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大阪の部落史通信・25号(2001.3
東遺跡の中世集落跡
―獣骨廃棄土坑とかかわって―

前川浩一(貝塚市教育委員会)

はじめに

 一九九六年(平成八)十二月から翌年三月にかけて実施した東遺跡の発掘調査では、中世後半の集落跡を確認した。その一角では、ウシ・ウマを主体とする骨の廃棄土坑を発見し、当時注目を集めた。その後、地元では様々な活動が展開された。本遺跡は、近世に「嶋村」と呼ばれたかわた村とほぼ重なっており、その関係から注目を集めたのである。

 発掘調査概要報告書はすでに刊行しているものの、刊行部数は少なく、また、専門外の方には理解し難い点もあり、今回の誌上報告の依頼を受けた。

 以下、中世の調査成果の主な点について記す。

一 遺跡の位置と歴史的環境

 東遺跡は本市北部、東地区に所在する中世後半から近世にかけての集落跡である。立地は、小河川である北境川左岸、氾濫原から段丘上である。旧海岸線より約九〇〇m内陸に入り、標高は約一一〜一四mを測る。本遺跡の西に位置する海塚遺跡では、中世前半代の旧河川が存在し、当時の立地はこの川と北境川に挟まれた尾根状の段丘上である。東西約二二〇m、南北約二二〇mの範囲を周知の遺跡として登録しているが、調査件数は少なく、更に拡大する可能性がある。

 周囲には、新井・鳥羽北遺跡、福田遺跡、堀秋毛遺跡、海塚遺跡等が存在する。しかし、何れもここ数年での新規発見のものであり、十分な資料が得られていない。それぞれ遺跡単独での位置づけは十分ではないが、これらを総合すると、北境川左岸の土地開発の概要は明らかになりつつある。

 周辺は十三世紀後半以降、農地再編が活発化する。その後、十五世紀代に旧河川等の荒れ地部分も積極的に農地化し、それ以降の農地堆積が連続して現代まで続いている。集落跡としては、福田遺跡において一三世紀代の建物一棟を検出した以外、明確なものはなく、これら農地再編を実際に行った集団の特定は困難な状況である。

 本遺跡は市営住宅改築工事に伴う調査によって発見したものである。一九九三年(平成五)六月に初の試掘調査を実施し、近世を中心とした遺物(土器などの道具類)、遺構(溝跡、井戸など地上に作られたもの)を確認した。一九九四年(平成六)十月より十二月にかけて第一回目の調査(第一期工事分)を実施した。近世の粘土採掘土坑を中心とした成果を得て、一九九六年(平成八)三月に概要報告書を刊行した。一九九五年(平成七)十一月再度確認調査を実施し、中世後半の遺物、遺構を確認した。一九九六年(平成八)十二月より一九九七年(平成九)三月にかけて調査(第二期工事分)を実施し、今回の成果を得た。

二 調査結果

 調査は建物が建設される部分において、北西〜南東方向長四七m、北東〜南西方向最大幅三〇mを測る「L字」形の調査区を設定して実施した。当地にあった既設住宅基礎によって破壊を受けているものの、比較的良好な状況で遺構を検出できた。

 以下、その成果を年代順に記す。

 最も古い遺構としては、中世に遡る。これらは調査区の東端と西端に集中している。東側では、十四世紀前半に埋没したと見られる石組み井戸、十五世紀前半に埋没したと見られる北西〜南東方向の溝等多数の遺構を検出した。これらからは、瓦器(がき)、瓦質土器(がしつどき)、青磁、瀬戸・美濃系陶器、漆製品等、多量の遺物が出土した。西側ではウシ・ウマを中心とした骨の破棄土坑を三基検出した。これについては後に記す。

 埋没状況や出土遺物から見て、少なくとも十四世紀代には一定規模の集落が存在したことは明らかである。集落の成立は更に遡る可能性がある。東側にて検出した溝から北側には遺構は存在せず、今回、当該時期の集落北端部を検出したと考えられる。また、未調査の南側部分に建物等の存在が推定できる。これらの遺構群は十五世紀前半までには埋没している。

 埋没後の状況は明確ではないが、地形や遺構埋土の状況から判断して、これらの遺構の上面は大幅に削られていることが想定できる。これらは人為的なものか、北境川の氾濫作用によるものかは断定できない。

