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大阪の部落史通信・27号(2001.10)
明治初期における大阪の芸能
―非人身分とその芸能― 

中島智枝子(大阪の部落史委員会委員)

はじめに

 近世期において芸能とかかわりの深い非人身分に対して明治維新後の大阪府がどのような施策を講じたかについて、「大阪における明治初期の非人施策について」と題して本通信第二四号(二〇〇〇年一二月)において概観した。従来、市中警護等を担ってきた四ヶ所長吏およびその配下の非人身分に対して、どのような処遇を行うかという問題が、この時期の大阪府の非人施策の主要問題であった。この問題は、解放令が出された一カ月月後の一八七一年(明治四)九月、「四ヶ所」を廃止してその長吏手下を取締番卒として採用することをもって、新しく創設された警察機構の一員に編制することでこれらの身分について解決を図った。また、この問題と共にこの時期に新たに流入してきた非人、乞食対策も大きな問題であった。この問題に対しては、新たに生まれる非人や乞食に対して鑑札を交付することを通して管理する方策を講じたことを明らかにした。

 近世期、非人身分と関わりが深いといわれている芸能については、中尾健次氏によれば、「少なくとも大坂の「非人」組織に関しては、生業としての大道芸には従事していない可能性が高い」ということである。それと共に「しかし、『無宿非人体』の者が、大道芸に従事していないわけではなく、主として幕末であるが事例は少なくない」こともあわせて指摘されている(中尾健次「大坂の大道芸」『大阪の部落史通信』第一六号、一九九八年一二月)。

 本稿では、これらの指摘をふまえた上で、解放令を前後する時期の非人身分と関わりの深い芸能について、大阪府の出した布令を中心に明らかにしたい。

一 大阪府の芸能施策

 「大阪は明治年間を通して演劇への風当たりは非常に強い」(倉田喜弘『芸能の文明開化』平凡社、一九九九年、七八ページ)といわれている。その大阪において、芸能に対する明治維新期の大阪府の施策については、徳永高志氏によってすでに明らかにされている(徳永高志『芝居小屋の二十世紀』雄山閣出版、一九九九年)。

 徳永氏は、一八六八年(明治元)二月二四日に出された非人小家頭勤方についての布令から一八七五年(明治八)一〇月二三日の諸興行定席新規開業心得までの芸能関係の布令五六を対象に検討を加えられ、次のように述べられている。

 まず、一八七一年(明治四)前後までの芸能に対する施策であるが、芸能を社会混乱の要因になるものとして取締りの対象にしたこと。さらに、近世以来の芸能及び芸能者への取締りが継続されたこと。この二点を指摘されている。

 一八七一年(明治四)の解放令はエタ・非人身分のみならず芸能者にも影響を与え、「芸能は特定身分の独占物ではなくなり、だれでも自由に演じ興行できるようになった代わりに、彼らに対する保護や特権も消滅した」(徳永前掲書、四九ページ)。

 解放令以後、非人ではないが、香具師・盲人などの芸能興行を行い組織化されていた人々が解体された。さらに、生き神や民間宗教的なもの、神懸り的なものへの抑圧が見られる。これは芸能のなかにひそむ民間宗教的なものが、国家神道への宗教一元化をめざす政府の方針に抵触したことをしめしているということである。

 この時期に出された五六の布令を芸能者の身分という視角で分析された上で、身分制度上変化をうけた芸能者であるが、「民衆と権力者双方に根強く残った『川原もの』意識=賤視は容易に解消しなかった」(徳永前掲書、五二ページ)と徳永氏は指摘されている。

徳永氏が挙げられている芸能に関係する大阪府の布令の中には、非人については非人小家頭勤方(明治元・二・二四)、非人小屋頭の改称(明治元・六・二一)等身分に関わる布令はあるが芸能に関するものは見られない。本稿では徳永氏の指摘を踏まえた上で、彼等が行った芸能について触れている次の布令に注目したい。

