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大阪の部落史通信・26号(2001.6)
近世産育儀礼と取上婆の位相
―「川屋婆」のこと―

山中浩之(大阪女子大学)



 部落史の問題は基本的に「死穢」と関わる事柄が多い。一般にその「死穢」と並んでケガレとみなされてきたのは「産穢」である。しかし「産穢」に関わっては、いわゆる部落史の分野で扱われることは稀である。『部落史用語辞典』(柏書房、一九八五年)にも関連項目を見出すことができない。この問題は主に民俗学、そして最近の女性史の分野で「血穢」との関連のもとに考えられてきた。それは主として女性と出産についての差別視・ケガレ観が歴史的民俗的にどのように構造的に形成されてきたかということを問題としてきた(宮田登『神の民俗誌』岩波新書、一九七九年、『ケガレの民俗誌』人文書院、一九九六年、など)。

 しかし、もう一つここで考えてみなければならないのは、「死穢」と同じく「産穢」のケガレはだれがどのようにうけもってきたのかということである。河原巻物の一つ「八幡重来授与記」には神功皇后が博多の河原で出産した際、旃陀(羅)がその出産を助けたことが記されており、部落には出産への助力が独自な技能と意識されていたこともあったらしいことがうかがえる。また室町期、河原者が胞衣(胎盤)を入れた壷を土中に埋める役を担っていることも指摘されており(横井清『的と胞衣』平凡社ライブラリー、一九九八年)、かつて出産儀礼と河原者は何らかの関係をもっていたらしい。近代に入ってからでも、大藤ゆき『児やらい』(『民俗民芸双書』二六、一九六八年)に、産婆は次第に賤業化する傾向があり、「土地によっては特殊な部落の手をかりる処」もみられ、能登では藤内部落の者が産婆をつとめ、備前ではケゴという仲間の者が取上婆になり、また作州では産婆が死人の湯灌や葬式の泣き婆の役を引き受けたことに触れている。産婆、「取上婆」が「産婆」を引き受ける役割を担ったことは当然予想されることである。が、「取上婆」の存在形態を伺いうる史料はほとんどない。今、その位相をわずかながらも推測しうる史料を読む機会があったので、少しく紹介検討しておきたい。



 史料は安政二年、「於雄安産并時之助祝儀控」(富田林、個人蔵)と題するもので、この種の記録によくある誕生の際の贈答帳というようなものではなく、出産前から三歳に至るまでの産育儀礼の詳細な記述になっている。産育儀礼が文章として記録されている点でも大変興味深いものであるが、ここではその一部を紹介しながら、「取上婆」を中心にみておきたい。

 さて、当時の出産誕生記録は「帯祝」から記されるのが原則である。

なぜ「帯祝」からなのか。これについては柳田国男に、間引きや堕胎をせずに出産し育てるという意志を社会に向けて表明する儀礼行為であったという著名な解釈がある(「社会と子ども」「小児生存権の歴史」)。この史料でも、安政元年「四月下旬、経水有之、其後相滞肥身之由」を医師から告げられた時点で「帯祝」が行われており、懐胎を「披露」することに重きがおかれている。このときから女性は産婦として一定の境界状態に入り、家では胎内という異界にいる子どもをこの世にいかに迎え入れるべきかの配慮がなされる。帯そのものや帯掛儀礼・祝食等も興味深いが、注意されるのはこの時点で取上婆との契約が結ばれることである。しかも取上婆はここでは「川屋婆」と記される。その契約は「初而之義ニ付、川屋婆江相生結下女ヨリ遣、三ツ盃ニ而おゆうヨリばゝへ遣候而酒飯差出ス」という形で行われており、「相生結」「三ツ盃」で象徴されるように世話になる者と世話する者との緊張した信頼関係を取り結ぶという性格をもつ。たんに産婆を雇うというような関係ではない。婆は大床の間に招じられ、料理を振舞われ、婚家・里方双方より銀一両ずつの祝儀が差出されており、その扱いはきわめて丁重である。以後も婆に出されるのはすべて「祝儀」であって「賃銀」ではない。

