に際して、西成郡西中島村の部落は軍隊の宿営の割当てから除外された。これに部落民が抗議したことを『大阪時事新報』は、「特殊部落の激昂 軍隊の宿舎割に洩れ憤慨して村長に迫る」の見出しで次のように報じている。「部落民は非常に激昂し、我々とて大日本の臣民たる以上は等しく其の栄光に浴すべき筈なるに、国家の干城たる軍隊の宿泊に対して、特にその宿舎を為すの栄を担はれざるの理由はなし。之れ村長が自分勝手に依怙の計ひをなしたるものにして、我等部落民を侮辱すること斯くの如く甚しきはなし、と三十日の夜三十余名の者一同に村役場に詰めかけて大談判を開んとし、事態不穏の状況」であった。結局、部落にも宿舎が割当てられることになって解決をみた、という(明治四十一年十一月二日付)。