 大阪府の布令の中で非人身分の行っていた芸能について言及したものといえば、一八七二年(明治五)四月二二日に出した乞食取締の布令がある。この布令は町村を徘徊する乞食は見つけ次第追払うこと等を命じたものである。その中で、大阪府は「先般非人之唱被廃候上ハ、辻芸、門芝居等賤敷遊業を以渡世いたすべからざる筈ニ付、以来町村に於て厳重停止可致事」と命じている。「先般非人之称被廃」というのは、一八七一年(明治四)八月に出された解放令を指すものであり、非人という身分呼称が廃止になったのだから辻芸や門芝居のような「賤敷遊業」をすることもなくなったはずである。ついては、町村ではこれらを厳しく取締まるように命じたものである。

 大阪府の解放令関係の布令では辻芸や門芝居について言及したものはないが、京都府では解放令が出された時に天部村と悲田院に対して布令を出し(明治四・九)、「一、辻芸・門芝居向後禁止の事」と命じている。ところが、同じ布令の中で「一、平民籍に相加わり候上は、従前の陋習屹度相改め、行状正敷致すべく候事。但、是迄の職業は即ち平民の職業に付、相改むるに及ばず、弥以て盛大に相成り候様出精致すべく候事」ともいう。「是迄の職業は即ち平民の職業」だから改めなくてもよいとしながら、辻芸や門芝居を禁止するということは一体どういうことであろうか。改める点として「従前の陋習」を挙げているところからも辻芸や門芝居を芸能として見ていたのではなく、「従前の陋習」と見ていたといえるのではないだろうか。

 大阪府の布令では辻芸や門芝居を「賤敷遊業」としている。ここで用いられている「遊業」であるが、芸能を指す場合は「遊芸」であるが、辻芸や門芝居を「遊業」と呼ぶことによりこれらを芸能としてみていたのではないことを意味する。さらに、「遊業」の「業」は生活のための仕事を意味する生業の「業」であり、それに「遊」を付けることによってこれらを仕事らしからぬ仕事と見ていたといえるのではないだろうか。その上で「賤敷」と形容しているのである。このことは、非人身分が行っていた辻芸や門芝居等が、どのように見られていたかをよく物語っているといえる。

 ともあれ、この布令から非人身分と密接不可分な芸能である辻芸や門芝居が、解放令で非人身分が制度的に解消したにもかかわらず、相変わらずこれらを行って生活の糧を得ていた人々がいたこと、そしてそれらの芸能が大阪市中のみならず町村でも行われていたといえる。

二 維新直後の芸能について

 鳥羽伏見の戦いは京都と同様大阪も大混乱に陥れた。維新政府は直ちに大阪を政府直轄地とし、薩摩藩、長州藩、芸州藩、岸和田藩の四藩に大阪市中の取締りに当たることを命じている。このような政情の混乱期にあって大阪府は再三、帯刀者の無銭入場禁止の布令を出している。これらの布令によって、「盗賊・強盗が横行し、社会不安が高まった」(『新修 大阪市史』第五巻、一九九一年、一〇ページ)中でも相撲や芝居をはじめ見世物興行が大阪市中で行われ、見物客は入場料を支払って芝居小屋や見世物小屋に入り、芝居や見世物を楽しんでいたことがわかる。

 では、この時期に演じられた芸能は一体どのようなものであったのだろうか。実川延若(初代)や中村宗十郎(初代)を擁する歌舞伎や人形浄瑠璃等がこの時期の大阪の芸能を彩っているが、そのような中にあって大阪府では次のような布令を出している。一八六八年(明治元)八月に出された布令であるが次のような内容である。

 小見世もの内、男女ニ不限、下体を露し、陰部等を見せものニ  いたし候儀、已来決而不相成候、若不相用ものハ、当人ハ不及 申、小家主・興行人並其所之役人迄、厳重ニ可及沙汰候