 十二月が臨月であったが、十一月の安政東南海地震のため主屋が危険で仮屋生活が続いたためか、出産は遅れた。年が明け、地震も終息してきたので奥部屋に産室をしつらえ、生まれてくる子ども、産婦のための衣類やむつき類を準備し、さらに藁十二束を用意した。そうして二月六日、産婦に強い腹痛があり、「川屋婆」と医師とが泊まり込み、干菜湯(大根葉を干したものを入れた湯)で腰湯を使わせた。七日夜より陣痛激しく、八日暁六つに漸く男子を「安産」した。ところが、生児の頭が出るのに時間がかかり、「小児胎内ニ而なやみ候故歟、初声上ケ不申」であったという。心配した夫が「鍋ふたニ而あをき申所、小声上ケ」、「四ツ時比ヨリ大声ニ相成、安堵致事也」とのべている。いい忘れたが、この記録は夫が記したものであり、出産の現場に居合わせたかのような臨場感がある。このことも出産における男子の関与という点で、再考すべき示唆を与える。

 こうして生まれた小児の初湯はもちろん「川屋婆」が携わったものと考えられるが、「玉子」「塗物わん之ふた」「干菜湯」が使われ、そしてぬれた生児の身体は、湯上を用いず、父の「襦伴ニ而水気ヲ取」とある。しかも「其襦伴、婆へ遣事」とあるのが注意される。「鍋ふた」「塗物わんのふた」「襦伴」など、いろいろなモノが、民俗的呪術的意味を伴って用いられていることも興味深いが、今は事実を紹介するにとどめておこう。

 生まれて三日目には二つのことが行われている。一つは初乳である。初乳には「吉方寅之方ニ而血筋吟味いたし」、他人の妻を呼び寄せて「合乳」がなされる。なぜ母乳をそのまま与えないのか。ここには病気胎毒観が関わっているであろう。代表的な近世の育児書『小児必用養育草』(正徳二年)にもあるように、疱瘡をはじめとする小児の病気は胎内の毒によるとみなされることが多かった。母乳はその胎毒を最も含む可能性があるとみなされ、そのため幼児を育てている他の女性で、すでにその乳が安全であることが確認されているものを優先的に与え、母乳を徐々にまぜて安全性が確認されるまで「合乳」を行ったのだと考えられる。妊娠中の食事のタブーの多くもこれにからんでおり、産婦の生活を規制するものとなっていた。

 三日目には多くの地域で産育儀礼がなされることは多いが、ここではそれは「塩かけ祝」と称されている。一般には三日目餅とか、産着の着初めであるとか、生児誕生の祝福儀礼とされているが、この「塩かけ祝」はそのようにはみえない。その具体的内容は明らかでないが、この地域の同種史料にはしばしばこの儀礼名はみられる。これには「川屋婆」のみが招かれ、銀三匁の他、料理を振舞われているのも特異である。これは生児への祝ではなく産婦に関わるもの、つまり産室のケガレを浄める儀礼であったと考えられよう。

 六日目には「六日垂」と称するやや大きな儀礼が行われる。これは「髪垂」ともいわれたように、生児の産髪を少しだけ形式的に剃る儀礼であり、その上で名付けが行われている。一般に名付け祝は七日目とされる地域が多いが、『進物便覧』(文化八年)にもあるように大坂周辺ではこの「六日垂」に合わせて行われたことが確かめられる。また、この場合、祈祷占い師を頼りにしてはいるものの、名付親のような第三者に依頼することがないのも地域的特質かもしれない。なぜ産髪を剃るのか。これは簡単にいえば、後述の胞衣や臍の緒と並んで、胎内にいたとき身につけていたもの、胎内の生命力を象徴するものであり、それは異界の霊力をもつものとして、この世に生まれたのちには慎重な切り離しが必要と考えられたからだといえよう。そういう役割を担う者としてまず「川屋婆」そして新たに「髪結」が、祝儀の対象となっている。



