はじめに
身分的周縁論については疑義もあるが、その積極的意義は都市や農村で中核的役割を果たしてきた士農工商的身分に対して、身分的周縁にある人々をも視野に入れて近世的身分制度を再構築することで、社会史的な生活文化の多様性が追求されていることである。このことは被差別部落史研究においても、「かわた」身分や非人身分などの制度化された被差別民を対象とする研究だけでなく、多様な被差別民を含めた社会文化としての差別の重層構造に注目するとともに被差別民の存在を当該社会における生活文化の全体像のなかで再構築する必要を示唆されているといえよう。そしてそこからいわゆる悲惨や闘争重視にとどまらない、より豊かな人権文化史への道が開かれてくるのではなかろうか。
さて近世社会において存在した多様な被差別民へのまなざしとして、
イ、人や動物の死などにかかわる職能を営むことで社会意識=情念としてある穢れや賤視の対象になった人々。
ロ、近世社会の都市・農村を構成する定住民側の家意識からみて、その出自から氏・素性の不鮮明な人々。
ハ、自らの権益を由緒などにより主張するも、当事者からは施し・喜捨などをうける慣習のなかにあった人々。
ニ、身体的障害や業病などで家族から切りはなされた境界領域にあった人々。
ホ、近世的村落形成過程のなかで前代の賤視を引き継がされた人々。
ヘ、日常的空間に生きる農耕民などからみて、その行為が日常と非日常、この世と霊界の間を出入りする異能力で畏怖を感じさせる人々。
ト、特定の職能に生きるも町・村の共同体に生活を抱えられた身分としてあった人々。
チ、自他の社会関係のなかで平人以下の身分として制度的に把握された人々。
があったと考えられるが、このようなまなざしも時代の変化のなかで微妙に変化し、「かわた」身分のように政治的な緊縛によって一層賤視を強められた場合に対して、身分的な職分からの自立化をめざす者まで様々であった。
以下、大坂における髪結床の存在形態を分析するなかで、大阪の部落史委員会が収集された文政一〇年(一八二七)『髪結一件之扣』(白山家文書)の意義を述べてみたい。
一 髪結床と牢番
『大阪市史』によると大坂の橋詰め床髪結は元和八年(一六二二)から牢屋敷番を命じられていた。しかしその前は犯罪者を出した町々から牢番役が出されたが、それが新規に営業許可を大坂町奉行所から得る必要から床髪結の仕事となった経緯があった。
そこで床髪結中一六〇人のうち、一〇名の組頭が床髪結七人を従えての交代制で、毎日申の刻から翌申の刻まで勤務した。職務内容は牢守より身体検査をうけると二名が牢番所内に、五名が表門の監視、牢扉の開閉、罪人の縄取り、叩き拷問、夜間の巡回がそれであった。そして組頭はこれら七人を監督する立場にあった。
これら牢番の手当として当初は一人米一升であった。延享元年(一七四四)に臨時に囚人の引き出しがあった際に限り一人銀三匁の支給があったが、この制も一年限りで廃止され、その後は骨折り代として髪結床仲間に一年分として銀一〇枚が与えられた。
ところが明和元年(一七六四)にこれまで床髪結の営業権を脅かす存在であった町髪結の支配が認められ、これを機にこれまでの手当を辞退して牢番勤務を無賃ですることを床髪結側から申し出た。また床髪結の牢番勤務中は町髪結が無賃金で髪結の仕事を担当することはなかった。
髪結職といっても大坂の場合、橋のたもとまたは町々の辻合いにおいて床を持ち客を待つ床髪結と、いま一つ道具箱を携えて受け持ちの町内の町家に出入りして髪月代を行う町髪結があった。後者については町抱え髪結と呼ばれていた。この町髪結がやがて町中に床を構え内仕事と称して髪月代を行うようになった。そのため床髪結側が経営的に圧迫されたところから、享保二〇年(一七三五)以来しばしば内仕事の禁止が触れられた。しかし内仕事への需要があるかぎり禁止の効果はあまりあがらなかった。
さらに床髪結の牢番勤務中は町髪結がそこに出向いて仕事をすることになっていたが、実際は町髪結の見習い者が行くなどして問題を残した。床髪結の役負担として牢番勤務が定着すると、髪結役を円滑に負担させるために政治的措置が講じられた。
