調査研究

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大阪の部落史通信・28号(2002.1)
明治初期における大阪の芸能
―非人身分とその芸能― 

中島智枝子(大阪の部落史委員会委員)

(前号からの続き)
四 辻芸・門芝居について

 非人身分層に関わりの深い辻芸や門芝居であるが、芝居小屋や見世物小屋ならぬ人々の生活の場である大道で行われた芸であり様々なものがあった。幕末期における風俗について知る格好の書である喜田川守貞の『守貞謾稿』(巻之七雑業)(喜田川守貞著・宇佐美機校訂『近世風俗史』(一)、岩波文庫、一九九六年)には辻芸と考えられる様々な芸が挙げられている。大坂で見られたものとして次のようなものが挙げられている。願人坊主(住吉踊り、金毘羅行人、庚申の代待)、考へ物、御日和云々、神楽みこの扮、すたく坊主等がある。その他、綾取り、猿若、辻放下、からくり、浄瑠璃、説教、物真似、仕形能、物語、講釈、首掛け芝居等が挙げられている。修業しなければできないものもあれば、そうでもないものもあるが、ともあれ、これらの芸を通して幾ばくかの銭を得るのである。

 同書では「乞食芝居」について次のように説明している。

種々芝居の扮を真似て大道を行き、別に一、二人銭を乞ふあり。あるひは一人にて芝居をし、帰りに銭を乞ひ、一町限かくのごとくするもあり。また大坂には数人連れ来り、巨戸の需めに応じて芝居一段をなす。狂言は扮により、その日の定めあり。一段をなす者、その家より白〔米〕一升、銭二、三百文を与ふ。隣家これに准じて少なく与ふ。天保府命後、これを止む。嘉永中、京坂一切これを禁ずか。同六年、数人江戸に来る。その内一日三十六人江戸に着せしことありと聞く。当時、五、七人門前に来らざることこれなし、恐らくは、近日これを禁止あるべし。

 ここで説明されている「乞食芝居」であるが、大道や門前で行われた芝居を指していることから、門芝居とを指していると考えてよいのではなかろうか。同書によると、この大道で行われる芝居は、天保の改革後、見られなくなり、嘉永年間(一八四八〜五四)京坂では禁止になった。このため江戸に芸人達がやって来ることとなり、江戸でも近いうちに禁止されるのではないかということである。

 幕末期、一旦は禁止された大道で行われる芝居が、一で見た大阪府や京都府の出した布令からもまた行われるようになったといえる。

 大阪府は一八七一年(明治四)一月二五日、芝居や説教座や小見世ものの興行に対して売上げの二〇分の一を賦金として課税した。この後一八七二年(明治五)三月、大阪府は「市中・郡中・寺院制法、町役心得条目、大庄屋役・村庄屋年寄役可心得条々」を出し、相撲や芝居、狂言を許可なく興行することを禁止した。ついで、同年四月二日、芸能は勧善懲悪を旨とすることを謳う芝居仕組大意書の提出を興行主に求める達しを出した。最近の芝居は「猥ヶ間鋪仕組を設け、独無益のミならず、大に弊害を生じ」ている。これらにより若年の男女が「遊蕩淫惰ニ流れ、家業を惰り風儀を破り候」ものも出てきている。このため、「濫ヶ間敷仕組」の場合は差止め等厳しく処置をする。仕組書を提出して許可を受けて興行を行うことを命じた。人民教化に役立つ芸能は認めるが、人民を「遊蕩淫惰」に導くものは厳しく取締るという行政の芸能に対する姿勢が、ここに鮮明に打ち出されたといってよい。大阪府がこの布令を出した直後の四月二七日、明治政府は芸能全般を教部省の管轄下に置き、芸能に対する統制を始める。大阪府ではこれに先立ち、芸能に対する統制が始まった。