 再度、人間の関与が観察できるのは中世末頃である。中国製磁器である青花(せいか)等が含まれる整地層が存在し、農地としての使用が始まったと考えられる。明確な遺構はなく、具体的な利用状況は判明していない。

 近世段階では、調査地は完全に農地となっている。遺構は溝を中心に検出し、その他、建築用の粘土採掘土坑が多数存在する。各遺構からは、ウシ、ウマ、イヌ、ネコ等の骨が出土した。特に東側では、イヌ・ネコを主体とした骨の廃棄土坑(SX―一一七、SX―一一九)を二基検出した。

 近代は農地の状況を呈するものの、埋め桶遺構が多数存在する。これらは、硝酸カルシュウム等の結晶はなく、肥溜めに使用されたものではない。獣骨が出土するものも多く、一部のものの土壌分析では、動物由来の脂肪酸が確認でき、動物遺体の解体作業等に使用された可能性が高い。

三 中世獣骨廃棄土坑

 これらは、現地調査、概要報告書では、SX―二〇一、SX―二〇一―二、SX―二〇一―三と命名したものである。成立の順は、SX―二〇一―二、SX―二〇一―三がまず掘削される。これらが埋没後、SX―二〇一が掘削され、骨を廃棄後、人為的に埋めている。それぞれの規模はSX―二〇一は直径約四m、深さ〇・三m、SX―二〇一―三は直径約一m、深さ約〇・五m、SX―二〇一―二は部分的な検出であるが、直径約一m、深さ約〇・二mを測る。

 通常、骨等有機質の遺物が発見されない条件の場所で、比較的まとまって出土した点、注目できるが、骨の残存状況としてはやはり良好ではない。骨の表面は大部分剥落し、当時の解体痕等は十分に観察できない。埋没状況からみて、多くが酸化土壌による影響で土壌化したと考えられる。

 SX―二〇一―三は現地において出土状況図等を作成し、現地説明会まで出土状況を保存した。現地での取り上げは土坑部分を切り取ることとし、骨の取り出しは室内で行った。この部分については、出土状況図・写真等を参考に、骨単位で取り上げに成功している。ウシは角一、上顎部二個体、下顎骨二個体、肩胛骨左右各一点、上腕骨右二点、左右橈骨・尺骨セット各二点、右橈骨一点、左寛骨、頚骨、踵骨各一点、左中足骨二点が出土し、二個体が推定できる。ウマは左橈骨・尺骨のセットが一点と臼歯が出土し、二個体が推定できるが、残存率は低い。その他、上層掘削時の破片が百点程度あるが、ウシ・ウマのものである。シカが三点、イノシシとみられるもの一点が出土した。土器は、瓦質羽釜・擂鉢が出土したが、量は多くない。

 SX―二〇一―二は臼歯のみの出土であり、ウシ・ウマ共に一個体以上が推定できる。本来は四肢骨等も存在したと考えられるが、その殆どが分解されたものと見られる。

 SX―二〇一は最も多量に出土した。土坑上層を五?程掘削するとほぼ全面にぎっしりと骨が詰まった状況であった。しかし、埋土の状況からすると、本来廃棄されていた骨の半数以上は分解によって、灰色土に変質していると考えられる。ウシ・ウマ共に四肢骨を中心に出土するが、椎骨等他の部位もありほぼ全身の骨が出土している。部位からの個体数はウシ四個体、ウマ二個体である。個体数については、各部位の接合・同定が十分でなく、実際に扱われた個体数については、二〜三倍程度が推定できる。ウシ、ウマ以外は断片であり、イヌ三点(一個体)、シカ五点(二個体)、イノシシ二点(二個体)、スッポン・カメ各一点(各一個体)合計一二点と少ない。この量では積極的に論じることはできないが、それぞれの遺構にはウシ、ウマに混入し廃棄されたことが考えられる。住民の食用のものであろう。土器は、土師器小皿、瓦器皿、瓦質擂鉢、瓦質羽釜、土師質壺、土師質坩堝等が出土した。

 これらの土坑について、動物埋葬とする見解があるが、土器片と混ざった状況で出土すること、肉の付いた状況での埋没ではなく明らかに骨の状態で入れられていること等から不要になった獣骨を廃棄した土坑であると言える。

