はじめに
現在の堺市協和町は、堺市に合併するまで、長い間、舳松村に属していた。その舳松村は一九二五年に堺市と合併したが、合併問題が起きた際、米田富ら水平社同人の応援を得て、泉野利喜蔵らが部落の人びとに働きかけ、合併反対運動を展開したところとして知られている。
したがって、同村の合併反対運動については、『堺市史続編』第二巻や、『堺市制百年史』にも取りあげられ、記述されているが、合併反対運動に直接かかわった人の中にも、後年、当時の模様について発言したり、書き残したりしている。たとえば、中田重雄は『泉州日報』の一九六〇年六月一三・一五・一六日付に「三十五年前の思い出―堺市と元舳松村の合併問題の真相」を発表している。卒田正直も『解放新聞 大阪版』第三五九号(一九七九年五月七日)の「むしろ旗たてて村がもえた」のほか、著書『少年の日の水平社―舳松村の仲間たち―』(解放出版社、一九八七年)において、合併反対運動が行われたころの部落内の状況について詳しく述べている。けれども、舳松村と堺市との合併については、今日まで関係史料もほとんど公開されておらず、史実をまげて伝えられているところもあり、解明すべき課題も多い。幸い、今回『大阪の部落史』史料編の刊行にあたり、史料の収集がなされている中で、舳松村と堺市との合併に関する貴重な史料が数多く発掘された。いずれ、それらの史料を用いて舳松村の合併反対運動を本格的に考察したいと思うが、ここでは紙数の関係上、その一部を紹介し、誤解されている部分の訂正を試みることとする。
一 舳松村の合併賛成答申
合併反対運動について述べるまえに、もう少し当時の舳松村の状況について触れておきたい。合併前の舳松村は、堺市に接続する村で、大字南と大字北に分かれ、地元の人びとは南方、北方と称していたが、南方が被差別部落であった。村全体の人口は五千人弱、戸数は一千戸強の村であったが、いずれも六対四の割合で南方の方が多かった。一九一八年につくられた『部落台帳』によれば、南方の人びとの職業としては、農業に従事する者が農業日稼ぎの者を加えても二割弱で、その他は下駄・靴直しや下駄表職あるいは雑業などに従事しており、貧しい人の多い部落であった。大正期においても、入学適齢者に対する入学者は四八パーセントで、不就学者が半数をこえていた。村内に尋常小学校が一校あったが、「村立ナルモ他部落児童ハ混同教育ヲ潔トセス堺市ニ委託教育ヲ受」(『大阪同和教育史料集』第三巻、七頁)け、村内の小学校に通学するのは南方の児童だけであったという。
南方の人びとに対する差別は、学校教育だけでなく日常的にみられたが、一九二二年四月二三日、舳松村で泉野利喜蔵らによる「部落改善促進運動演説会」が西光万吉・駒井喜作らをむかえて行われ、水平社の宣伝がなされた。そして同年七月五日、舳松水平社が設立された(部落解放同盟大阪府連合会堺支部編『堺の解放運動―舳松水平社七〇年史』三九〜四〇頁参照)。同水平社の中心となって活躍したのは泉野利喜蔵であるが、泉野については渡辺俊雄「泉野利喜蔵の足跡―略年譜と解説」(『部落解放研究』第二六号)に詳しい。
舳松水平社は、結成後、差別撤廃をめざしてたたかい、部落民の連帯の輪をひろげていったが、そうした活動がつづけられている中で、舳松村と堺市との合併が進められたのである。
舳松村と堺市との合併が具体化するまでの経緯については、別の機会に詳しく述べることにするが、一九二四年一二月二六日付の『大阪毎日新聞』は、二五日に開かれた都市計画大阪地方委員会において、堺市および泉北郡舳松村・三宝村・神石村・浜寺町をもって堺都市計画区域とする内務大臣の諮問案が是認されたと報じるとともに、「堺市と舳松村年度末迄に合併が出来さう」との見出しを掲げ、次のように報じた。
