『大阪の部落史』第八巻(史料編現代2)がようやく刊行の運びとなった。対象とする年代は一九六一年から一九七四年まで。収録した史料は一三一点にのぼるが、生活、仕事、在日韓国・朝鮮人、差別意識、運動、行政、教育、文化の、八つの項目に整理して掲載している。
第八巻が対象とする時期は、大阪における部落の歴史を考える上でも大きな転換点を含んでいる。一九六〇年代に高度経済成長が本格的に始まり、若年労働者を中心に部落から部落外への労働力の移動が徐々に始まる。それは皮革業や食肉産業など、それまでのいわゆる部落産業の衰退をもたらし、伝統的な部落の共同体を弛緩させた。同時にそうした変化は部落のなかの新しい人間関係や秩序をもたらし、部落差別をなくす新しい試みを生み出す条件ともなっていった。
一九六〇年代の初頭には韓国・朝鮮人を「第三国人」と行政や運動体が呼んでも何も問題にされないといった状況が日常的だった。実際に住宅入居の際にはいわゆる国籍条項が厳密に適用されて韓国・朝鮮人が除外されることが多く、解放運動の側は同和対策事業を受けるにあたって要求組合に入る要件として日本人であることを求めることも稀ではなかった。一九七〇年代に入ってようやく実態調査も行なわれ、部落に住む韓国・朝鮮人の現実を見据えるようになっていった。
部落への差別的な眼差しは、一九六〇年代に入ってもすぐになくなったり弱くなったわけではなかった。一九六五年に国の同和対策審議会答申(いわゆる「同対審」答申)が出る以前の事例で言えば、大阪市立大学に通う女子学生に対する差別事件や高槻市議会議長による差別事件、自衛隊の信太山駐屯地で起きた差別事件など、「同対審」答申が出た後でも企業や宗教界、教育現場や市民生活の中で差別事件は露骨に起きていた。一九七〇年代に入ってからのいわゆる「中城結婚差別事件」と「住吉結婚差別事件」の関係史料として、差別の結果自殺した双方の青年が書いた遺書を掲載している。
そうした現実を変革する部落解放運動が、「同対審」答申を前後して本格的に始まり、量的な拡大を遂げる。差別事件の糾弾闘争、行政への要求闘争、市民との共同闘争など、今日の解放運動にいたる基本的なスタイルが確立した時期であり、一九七〇年代に入ると全国に先駆けて運動の「質的な強化」を提起するに至る。「同対審」答申以降、大阪における同和行政の推進も目覚しかった。また、全国的に遅れていて「不毛地帯」とまで酷評されていた大阪の地で優れた同和教育実践が取り組まれる。本史料集では「解放教育」の先進地域として注目されるにいたる、節目となる教育実践の事例を紹介した。また、広い意味での文化の取り組みも始まっていく。その代表的な取り組みとして、歴史的な史料である奥田家文書刊行の動きや、音楽行動隊の結成、伝統的な盆踊りの継承といった事例を掲載した。
詳しくは本史料集の「解説」を読んでいただきたいが、いずれの分野でも今日の部落差別をめぐる状況が突然に生まれたのではなく、戦後の長い歴史と、そのなかでの運動・行政・教育などさまざまな分野での人びとの努力の賜物であることを読み取っていただければ幸いである。
なお、『大阪の部落史』第八巻の編集にあたっては、第七巻と同様に個人情報の保護という今日の大きな流れに沿って、地名・人名の表記には充分留意し、場合によっては一部の地名・人名を伏字としたことをご了解いただきたい。
(A5版、四五四ページ、一二〇〇〇円、大阪の部落史委員会、二〇〇一年三月刊)