旧南王子村(現和泉地区)を語る上で貴重な史料が三つある。近世南王子村について記されている『奥田家文書』(一九六九年刊行)、近代に入り南王子村青年団の思いが書き記された青年団誌『國の光』(全一〇八号)、そして今回刊行された『逵田良善日記』である。どの史料も旧南王子村だけでなく部落史を語る上で貴重な史料である。
『逵田良善日記』の原本は、逵田さんご本人が、一四才からほぼ六〇年にわたって毎日のように書き続け、推定で二〇〇冊はあるだろうと言われており、現存しているものでも一六〇冊あまりがある。これらは逵田さんの娘さんたちが大切に受け継いできたもので、公になったのは一九八三年の南王子水平社創立六十周年記念誌『吾等の叫び』の編集の時に部落解放同盟和泉支部を通じて同書で紹介されたのがきっかけだ。
しかし、『吾等の叫び』では『逵田良善日記』の細部には触れられてはおらず紹介だけであった。その後研究らしい研究はされていなかったが、今回、部落解放・人権研究所伝承文化部会が五年もの歳月をかけて解読し、『逵田良善日記』として刊行をおこなった。地元の人間からすると貴重な史料の完成のために心血を注がれた伝承文化部会の皆さんに対し、頭が下がる思いである。本紙を借りて心よりお礼を申し上げたい。
さて、逵田良善こと逵田秀一さんのことを少し紹介すると一八九〇年(明治二三)に南王子村で生まれ、生後七日にして病のため右目が失明、左目は近視になり、その後尋常小学校へ行くも中退し、一一才で阿呆陀羅教門付け芸人宮川由(善)丸に弟子入りし、一二才で浪曲師宮川安丸に弟子入りし、安丸について全国巡業にまわり、そしてわずか一四才で一人で全国を巡業した説経師である。
逵田さんは最初の頃、浪曲、浪花節を主にしていたようだが、浄土真宗の僧侶になって以後は、仏教の教義に節を付けて庶民に布教する節談説経師として活躍する。途中節談説経は本山から禁止されるが、庶民の人気は高く禁止後もおこない、節談説経が衰退した時期以後も庶民の要望に応えるようにしておこなっていた。逵田さんは亡くなる一九六三年まで全国を巡業し説経をおこなった。まさしく放浪の説経師である。逵田さんが約六〇年の間に巡業したのは、南は九州長崎から北は北陸の新潟まで基本的に歩きながらまわったようである。
『逵田良善日記』をみると逵田さんはなんという神経の細やかな人だと感じる。日記には巡業先までの交通手段や費用、巡業を受け入れてくれた方の名前はもちろんのことそこで頂いたおみやげなども克明に書かれている。また、それだけでなく社会情勢や南王子村でおこった出来事なども書かれている。これを見れば逵田さんの性格の一端がよく分かる。
今回刊行された『逵田良善日記』は南王子村の歴史や生活を学ぶための史料として活用することもでき、また、大正・昭和初期の社会情勢を知ることもできる。それだけではなくこれまで説経師の生活等を紹介した本がなかったが、『逵田良善日記』は、はじめてと言ってもよい説経師の生活を記した貴重な史料だと言えるだろう。そのことから説経師の生活の研究史料として活用したり、そのほかにも、浪花節、芸能といった芸能史を研究する史料としても価値がある。このように『逵田良善日記』は一面的な見方ではなく、多面的な見方で研究されることが望ましい史料である。この本は様々な読み手の観点によって違った見方ができる大変おもしろい史料である。みなさんも一度手に取り色々な見方で読まれて見てはどうでしょうか。
(解放出版社、二〇〇一年三月刊、A5判四七五頁、定価六五〇〇円+税)