まず明和元年(一七六四)に町・在ともに内仕事をしている髪結は全て床髪結の手下につくことが触れられた。続いて安永二年(一七七三)に床髪結から町・在髪結に髪結札一二〇〇枚が交付され、町髪結から一ヶ月銀二匁の徴収が許可された。これによって床髪結の牢番費用・冥加金・地代などが支出されることになった。牢番役負担を理由に床髪結による大坂三郷とその周辺の髪結支配が進められたが、近世も後半になると牢番勤務は犯罪の発生で一層多忙をきわめ、その負担に床髪結仲間はさらに摂河の村々にまで支配を拡大する必要に迫られた。
二 『髪結一件之扣』の意味
まず史料紹介しながら大坂髪結仲間と在方の関係をみてみたい。
(表紙)(一八二七)
「文政十亥年六月 髪結一件之扣」
以書面申入候、此度牢御屋敷御用人足賃銭之儀、銘々共祖(粗カ)承知可有之候得共、右之通申入候間、承知之もの村名之下へ名前相記、順々相達可申候
定 口 演
(文政五年〈一八二二〉)
一去ル午年 御番所様江御願立奉申上候処、御聞済有之趣摂河両国村々
へ相勤ル髪結職之者共、近年猥ニ相成渡世段々不勤之趣ニ付、右取締
第一ニ致置、且又此方仲間困窮之上、近年御用向も多分ニ相増候間、
此義御願立奉申上、髪結職於自宅寄仕事いたし候者共、大坂牢御屋敷御用人足札相渡人足為相勤申度御願奉申上候処、御吟味之上御聞届有之候得共、遠路之処人足ニ召出候義、大義之由向々ヨリ申立候ニ付、以賃銀人足相勤候積リニいたし候、尤髪結壱人 一ヶ月人足壱人宛此賃銀三匁宛相掛リ候段、則御公儀様へも奉申上候得共、何分大村又者小村も有之候間、大村之向者右之通為相勤、小村又者不繁昌之地者難相勤故、此方之以勘弁髪結弐人ニ而壱役、三人ニ而壱人相定遣候上者、摂河両国之村々ニ而髪結相勤候もの者、右之趣申聞候間、銘々致承知候者共、前文之通村名之下へ名前相記、差紙順達可致候、若不承知ニ候ハヽ、達而不及相勤ニ、家別ニ相廻自宅ニ而寄仕事決而不致候ハヽ、於此方差構も無之候得共、村方家別ニ廻いたし候而者、村方農業之差支ニ相成、自然御年貢上納ニ相抱 (拘)候段も有之間、得と致勘弁自分渡世之事ニ候間、不抱(拘)村方御用人足可相勤候、右御用人足札致所持候抔と権職ヶ間敷儀申もの於有之者、此方ヨリ願上申御吟味達遂候間、心得違等可致無之様、何れ節向後罷越承知之ものハ調印為致可申間、前以案内いたし置候、右之通何も談合早々順達可有之候、以上
大坂床仲間
組頭中
亥二月廿四日
植松村三人 渋川村壱人 北木本村壱人
太子堂村弐人 晒村壱人 同 四人
大友村弐人 吉田村弐人 田井中村三人
老原村三人 東弓削村壱人 八尾木村壱人
中田村壱人 刑部村壱人
〆十四ヶ村
右廻リ次第早々相達し留村ヨリ大坂牢御屋敷見廻リ組頭と相記、早々差出し可申候事
文政五年(一八二二)に大坂床髪結仲間は摂津・河内村々の出勤めしている村髪結に対して、自宅で寄仕事するのは規則違反として各自に牢番人足の札を持たせ、大坂まで遠路の者もあるので髪結一人につき一ヶ月人足賃、銀三匁の金銭負担を求めた。とはいえ村には大小があり、大坂三郷の髪結の利用状況には及ばないので、大村は定めの通り負担するが、その他は髪結二人で一役または三人で一役の負担となった。そしてこの取り決めに従えないときは自宅での内仕事の禁止をせまり、その返答を村髪結にせまった。
この文書の送達された地域は現八尾市域から一部は東大阪市にかけての村々であったが、大村の植松村の場合などはすでに、慶長一七年(一六一二)の『河州渋川郡植松村御検地帳』(八尾市立歴史民俗資料館所蔵、『沢井浩三収集史料』)に「屋敷廿四歩 一斗二升 かみゆい与一」とあるように近世のきわめて早い時期から村内に髪結が存在していた地域であった。それ故、彼らのなかには牢番勤務について「権職ヶ間敷」とあるように、世間的にいやがられる仕事とする意識があった。そこで村髪結たちは次のように返答した。
御 答 書