堺市と泉北郡舳松村は行政上から衛生的に保安的に行政区画を異にすることの少からず不便を感ずるのみならず依託児童の教育関係もあるので堺市に合併問題が大正九年四月向井、湊、両町が市に編入されて以来問題となってゐたが本年府立農学校が同村に移転し来ることゝなつたのと最近仁徳御陵道の完成を告げたので併合問題が急に進捗したので斎藤堺市長は過般来上京内務省当局の諒解を求めてゐるが本省に於ても併合は大体に於て至当との見解を有し居れば年度末までには実現を見るであらう
右のような新聞記事を読んで、村民は驚いた。中田重雄の記すところによれば「この不意のニュースに村民は驚き早速団体の役員が理事者を訪問したら『新聞は堺市の宣伝のためにのせたのでせよう合併の話なんか何もない』と、いともあつさり新聞を否定した答弁であつた」(『泉州日報』一九六〇年六月一三日)という。しかし、翌一九二五年一月一〇日、大阪府内務部長は堺市長に「貴市境界ヲ変更シ泉北郡舳松村ヲ編入スルノ必要ヲ認メ別紙ノ通リ其ノ市会ニ対シ諮問相成候ニ付直ニ之ヲ伝達シ必ス期日内ニ答申セシムル様御措置相成度」と記した「市域変更ノ件ニ付依命通牒」を送ってきた(『舳松村編入一件書類』)。同時に府知事名で堺市会に対し「大正十四年四月一日ヨリ堺市境界ヲ変更シ泉北郡舳松村ノ全部ヲ其ノ市ニ編入シ村有財産竝負債ハ大正十四年三月三十一日ノ現在ニ依リ総テ堺市ニ帰属セシムルモノトス仍テ其ノ会ノ意見ヲ諮フ 右大正十四年一月十七日迄ニ答申スヘシ」(同前)との通達があった。舳松村の村長・村会に対しても同じような内容の諮問があったと思われる。
堺市会は一月一五日に開かれたが、まず協議会を開会、知事の諮問および編入に対する舳松村の希望条件などを協議し、次いで本会議に移り、舳松村との合併の件は「満場一致で賛成の答申をすることに決し」(『大阪毎日新聞』一九二五年一月一六日)た。そして一月一六日の新聞は、堺市会が舳松村合併に賛成の答申をしたと伝えるとともに、舳松村会が一六日に開かれ、「堺市編入合併の諮問案に対する答申の件を附議する」(同前)とも報じた。
また、舳松村の堺市編入にあたり、編入に対する舳松村の希望条件一二項目が一六日の『大阪朝日』『大阪毎日』『大阪時事』などの新聞に掲載された。『大阪朝日』によれば、堺市会においては「希望字句ニ二三修正し満場一致で可決確定」(同紙、一九二五年一月一六日)したという。すなわち、舳松村と堺市との合併については、府知事の諮問があるまえから、両者の間で話し合いが行われ、一五日に舳松村の希望条件を次のような「覚書」にしたのである(『舳松村編入一件書類』)。
覚 書
舳松村ヲ堺市ニ合併ニ付左ノ事項ヲ協定セリ
一、舳松尋常小学校ニ在学スルモノハ授業料ヲ免除スルコト
二、本村家屋税等級ハ合併後拾箇年間堺市等級ノ最末等タルコト
三、地租附加税国税営業税附加税ハ制限ヲ超過セサルコト
四、適当ノ地域ニ道路並ニ下水路ノ完全ヲ計ルコト
即チ堺市東湊町南端小栗街道ヨリ本村ニ通スル道路ヲ新設及同小栗街道ヨリ本村南方部落ニ通スル道路ヲ改修並ニ堺市安井町ヨリ本村領域御陵道ヲ横断本村道路ニ通スル道路ヲ改設スルコト
五、市ニ編入後ハ小学校ニ雨天体操場ヲ設置スルコト
六、編入後ハ本村一円ヲ同一町名トシテ改称スルコト
七、本村児童ハ編入後ト雖モ本村学校ニ収容シ学区ヲ変更セサルコト
八、本村住民ニシテ無資産者ニ対シ伝染病発生隔離病舎ニ収容ノ場合ハ費用全部ヲ無料トスルコト
九、本村現有給吏員ハ市吏員ニ採用シ村在職年数ヲ通算シ市退隠料条例ヲ適用スルコト
一〇、本村有財産ハ総テ堺市ニ帰属セシムルコト
一一、上水道敷設ハ合併ト同時ニ起工シ漸次本村内全般ニ普及セシムルコト
一二、本村内適当ノ位置ニ消防屯所ヲ設置スルコト
右之通協定ニ付本書二通ヲ作製シ署名捺印ノ上双方ニ於テ各一通ヲ領置スルモノトス
大正十四年一月十五日
泉北郡舳松村長 柴田利次□
堺市長 斎藤研一□
