調査研究

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大阪の部落史通信・27号(2001.10)
新聞記事と部落14

米騒動と部落(2)

里上龍平(大阪の部落史委員会事務局)

 米騒動に関する新聞記事があらわれるのは、八月三日に富山県西水橋町の出稼漁夫の妻たちが、米の移出を阻止するとともに、米の廉売を要求して立ち上がった事件が最初である。新聞はこれを「女一揆」と称した。

 それが拡大して全国にまで波及するきっかけになったのは、八月一〇日の京都の騒動であった。新聞は次のように報じている。

 「十日午後七時、京都下京区柳原町の細民部落に米一揆勃発し、約一千名の人数丸太・棍棒等を手にして高瀬七条下る川井白米商を襲ひ、表戸を破りて闖入暴行を働きしを手始めに、高瀬附近の米商方へ片ツ端より乱入し米の売値を引下げるべく逼り、一隊は柳原町警官派出所を打壊し、幾団に分れたる暴民隊は最寄の各米屋を脅迫しつゝ喊声を揚げて進」んだ(『大阪毎日新聞』一九一八年八月一二日)。

 京都では翌一一日も、下鴨の田端町、鹿ヶ谷町、田中村、竹田村、三条余部などの住民が米屋などを襲った。八月一二日付の『大阪毎日新聞』は「再び勃発せる京都の大騒擾 軍隊の出動を求む」と大きな見出しをつけている。

 大阪では八月一一日夜の天王寺公会堂での市民大会が米騒動のきっかけとなった。市民大会は午後九時半無事に閉会しようとしたところ、突然参加者の一人が演壇に上り何か訴えようとしたのに対し、警察の側がこれを制止しようとしたため、三千の群集はいきり立って物情騒然となり、午後一一時になっても群集は解散する気配がなかった。

 「然るに是より先き、公会堂の演説会場に赴きて満員の為め入るを得ざりし一部のものは、今宮町釜ヶ崎関西線南側の広場に到りて野天演説を始めたるに、細民は鬨の声を揚げて集まり来り、忽ちにして三千余名の大集団を作り、附近なる字飛田の天正米穀店に闖入し、一升二十五銭にて売渡すか渡さぬかとの強談判を始め、警戒の巡査が制止」するのを振りきって店格子を破壊した。折しも散会した市民大会の千余名もこれに合流して、一隊は天下茶屋・玉出方面に向かい、他の一隊は木津敷津町方面に向かった。一方、市民大会を解散した群集の大部分は日本橋四・五丁目方面に殺到した(『大阪毎日新聞』一九一八年八月一二日)。

 一二日夜も再び騒動がおこり、市内では西区三軒家附近、玉造・鶴橋方面、九条方面、福島方面、天神橋筋六丁目など、大阪市近郊でも平野郷町、田辺町などで米穀商が襲われた(『大阪毎日新聞』一九一八年八月一三日)。そして大阪でも第八聯隊・第三八聯隊の大部分が鎮圧のために出動している。

 八月一四日には内務省によって騒動の記事の掲載が禁止され、以後紙面は内務省発表の公式的なものになる。

 ところで、部落民の騒動への参加については、新聞記事の限りではそれと特定することは困難である。当時の部落の生活実態からして、地区によって差はあろうが多数かある程度の数の住民が参加したことは間違いあるまい。わずかに、京都で住民が立ち上がった箇所が部落であるところが数カ所あるのと、大阪では住民が立ち上がったところが大部分スラムであり、その中には部落に隣接しているものもあるところから、部落民の参加が推定できる。