 芸人に対しては、二年後の一八七四年(明治七)五月八日、鑑札を交付することとした。交付対象の芸能に挙げられている中に、後に大衆娯楽として流行する浪花節のルーツといわれるチョンガレや祭文がある。

 この後、大阪府は一八七六年(明治九)一月二七日、歌舞伎役者税、諸遊芸人税を設け、それぞれ四等級に分けて芸能者に対して課税した。歌舞伎では、一ヶ年一等級の二四円から四等級の三円、諸遊芸では、一ヶ年一等級六円から四等級の一円とした。歌舞伎役者が諸遊芸よりそれぞれの等級とも三倍の税金が課せられているが、歌舞伎役者の稼ぎが諸遊芸人よりも多かったことを物語っているのだろう。

 芸能者が課税対象となったことからも芸能者の数的把握が可能になったのだろうか。一八七八年(明治一一)、大阪府下の遊芸人の数が『大阪日報』(一八七八年一一月二二日)に報じられている。俳優五三三人、照葉狂言師六人、諸遊芸二二九〇人、相撲行司二一人、同頭取四二人、力士七二八人、合計三六二〇人である。九年後の一八八七年(明治二〇)には人数は四一四一人と報じられ(『大阪毎日新聞』)、その中に新内祭文語り一八人、猿廻し五人、浮れ節阿房陀羅経説一六人がいる。

 このように行政が、人民教化に役立つ芸能以外の芸能を「遊蕩淫惰」に導くものとして統制を加えていき、芸人を課税対象者として把握し始める中で、辻芸人や門芝居役者たちは禁止や取締りの対象になったからといって廃業するということはなかったと思われる。というのも彼らにとって芸能が生業であったからである。

むすび

 非人身分が行ってきた辻芸や門芝居が、「賤敷遊業」として禁止され、取締りの対象となる中で、彼等によって培われてきた芸能は、日本社会の近代化の中でどのように展開したのであろうか。解放令によって「芸能は特定身分の独占物ではなくなり、だれでも自由に演じ興行できるようになった」(徳永前掲書、四九ページ)といわれるが、賤視の一段と強かった芸能であっただけにこの後、誰もがこれらの芸能を継承したとは考えにくい。

 松方デフレ後の不景気が続く明治一〇年代後半、「例年の太夫どのとハ異なり中には例の鼓許りでなく胡弓三味線など加へて舞ひあるくものある由これは多分常式の万才舞でハなく大坂近辺の窮民乞食などの為すものなるべしといふ」(『日本立憲政党新聞』一八八四年二月二一日)とあるように、万歳に生活の糧を求める人々のいることが報じられている。常式ではないということだが、その代わりに鼓だけではなく胡弓や三味線を加えるという工夫を加え、それまでの万才の趣向を変えて面白くしているといえる。

 長町のルポルタージュを著した大我居士の「饑寒窟」では、長町では浮れ節や祭文が人気を博していることを報じているが、その中に「彼等の最も欣ひ聴くは即ち浮れ節なりといふ、蓋し彼等は之を楽しむの外に、之を習ひ得て亦一の生飯樹たらしめんと欲するか多きに由るならん」(『日本』一八九〇年一〇月一〇日)と述べ、浮れ節を習得した聴衆の中から実演者として舞台に立つ人々の存在を報じている。また同じルポ中、長町の人々の仕事を紹介する中で「唯口か手か目か鼻かを芸人的に動かすものにて、所謂学者の学士に同し、但此芸人は乞食に比すれは多少の人望あるをもて所得に二銭を加へたり」(『日本』一八九〇年一一月五日)という芸人の存在したことが語られている。

 非人身分が担ってきた芸能は、支配者側からは「賤敷遊業」という視点でしか捉えられなかった芸能であったが、これらの明治一〇年代後半から二〇年代にかけての不景気の中で芸能に生活の活路を求めた人々がこれらルポルタージュに登場している、これらの人々の中に後に大衆芸能として開花する浪花節や漫才のルーツを見ることができるといえる。