舳松村では、一月一六日に村会を開き、村長が合併条件をはじめ、知事の諮問などについても説明し、満場一致をもって合併答申を可決することにしていた。ところが、『大阪朝日』によれば、「議員中田利一氏反対を主張したので柴田村長は合併の有利を説いたが同氏聴かず」(同紙、一九二五年一月一七日)結局、賛成多数で、合併賛成の答申をすることに決したという。当日の村会は、午前九時に開会し、一〇時半に閉会したから、合併問題を十分時間をかけて審議して決定したとはいえない。けれども、『堺市制百年史』に記されているように、「舳松村側は『何等希望条件ナク、即チ無条件ニテ可』という姿勢をとり」(同書、二五四頁)合併に賛成したというわけではない。また、「村会議員も南部(反対派)と北部(賛成派)とに分裂」(同書、二五六頁)していたのではない。卒田正直の語るところによれば、当時「村長は南舳松からでていたんですが、村長はじめ南舳松からでていた村会議員もほとんど編入賛成派でした。そんななかで、阪本権一郎さんと中田利一さんだけが村議会で編入に反対で」(『解放新聞 大阪版』一九七九年五月七日)あったのである。南方の村会議員が合併反対派で固められたのは、反対運動が起こって、合併が六ヵ月延期となり、同年四月に村会議員選挙が実施され、反対派が大勝してからのことである。
二 合併反対運動
泉野利喜蔵らの指導のもとに、舳松村の堺市合併反対運動が行われたが、この運動に若くして参加した卒田正直は、後年、堺市との合併問題について次のように述べている。すなわち、「柴田村長ならびに、舳松村会が、重大なあやまちを犯した。まず堺市からの呼びかけがあったとき、柴田村長は、それを住民に知らせなかった。村会にも、少数の有力議員だけに知らせ、秘密のうちに、ことをすすめた」(卒田前掲書、一四二頁)ことが、「村はじまって以来の大騒動となった」(同前)原因であると。新聞などでは、時々、堺市と舳松村との合併問題を報じていたが、南方では「大正年間は、村で新聞の月ぎめは、きわめて、まれで、朝日新聞が数戸に配達されているのみであった」(同書、一四五頁)というから、村会で合併が議決されたことを聞くまで、南方では堺市との合併について何も知らなかった人も多くいたであろう。そうしたことが、数年前からの水平社の活動により、権利意識の高揚していた人たちを合併反対運動にむかわせたのであった。
村会で合併が議決された翌一七日、早速、合併反対派による第一回村民大会が開催され、合併反対を決議し、実行委員を選出した。これから三月中旬にかけて、しばしば村民大会が開かれた。また、先にも述べたように、この合併反対運動は泉野利喜蔵ら舳松水平社のメンバーの主導のもとに進められたが、米田富らも支援しつづけたことは、よく知られている通りである。
ところが、堺市会・舳松村会につづき、府参事会も一月二九日に舳松村の堺市編入案を即決した。『大阪毎日』によれば、当日、反対派を代表して青年会長の植田伊八郎らが編入反対陳情のため府庁へ押しかけたが、参事会では「泉北郡選出の小林議員から即決に対する反対意見が出たが、結局多数を以て原案通り即決することに決し」(同紙、一九二五年一月三〇日)たのである。
合併反対派は苦境に立たされたが、それでも反対運動をつづけた。委員が上京して内務大臣に反対陳情をしたり、村長や合併賛成派の村会議員が経営する商店から日用品を一切購入しないことを村民大会で決議したり、合併反対の大示威行進をしたりするなど、さまざまな形態の反対運動を展開し、反対運動を盛り上げていった。
二月中旬ごろからは、前代議士南鼎三ほか数人の者が調停に乗り出した。二月二四日には「沼田代議士及び全国水平社幹事米田富の両氏は堺市長を訪問し合併利害関係につき調査するところがあった」(『大阪朝日新聞』一九二五年二月二五日)と新聞は報じているが、その後沼田嘉一郎は関係者から事情を聞くなどして調停を試みている。沼田のこうした働きかけもあって、三月下旬になり、舳松村の堺市編入を一〇月一日まで、六ヵ月延期することが決まった。合併反対運動は、一応成功したといえよう。