 土坑の規模・出土骨から見ると、SX―二〇一―二、SX―二〇一―三は一回の解体作業、もしくは作業途上での廃棄が考えられる。SX―二〇一については、一回以上もしくは処理頭数が多い一連の解体作業での廃棄が推定できる。骨の検討が十分でなく、作業場を検出していないため、これらについては推定の域をでない。土坑の掘削、埋没状況は数時間〜数日単位の短期間のものであることは確実であり、解体作業の最終段階について明確にできたものと考える。

四 調査成果の位置づけ

 本遺跡において、比較的広範囲に及ぶ面的な発掘調査を実施できたのは、市営住宅改築工事に伴うもの二例だけである。中世に限れば、本調査のみであり、遺跡の全体については明確ではない。現在、中世集落跡の範囲確定のため、確認調査を進めている。しかし、本市域の歴史解明における位置づけは可能であり、以下、その点について記す。

 まず第一は、これまで不明であった、中世後半集落の様相を一定明らかにできたことにある。

 沢地区の澱池遺跡においては、十三世紀から十四世紀にかけての集落の一角を検出しているものの、その後、集落は消滅し、農地となっている。同地区・沢城跡、橋本地区・積善寺城跡では十四世紀代の集落と見られる土層は確認できるものの、集落としての様相はつかめていない。集落跡は十四世紀を最後に、十五、十六世紀代ほとんど確認できなくなる。

 このような状況にあって、一部とはいえ具体的に集落跡を検出したことは、未発見の集落跡が他にも存在する可能性を示し、今後の起点となる調査と言える。

 次に、右記の原因とされる、所謂「集村化」の問題との関わりである。中世後半に集落が検出できなくなることから、近世に集落が作られる地点に移動し、その後、近世集落に発展するという見解である。

 この点については、陸地測量部仮製図を参考とし、描かれている集落が近世ものとの仮定のもと、鋭意発掘調査を実施している。しかし、大部分の集落では、その下層に中世の集落は存在しないことが判明しつつある。市内の遺跡では、「集村化」について否定的な見解を持っていた。

 その中にあって、先の二遺跡については、十分ではないものの、中世集落相当層が存在している。今回、調査区では近世集落とは完全に重ならないものの、非常に近接して中世集落を検出した点、新たな成果を追加できた。

 原因は別として、集落の変遷は多様であり、単純に理解できないことを示していると言える。

 集落の問題は、周辺の土地利用や自然環境等との関係も深く、これ以上の言及は控える。

 今回の最も大きな成果は、当時の人々の生業の一部を明らかにした点である。

 集落遺跡を発掘調査した場合、窯跡、工房等の施設や、玉素材・未製品、鉄屑等製作に関わる遺物を確認しない限り、当時の生業を確定することは困難である。大部分の調査では、溝、建物、井戸等の遺構や、土器類等の遺物だけであり、当時の人々の暮らしぶりを確認することはできる。しかし、生業を確定することは困難である。

 市内においても、漁労具の出土が多い、鍛冶関連遺物が出土する等から、一定、生業の推定は可能であったという程度である。今回、確実に、動物を扱う人々、それも、骨の状態にする何らかの生業が存在したことを立証した意味は大きい。

おわりに

 以上、中世集落跡の調査成果を簡単にまとめ、現状での位置づけをおこなった。しかし、判明した点以上に不明な点が多い。本調査成果については、資料の一部が一人歩きしている。獣骨廃棄土坑だけが取り上げられ、調査成果の考古学的位置づけが反映されているとは言い難い状況にある。

 本遺跡以外にも、中世段階の骨の廃棄遺構は各地で発見されている。また、諸事情から、報告書等に記載されていない資料も存在し、今後、それらの成果も含めての検討が必要であろう。

(註)
(1)貝塚市教育委員会一九九八『東遺跡úK、新井ノ池遺跡発掘調査概要』貝塚市埋蔵文化財調査報告第四四集

(2)貝塚市教育委員会一九九六『東遺跡発掘調査概要úJ』貝塚市埋蔵文化財調査報告第三七集

(3)この点については、本遺跡の理解において重要な部分であるが、紙幅等の関係から別稿を準備中である。