調査研究

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大阪の部落史通信・25号(2001.3
新聞記事と部落‡K
 弘済会と救済事業研究会 里上龍平(大阪の部落史委員会事務局)

一九〇〇年前後、すなわち日清・日露の両戦争後に展開された産業革命の結果、日本においても社会問題が生まれてきた。とくに都市下層民の問題が注目され、新聞もこれをとりあげるようになった。

 この新しい状況に対して、「窮民」の救済は主として従来のように共同体の自助によることとし、それで足りない部分を地方行政が補うとする救貧策(「恤救規則」明治七年)では追いつかなくなってきた。そのため大阪府、大阪市は新たな対応を迫られることになる。

 一九一二年(明治四五)六月、大阪市は一九〇九年の北の大火に寄せられた義捐金などを基金として、慈善救済事業に着手し、財団法人弘済会を設立した。

 それを報じた新聞記事は次のようにいう。

 「事業種類 授産及養育、育児、老衰者救助、浮浪無頼者の感化及授産、救貧病院、救療・施薬。
 収容人員見込(一)北区火災罹災者及軍人遺族家族六十五人、(二)棄児・孤児及貧児百六十人、(三)老衰者百四十人(内百人有病者)、(四)浮浪無頼者七十人、(五)行旅病人百人、計五百三十五人」となっている。なお、現在、市費から補助金を与えられている救済機関に収容されている四一九人は、前記の収容人員見込に入れられているという(『大阪毎日新聞』一九一二年六月一三日)。

 弘済会は、北区牛窓町にあった小林授産場を譲り受け、補修の上感化室・娯楽室を増設し、現に収容している労働者に、マッチの外メリヤス、皮革業などの技術を授けるはずといわれた(『大阪毎日新聞』一九一二年一一月二七日)。

 同会は、一九一三年(大正二)一二月に南区木津北島町、西区九条南通、北区天神橋筋東の三カ所に昼間保育所を開設した。この保育所は「乳児ある女工等の為めに設くるものにして、各場共に保母長一名、保母五名を置き、約五十人の乳児を収容すべく、早朝より夕景迄、一人一日三銭にて預り万事の世話をなす仕組」であった(『大阪毎日新聞』一九一三年一〇月三一日)。ちなみに木津保育所は部落を対象にして置かれたものである。

 一方、大阪府の方に目を向けると、一九一三年四月に大阪府救済事業研究会が設立されている。

 これより前、大阪府は救済事業の改革に乗り出し、内務省嘱託小河滋次郎を招いて府の救済事務の指導監督の任に就かせ、管内の慈善事業の改良・統一に当たらせることにした。そしてそのために調査部が設けられるという(『大阪朝日新聞』一九一三年四月八日)。

 この慈善事業の改良・統一の一環として設立されたのが、救済事業研究会である。この会の事実上の発会となった、四月一九日の大阪慈善協会主催の小河滋次郎歓迎会の席上で、大久保利武大阪府知事は「大阪の地は商工業殷盛の土地柄なる丈け、将来社会問題の起るは到底免るべからざる数なれば、今にして斯業を研究して之を実地に施し、以て全国に於ける斯業の模範たらしめざるべからず」と述べて、毎月一回の研究会開催を提案し、来会者の賛同をえた。大久保知事はまた、同年七月の郡市長会議で細民部落の改善について諮問している(『救済研究』第一巻第一号)。

 救済事業研究会第四回研究会は、一九一三年八月「九日午後一時より堂島の知事官舎に於て例会を開き、「少年労働者の保護」と題する課題につき、八浜氏大阪に於ける現状の一斑を述べたる上、小河博士の之に関する講話あり」。「又、東京より来れる友愛会長鈴木法学士の労働問題に関する演説あり」。「因に、同会の機関雑誌『救済研究』は小河博士監修の下に、愈九月より発行することゝなり。尚、大阪府は同会に対し毎月八十円宛の補助を支給する由」と伝えられた(『大阪毎日新聞』一九一三年八月一〇日)。

 米騒動直後の一九一八年一〇月、大阪府は方面委員制度を創設して、慈善救済事業に乗り出すことになる。その前史をなし母胎となったのが、救済事業研究会であった。