 この布令から、「小見世もの」の中には、肉体の露出を売り物にした卑猥なものが興行されていたことがわかる。

 この時期の見世物について、「幕末の見世物の中にはあらゆる猥雑、残酷、頽廃倒錯がつめこまれていた」(芸能史研究会編『日本芸能史』六、法政大学出版局、一九八八年、一四ページ)、あるいは「ひるがえって東京市中では、江戸時代もそうであったように、猥りがましい錦絵が公然と売買されている。見世物や看板類にもあくどいものが目立つ。金神様(こんじきさま)と唱える性器崇拝も行われている」(倉田前掲書、六九ページ)ということである。とはいえ、これらの見世物は「実際には一部であり、興行の中心的な存在ではない。(中略)全体のおよそ一割程度、これが鬼娘や蛇女の類、また人体の陰部露出、肉体奇芸まですべてあわせた場合の、近世後期の江戸における割合である」(川添裕『江戸の見世物』岩波新書、二〇〇〇年、二一七―二一八ページ)といわれているが、このような見世物が取締りの対象となったのであろう。また、「東京府では猥褻物を禁じて風俗を正そうと、明治二年二月二十二日に風俗矯正令を発した」(倉田前掲書、六九ページ)とある。ところが、この種の見世物は東京府が風俗矯正令を出したにもかかわらず、東京では相変わらず行われ、一八七二年(明治五)頃まで続いたということである。

 先に見た布令からも大阪府では東京府に先立つこと半年前に見世物興行に対して矯正令を出し、この種の興行を行った場合、芸人はじめ興行人、小家主が処罰の対象とされた。

 ついで、同年一二月一三日、諸遊芸の取締りの布令を出している。この布令であるが、浄瑠璃や舞さらえ等を、男女が入り交じり、「町席」と唱え、軍書・講釈・昔噺等の席やあるいは道場等で行われているが、これらは従来通り届出を行った上で師匠の家かあるいは料理屋、宿屋等を借り受けて行うことというものである。浄瑠璃や舞等を習う人々が結構多くいたのだろうか。温習会を男女同席で行うことは風紀上好ましくないとみなし、「町席」と名乗って派手に行うことを禁止するというものであり、従来の秩序が守られなくなっている状況が、この布令から読み取ることができる。

維新直後に大阪府が出した布令から、政情混乱期とはいえ芸能活動は活発に行われていたこと、また、多くの芸能者が存在していたことがわかる。ところが、人々にとって楽しみを与える芸能に対して、為政者側は風俗を乱すものであり、取締りの対象としてしか見ていなかった。この芸能観の延長上に、大阪府は翌年、俳優(やくしゃ)に対して二つの布令を出している。

三 俳優(やくしゃ)に対する賤視

 大阪府は一八六九年(明治二)四月二五日、俳優の風儀取締りの布令を出した。これによると、最近、百姓、町人の妻や娘の風儀のよろしくない者がいるが、これについての取締りは先般布令を出している。特に本府では湯屋や浄瑠璃等への男女混入の停止を命じている。このほかに料理屋等に「道頓堀其外、宮芝居等之川原もの」を召し呼び、「淫リヶ間敷義有之」。これらの「川原ものにおいてハ、賤敷身分を忘れ、奢ニ長し候聞江有之候ニ付」として、次のように申付けている。

 客が役者を芝居茶屋や料理屋等に呼び寄せてはいけない。さらに、舟遊びをはじめ有馬湯治や能勢妙見詣等に彼等を連れて行くこともしてはならない。さらに、楽屋に出入りしてはいけないと、一般人が役者と交流するのを禁止する一方、役者に対しては、木刀であっても帯刀してはいけない。さらに、芝居場への出入りの際は「藺之編笠」を用いることとし、これらに違反した場合は処罰するとした。

 ついで、翌五月四日、役者はかねての規制の通り立慶町外七ヶ町に居住すること、これ以外に居住してはいけない、他国に興行で出かける際は町年寄に断る等の仕来りがあったが、近年これらが守られなくなった上、自分達が「川原もの」であるということも忘れられがちになっている。先般出された布令と合わせてこれらを守ることという布令を出している。