 さて胞衣納は十日目に行われた。いつ、どの方角の、どこへ納めるかが、祈祷師の指示によって慎重に選ばれている。胞衣の処置については、人のみえない所にひそかに捨てるというあり方と、人のよく通る所に埋めるという対照的なあり方に大きく分かれる(『日本産育習俗資料集成』第一法規出版、一九七五年)。この史料では従来は「座敷廻りの下へ納メ候」という。ただしこのときは祈祷師の指図によって改めようとした。ところが介抱者の一人が胞衣桶を「雪隠」へ置いた。「雪隠」も胞衣の埋め場所としてよくみられる所で、この地域でも一般にはそうであったのかもしれない。ただしこの度は化粧場に置き換え、「川水ヲふりきよめ」南屋敷の塀の際へ埋めている。胞衣桶には生児が男子であったので墨筆をいっしょに入れた。そして埋め場所のまわりを木で囲い、人の踏まないようにしたという。胞衣こそは胎内という異界の生命力の基盤であり、畏怖し避けるべきものであるとともに、生児の成長を一定期間護る霊力をもつものとして畏敬の念をもって最も慎重に扱っている。「一ヶ年計致し、土ニ帰る迄」といっており、生後一年はその生命力が維持するものとみなされており、異界へ引き戻されないように、この世での成長を護るようにと、畏れと期待の念をもって埋めたことがうかがわれよう。この胞衣の処置をだれが主として担当したかは残念ながら記されないが、「川水ヲふりきよめ」という点など「川屋婆」の役割であったことは想像に難くない。

 十一日目、この史料では「神たれ祝」と記されるが「神たれ」とは「髪垂」で、「六日垂」の称であり、筆者自身が混同して誤記したものと思われる。この史料では「十一日たれ」ともよばれている。ただし同地域の他の史料では「枕直し祝」と書かれていることが多い。さて、この十一日目の祝とは何か。これは「枕直し」ともよばれるように、産婦は出産後、身を伸ばして寝ずに、背を一定のものにもたせかけて坐っている姿勢をとっていたのが、この日から身を伸ばして横たえることができるようになる儀礼である。寝ると血が頭に上がって、産婦の身心不調の原因になるといわれていた(『日本産育習俗資料集成』)。さきに出産前に、藁十二束用意すると記したが、おそらくその藁束は、背をもたせかけるためのものとして儀礼的に用いられたのであろう。一日一束ずつ減じてゆき、十一日目には一束となって、枕の高さとなり、寝る姿勢になりえたのである。これは産婦の身体が平常に「復帰」してきたことへの確認祝福儀礼である。「枕直し祝」とよばれるのもそのゆえである。したがってこれは産婦の「安産」に対する儀礼なのである。

 ここで本史料の題の記し方に注意してほしい。「安産并時之助祝儀」となっている。「安産」と子どもの「誕生」は区別された二つのこととして扱われているのである。つまり当時においては、母体が安全に出産行為を完了すれば「安産」とよばれ、それは子の安否とは別のこととして扱われていた。まず「安産」であること、そしてその上で子どもの「誕生」があった。したがって「死産」であっても「安産」とよばれ、枕直し祝をしている事例を見ることができる(拙稿「『安産』ということば」、NHK学園『古文書通信』一四号、一九九二年)。

 そしてこの儀礼においても主役は「川屋婆」であった。「川屋婆」には婚家から金一〇〇疋 、白餅五升、肴料五〇疋、里方からも金一〇〇疋、白木綿一反が贈られており、「川屋婆」への祝儀としては諸儀礼のなかで最も多い。この産婦の「復帰」という面に「川屋婆」は大きく関わる存在とみなされていたことを示していよう。その点に関係して、このとき「川屋婆」へ注意すべき「遣わし物」がなされる。それは出産の場で産婦が使用した衣類、蒲団、そして生児の初湯の際、その水気をぬぐった夫の襦伴が、「川屋婆」へ「遣わされる」ことである。これらは出産において最も汚れたもの、「産穢」に直接ふれたものばかりである。これは「先例」と記されており、長い間、このようにしてきたらしい。「川屋婆」はこれらのものを「遣わされる」ことによって、産のケガレを引き受け、取除く役割をもたされていたといえるのではないだろうか。「枕直し祝」はその意味で産婦の身体的復帰だけでなく、「産穢」状態からの社会的復帰をも意味したと思われる。