此度御廻文ニ而被仰候趣、近年大坂牢御屋敷御用人足相増候間、床仲間衆中ヨリ御勤来之御役人足之儀有之、髪結自宅ニ而寄仕事仕候もの、人足相勤候様被仰渡候得共、私共身分(上)之儀者給麦給米申請、半季極ニ而村方へ被召抱候村掛リ奉公人ニ付、自宅も無之村家ニ而相勤、仕事之儀者、家別ニ相勤廻候処、私共旦那と申者町方と者違イ百姓衆故、右人数之内小百姓并奉公人等、農業之差支ニ相成候節者、場先ニ而仕事出来不申故、右之分農業之不差支間ニ、村家ニ而仕事被申付候得共、必窺廻儀者村方之勝手ニ而、先規ヨリ仕来ニ御座候、全私共自儘ニ新規寄仕事仕候義ニ而ハ、毛頭無御座候、勿論讒(纔)成給分ニ而、相勤候貧敷奉公人之私共ヨリ右御用人足相勤候義ハ、中々出来不申候間、此儀ハ御断奉申上候、始末御承知可被成下候、右御答如此御座候、以上
月 日
何村掛リ
奉公人誰
大坂床仲間中様
村髪結の主張は近来牢番役が増えたというが、自分たちは半期ごとに雇用される村抱え身分で、村方から米麦などを貰い請け人にそしられるような手間賃で家などはなく、農家の門先で仕事をしているだけで、牢番屋敷人足賃の負担などはできない。貧しい村抱えの奉公人として断わりの返答をした。
その結果、摂河両国村々惣代からも返答がなされた。それによると文政九年以来、大坂髪結床仲間への加入については、床を取り払えば問題はないのに、この度は仮床のない村まで髪結仲間への加入がいわれるのは熱心さが過ぎるものである。村方では髪結は家々をまわっており、農作業の関係で髪結にでかける者があるが、これを禁じてしまうと農業に差支えるので、往古よりのしきたり通りにさせてほしい。したがって村抱え身分の髪結の髪結仲間への加入も勘弁してほしいと申し立てられていた。これからみて髪結職をめぐる都市と農村での成立事情の相違が、その背景にあったことが窺える。
三 髪結床の物権化
大坂における床髪結の問題を考えるとき、明和年間(一七六四〜七二)は一つの転換点であった。まず明和元年(一七六四)には床髪結を頂点に町髪結を手下とした髪結組織化が計られた年であった。いま一つは南波新地の開発にともない三郷通用の茶屋、株芝居株とともに髪結株が新たに五株許可された。さらに明和四年(一七六七)には堀江髪結床(二六株―所持)が鈴木町の金田屋正助の請地から難波村の新建に古株と新株が譲り渡された。そして同年、幕府令においても大坂三郷在々町人所有の家屋敷、土蔵、髪結床などを質物にする際には証文を差配所に差出すことが命じられていた。髪結床が物権としての法的承認が与えられたのであった。これを機に髪結床の譲渡が繰り返されるようになったことは言うまでもない。
このように髪結床が売買され他人に譲渡されるということは、髪結業が経営として成り立つことが前提にあろう。牢番役を伴ないながらも髪結床が物権化するということは、髪結床は身分なのかそれとも身分とは関係のない職分なのかが問われなければならない。そうしたなか髪結職が身分か否かを問う決定的出来事が発生した。
天保一三年(一八四二)、株仲間の廃止が床髪結にも達せられ、それを機に無賃での牢番役も停止された。髪結の営業が自由化されることにより牢番役からも解放されるということは、髪結にとって牢番役は身分的な役負担であったのだろうかという疑問が生じてくる。牢番役をすることで髪結は賤視のまなざしを受けたと考えられてきたのが、それが取り除かれれば平人と変わりはなくなる筈である。
髪結床の売買と牢番からの解放は髪結職の近代的職業形成への道のりであった。しかし髪結職へのなにがしかの賤視が残されていた。それは何故だったのか。
寛保年間(一七四一〜四三)の大坂三郷のうち南組南米屋町「丁中式目帳」に町々髪結への祝儀として、家屋敷買求申事(銀三匁)、譲り家之事(銀二匁)、養子之事(銀二匁)などが定められていた。これは町髪結を町抱え身分としてみる意識が町々にあった証拠であろう。同じことは村髪結の場合でも先に紹介したように村抱えとしての意識は強く、彼らも諸祝儀の対象にあった。抱える抱えられるという相互の関係が解消されて自立し、そこに過去の情念も昇華されたとき、近代的職業の成立となっていったといえよう。