 これらの布令は御一新を迎えても、為政者は江戸時代と変わらず役者を「川原もの」と呼び賤視し、また、役者を風俗を乱す原因と見ていたといえる。ところが、役者達のこの時期の実態であるが、この布令からも役者側には「川原もの」という意識は希薄になり、一般との付き合いは頻繁に行われていたといえる。このような実態があったからこそ、「殊に川原もの與申儀致忘却、追々身分潛上、無作法之仕向いたし候趣相聞、不埒之事に候」とされ、木刀であっても帯刀を禁じ、「藺之編笠」を被ることを命じ、居住地についての心得を出して旧来の秩序を維持しようとしたのである。

 立慶町の外七ヶ町がどの町を指しているのか、立慶町同様道頓堀を冠する町名が道頓堀久左衛門町はじめ八町存在するがそれらなのかどうか現在のところ不明である。江戸時代から役者が居住する町を権力側が指定していたといえる。さらに、近世期の大坂では町内規則の中に「渡世の禁止」を設けており、南区の大宝寺町では傾城屋、牛蝋燭屋、茶屋等の他に猿曳、歌舞伎役者、傀儡師、浄瑠璃語、三味線曳が禁止の渡世に挙げられている。禁止の渡世が比較的少ない木挽町南之丁でも煮売屋、居酒屋の他に歌舞伎狂言役者が挙げられている(『南区志』(復刻版)一九八二年、九一ページ)。禁止の渡世として芸能が挙げられているのは芸能者に対する賤視の表れといえる。

 道頓堀の役者といえば、大芝居に出る歌舞伎役者で格が高い役者と見られていた。その役者達ですらこのような取扱いを受けた。「賤敷遊業」とされた辻芸人や門芝居の役者達であるが、「長町元六丁目ヨリ九丁目迄ハ従来門芝居辻講釈又ハ乞食抔ノ群窟」(『大坂新聞』七四号、一八七三年一月)とある通り、近世期を通して木賃宿の密集地であった長町に居住していたのである。長町といえば、一八八八年(明治二一)、小林梅四郎が「大坂名護町貧民社会の実況紀略」(『時事新報』一八八八年一二月八日)で次のように書いている。「名護町五丁目までの間は商売も可なりに繁昌して貧民も少く正業者多かりしにも拘はらず名護町とさえ謂へば大坂の人々一概に貧民無頼の徒の巣窟なりと認定するを常とする」。このため、町名を名護町から日本橋通りと改めたいという。当時の人々が長町の居住者を「貧民無頼の徒」という眼差しで見ていた中に、当然、門芝居役者や辻講釈師達もいたのであろう。彼らに対する賤視の眼差しには、芸能者を「川原もの」と見る視線にとどまらず、「貧民無頼の徒」に対する賤視も含む一段と強いものがあったと考えられる。

 役者に対する賤視であるが、幕末から明治初期の歌舞伎役者であった中村仲蔵(秀鶴)は、一八七九年(明治一二)『劇場新報』に「手前味噌」と題する手記を掲載している(倉田喜弘校注『日本近代思想体系 一八 芸能』岩波書店、一九八八年)。その中で天保の改革の際に受けた処遇について、「往時は俳優(やくしゃ)といへば非類の如く扱はれ、斯る、辛苦を嘗めたりし」と回顧している。このような役者への見方もこの手記が出された頃には解消したのだろうか、中村仲蔵はこの後続けて「今は河原者の名称(とない)を免れ、上等社会の交際を受る、文明の御世こそ有り難けれ」と述べている。歌舞伎役者に対しての賤視は、一八八七年(明治二〇)の天覧歌舞伎の実現をもって「歌舞伎が正当性を獲得=体制内化した」(徳永前掲書、五二ページ)ことにより中村仲蔵が述べているように賤視は薄まったといえる。とはいえ、乞食等と同一視される辻芸人や門芝居役者たちに対する賤視は、小林の「実況紀略」にもある通り変わることなく続いたといえる。(以下、次号へ続く)