合併が延期となったので、舳松村では四月に村会議員と村長の選挙が実施された。卒田正直の語るところによれば、村会議員選挙では、定員一八人のうち、反対派から一〇人が当選し、その勢いに乗って村長選挙では反対派の阪本権一郎を選び、中田利一を収入役としたという(『解放新聞 大阪版』第三五九号)。しかし、当時、舳松村の村会議員の定数は一二人であったから、この点については疑問が残る。ともあれ、これから合併までの半年間、合併反対派が村政のイニシアチブをとり、合併問題に対処することになった。
改選後の新村会は、早速、堺市との合併に対する新しい希望条件をまとめ、堺市との交渉に臨んだ。だが、堺市の理事者は、既に決定している希望条件を今更変更する必要がないとして取り合わなかった。北方選出議員も、堺市に同調し、前理事者が取り決めたことについて、改めて議する必要を認めず、旧条件によって合併しても差し支えないとの態度をとった。こうして問題が解決せぬまま日が過ぎていったが、八月一五日の村会における協議会で、北方選出の高野喜市議員が「村有財産等ノ処理ヲセズ其ノマヽ編入スルナラバ堺市ヨリ金壱万二三千円モラフ約束アリ」(「陳情書」―『舳松村編入一件書類』)と発言した。それが合併反対派の人びとに、合併をめぐって何か不正があるかのような疑惑の念を抱かせることになり、一時収束していた合併反対運動を再び盛り上げることとなった。
九月一〇日、南方の有志村民を代表し、村会議員四人が堺市長と会見、「合併条件として村の各種団体に三万円を交附、幹線道路を三間幅に改修、市会議員二名を編入後選出せしめる事」(『大阪毎日新聞』一九二五年九月一三日)などの条件を提示し、もし、これらの要求がいれられなければ合併に反対すると述べたという。そして、九月一七日と二一日に村民大会を開き、編入反対を決議するなど、気勢をあげた。そのようなことから『大阪毎日』は、「最近阪本村長等が先頭に立つて猛烈な第二期編入延期運動を行ひ目的の貫徹につとめてゐる」(同紙、一九二五年九月二二日)と報じたが、合併の期日を目前にして堺市と舳松村の委員が会見し、解決方法を協議する一方で、水平社同人米田富や村会議員阪本清三郎らが上京し、合併延期について内務省と直接交渉したりした。
交渉は難航したが、九月三〇日になり、「交渉を再三重ねた結果京都市の淺田義治氏の調停で、保留となつてゐた各種団体に対する交附金は一万七千円に妥協が出来円満解決を見た」(同紙、一九二五年一〇月一日)のであった。そこで、改めて堺市長と舳松村長との間で、次のような「覚書」が交わされたのである(『舳松村編入一件書類』)。
覚 書
舳松村ヲ堺市ニ合併ニ付左ノ事項ヲ協定セリ
一、舳松尋常小学校ニ在学スルモノハ十ヶ年間授業料ヲ徴収セサルコト
二、本村家屋税等級ハ合併後拾箇年間堺市等級ノ最末等タルコト
三、地租附加税、国税営業税附加税ハ制限ヲ超過セサルコト
但一部地域ニ限リ税率ヲ低減スルコト能ハサルトキハ此ノ限ニアラス
四、適当ノ地域ニ道路並ニ下水路ノ完全ヲ計ルコト
即チ
(イ)堺市東湊町南端小栗街道ヨリ本村ニ通スル道路ヲ大正十九年度迄ニ新設
(ロ)同小栗街道ヨリ本村南方部落ニ通シ舳松尋常小学校前ヲ経テ御陵道ニ至ル道路及舳松村地蔵尊附近ヨリ百舌鳥村ニ至ル横山街道接続迄ノ道路ヲ大正十五年度ヨリ大正十七年度迄ニ改修
(ハ)堺市安井町ヨリ本村領域御陵道ヲ横断シ本村道路ニ通スル道路ヲ大正二十年度迄ニ改修
以上新設又ハ改修道路幅員ハ総テ三間以上トスルコト
下水路ハ現在一間以上ノ道路地下ニ改修施設スルコト
五、市ニ編入後ハ大正十五年度ニ於テ小学校ニ雨天体操場ヲ設置スルコト
六、編入後ハ本村一円ヲ適当町名トシテ改称スルコト
七、本村児童ハ編入後ト雖モ本村学校ニ収容シ通学区域ヲ変更セサルコト