 この後も「川屋婆」は産婦の介抱の外、生児の入湯を主として受け持ち、宮参りの節にも「川屋婆」は格別な祝儀と料理振舞を「髪結」とともにうけている。宮参りには、生児の産髪を芥子坊主のように頭頂にのみわずかな髪を残して、あとはみな剃り落とし、その髪を四つ辻へ捨てるという儀礼がともなったからである。宮参りは即、生児の「忌明」とされ、産髪剃はケガレの祓除であり、異界とこの世との境界状態からの脱皮を意味する象徴的行為であった。「髪結」もまたその媒介者の役割を担っていたのである。

 こうして「川屋婆」へは、生児が三歳になるまで、正月・五月節句・中元と毎年三度、銀三匁宛祝儀を差し遣すべきことと記される。ただしその間に次の子が生まれたときにはこの祝儀は止められた。実際、この二年後の安政四年に女子が生まれ、この「川屋婆」は長男のときと全く同様な形でその出産・成育に関わっている。

 帯祝にはじまり出産・初湯・「塩かけ祝」・「胞衣納」・「髪垂祝」・「枕直し祝」・「宮参り」と続く産育儀礼は、胎内という異界において生命力の源とみなされたものを畏敬しながらも、誕生後は慎重に段階を踏んで切り離し、この世へ生児を迎え入れるための儀礼であった。そしてそれは同時に、妊娠によって一旦社会的に分離されて不安定な境界状態、ケガレの状態におかれた産婦を次第に浄化し社会的に復帰させる儀礼でもあった。そしてその各儀礼において最も重要な役を担ったのが「川屋婆」であり、髪結もその一端をうけもった。このように「川屋婆」は特別な媒介者として、その待遇はきわめて厚い。が、それは「産穢」をともにし、それを一切引き受けるという役割を担うことによってであったと思われる。



 最後にこの「川屋婆」という名称について一言しておかねばならないだろう。「川屋」は一見屋号のようにもみえるが、そうみるのはきわめて特異であり不自然にすぎるように思われる。「川屋婆」は特定の個人名ではなく、取上婆の一定時期、一定地域における呼称であったとみるべきであろう。他の史料でも取上婆の個人名が書かれているものはまだみたことがない。「取上婆」か、たんに「婆」とのみ記されていることがほとんどである。

 そうすると、取上婆はなぜ「カワヤバゝ」とよばれたのだろうか。もちろん厠も考えられる。とくに厠神は産神とされ、産婦は厠をきれいに清掃すると安産するという伝承をはじめ、厠神と出産は密接な関係があった(飯島吉晴『竈神と厠神―異界と此の世の境―』人文書院、一九八六年)。しかし本史料では厠や厠神を意識した箇所はみえない。もちろん当初のつながりがこの幕末期には忘れられていて、「川屋」という字をあてたということかもしれない。たしかにこの地域で一定時期、「カワヤバゝ」と呼称されていたものを、川水で清めるというイメージを伴ってこのような漢字表記がなされたということはありえよう。

 さらにその「カワヤ」が、「かわや」=「かわた」という身分と結びつくものであったかどうかはにわかには決めがたい。当初は結びついたものであったという可能性も否定はしきれない。が、また逆に取上婆を「不浄を執業なれば、好んで為べきにはあらねども、壮にして夫にわかれ、託べき子などもなければ、不得已の世わたりとするもの」(『坐婆必研』天保四年)とみるような賤業視の傾向のなかで「カワヤバゝ」という呼称が形成されたということも考えられる。

 呼称については結局の所、はっきりと跡づけることはできないのであるが、本史料からみる限り、「川屋婆」は格別な畏敬と賤視をともにうける巫女のような独自な位相を有する存在であったことはまちがいない。このようなみかたが、取上婆一般にどこまでいいうるものなのか、史料の発掘をも含めて、御教示を仰ぎたいと思う。