八、本村現有給吏員ハ市吏員ニ採用シ村在職年数ヲ通算シ市退隠料条例ヲ適用スルコト
九、本村有財産ハ総テ堺市ニ帰属セシムルコト
十、本村各種団体ニ対シ維持金トシテ編入ト同時ニ総額金壱万七千円ヲ堺市ヨリ下附セラルヽコト 但シ下附金分配方法ハ合併遂行委員ニ一任スルコト
十一、上水道敷設ハ合併後二年内ニ起工シ本村内全般ニ普及セシムルコト
十二、本村内適当ノ位置ニ消防屯所ヲ設置スルコト
十三、市ニ編入ト同時ニ市会議員二名増員ノ手続ヲ為スコト
右之通協定ニ付本書二通ヲ作製シ署名捺印ノ上双方ニ於テ各一通ヲ領置スルモノトス
大正十四年九月三十日
堺市長 斎藤研一□
舳松村長 阪本権一郎□
こうして一九二五年一〇月一日、舳松村は堺市と合併したが、『堺市史続編』に述べられているように、「この合併条件はなかなか実現されず、昭和二(一九二七)年以後、またまた紛糾する」(同書、第二巻、一一五頁)ことになった。しかし、それらの問題については同書に譲り、ここでは触れないこととする。
むすびにかえて
舳松村の堺市合併反対運動は、水平社の米田富らの支援を得て進められ、水平社運動としても注目にあたいする運動であった。最後は、合併反対派が妥協して堺市と合併したが、合併反対運動は、ある一定の成果をあげたといえよう。たとえば、九月の「覚書」にあるように、合併後に市会議員二人増員することを確約させたり、村内の各種団体に対し維持金として一万七〇〇〇円を堺市から舳松村に交付させることにしたりした。また、合併反対運動を通して、村民の多くを水平社運動に立ちあがらせることに成功したほか、卒田正直がいうように「この運動を契機に、大衆を政治的にめざめさせ」、「中央の政治、地方の行政の権威を打ち破ること」(卒田前掲書、一六五頁)にも成功した。けれども、合併反対運動が行われる中で、舳松村の南方と北方との対立が従前にもまして深まっただけでなく、南方の中においても、合併賛成派の住民と反対派の住民との間に亀裂が生じ、中には前村長の柴田利次のように、追われるようにして村を去った者もいたのである。
次に調停者について少し述べておきたい。この合併反対運動は、合併の時期を六ヵ月延期させたりしたことから、一応成功したといえる。それは、すぐれた指導者がいたからでもあるが、調停者にめぐまれていたからでもある。数人の政治家が調停に乗りだしたが、中でも沼田嘉一郎の果たした役割は大きい。沼田は被差別部落出身で、当時代議士であり、政友本党大阪支部幹事長であって、大阪政界の有力者の一人であった。しかも、彼は都市計画大阪地方委員会委員であった。それだけに彼の斡旋が功を奏し、六ヵ月延期が実現したともいえる。ところが、『堺市史続編』や『堺市制百年史』などでは、「大阪府選出の代議士」が調停などにかかわったとは記されているが、なぜか沼田が積極的に調停につとめたことについての記述がない。史実は史実として認め、沼田の調停活動なども明らかにした上で、この合併反対運動及び沼田の行動などをどう評価するか、改めて考える必要があるのではなかろうか。
また、同じ時期、依羅・住吉・城北の三ヵ村も大阪市との合併に反対したが、これら三ヵ村の合併問題に関する研究は、今のところなされていない。舳松村の合併反対運動との間には、何か関連するものがあるのだろうか、ないのだろうか。たとえば、水平社はこれら三ヵ村の合併反対運動にまったくかかわりを持たなかったのであろうか。そうしたことも視野に入れて、これら三ヵ村についても、今後研究する必要があるのではなかろうか。
最後に、本稿においては、紙数の関係で合併反対運動のなかでみられた諸事件については、ほとんど記述せずに終わったことを断っておかなければならない。他日、機会があれば、はじめに述べたように別稿において、そうした問題についても考察することにしたい。
(付記)
本稿作成にあたり舳松歴史資料館から多大なる御協力を賜りました。末筆ながら厚く御礼申し上げます。