調査研究

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大阪の部落史通信・29号(2002.3)
 
『大阪の部落史』4巻、刊行

北崎 豊二(大阪経済大学)

  はじめに

 このたび、『大阪の部落史』第四巻(史料編 近代1)が、多くの機関や個人の方々の御協力を得て、ようやく第七巻、第八巻につづいて発刊されることとなった。

 第四巻が対象とする時期は、一八六八年の明治政府の成立から、大阪府が救済事業に対し、本格的に着手する一九一三年までである。四〇〇点をこえるこの時期の史料を行政、町村合併、実態、民権、社会運動、改善事業、教育、文化・思想、宗教の八つに分類し、掲載した。

 掲載した史料に記されている地名や人名などの扱いについては、おおむね既刊の方針を踏襲した。地名については、原則として小字までそのまま掲載したが、一部伏字としたところもある。人名については、プライバシー保護の立場から、公人として記されている人名はそのまま記載したが、私人として記されている人名については、姓名とも伏字としたところもある。御了承願いたい。

一 本巻の概要

 次に、第四巻の概要について述べたい。

 江戸幕府の崩壊によって成立した明治政府は、発足後、封建的諸制度をあいついで撤廃するなど、近代化政策を打ち出した。その中で、本巻とかかわりの深いものをあげれば、一八七一年三月、太政官から斃牛馬の持主勝手令が布達され、従来穢多身分に引き渡されてきた斃牛馬を今後は持主が勝手に処分してよいことになり、斃牛馬処理権が政府によって否定された。次いで同年八月、解放令が布告され、穢多・非人等の称が廃され、身分・職業共平民同様となった。同時にこれまで認められていた地租その他免除の慣行も廃止されることになった。また、同年四月に戸籍法が制定され、翌一八七二年二月に施行された(壬申戸籍)。だが、現在大阪府域である堺県では、これとは別に一八六九年二月の府県施政順序にもとづき「戸籍編製規則」を定め、解放令が布告されるまえに戸籍を編成した(辛未戸籍)。

 一八七二年八月、政府は学制を頒布し、国民皆学をめざしたが、一〇月には人身売買禁止令と芸娼妓解放令を出した。そして一八七四年一二月、日本最初の救貧法である恤救規則を制定した。

 政府はこうした法令をつぎつぎと制定したが、それによって部落はどう変わったのか、変わらなかったのか。そこに主眼をおきながら、資本主義の発展とともに増加する傾向にあった都市貧民なども視野に入れ、史料を収集して編集したのが本巻である。テーマごとの内容については、詳しくは第四巻の「解説」を読んでいただきたいが、次に順を追って簡単にその内容を紹介することとする。

二 各テーマの内容

 (一) 地方行政のなかの部落     (担当 北崎 豊二)

 政府の示した近代化政策にもとづき、大阪府や堺県も、近世の身分制廃止を進める諸法令を布達した。賤民の呼称が廃止されただけでなく、取り扱いも大きく変わった。四ヶ所長吏やその手下の者などに対しても、呼称を変えただけでなく、新たな規制を加え、やがて警察の末端業務からも排除していった。

 戸籍の場合、堺県の一八七一年の戸籍では、非人番戸籍・穢多戸籍・小屋住非人戸籍などと分けて編成されたが、翌七二年に編成されたいわゆる壬申戸籍では、その間に解放令が布告されたこともあって、記載内容に変化がみられた(解放令後、七一年の戸籍法第三二則を削除)。

 しかし、解放令が布告された後においても、部落差別は解消せず、差別事件が後を絶たなかった。また、国民皆学となったことにより、部落も多額の教育費を負担することになった。これが部落の財政を圧迫し、部落だけで一村独立することを非常にむずかしくしたといえる。

 (二) 町村合併と部落     (担当 北崎 豊二)

 いつの時代でも、住民の意向を無視した町村の分合は紛争を呼んでいる。一八七〇年、南王子村は王子村への合併を堺県から申し渡された。これを知った住民は、存続運動をつづけ、独立村として存続することに成功した。

 一方、栄町他九ヵ町(旧渡辺村)は、維新後もしばらく大阪市街地に属したが、一八七九年二月の区画改正により西成郡に編入された。住民の中には郡部に属する方が好都合とする者もいたが、豪商らは市中への編入を希望した。そして彼らを中心に長期にわたって市部編入運動を行ったが、容易に実現しなかった。だが、商工業が発展し、大阪市に人口が集中するとともに接近町村にも工場が設けられ、人口が増加すると、市は市域を拡大する必要に迫られ、一八九七年四月に西浜町など二八ヵ町の全部または一部を編入した。その際、市は多額の機密費を使って関係町村の同意を得るように取りはからうとともに、西浜町など編入する町村から出された希望条件をのんでいる。

 その他、一八八八年から八九年にかけて、全国的に町村合併が進められたが、部落との合併に難色を示した村があった。

 (三) 仕事と生活の変化     (担当 小林 丈広)

 近世の身分制下において独占的な地位にあった皮革商は、身分制の解体と市場経済の進展により、その地位は揺らいだ。こうした事態に対処するため、同業組合を組織すると同時に、業界の再編成を試みるなど、生き残る道を模索した。

 また、前述のように、一八七一年三月の斃牛馬の持主勝手令により、斃牛馬の処理が部落の人びとの特権ではなくなったが、南王子村のように、解放令を機に、斃牛馬の取り扱い禁止を申し合わせたところもある。けれども、それに代わる仕事が簡単に確保できず、この種の仕事に従事していた部落の人の中には生活に困る人もいた。

 明治初年、木津村と安治川口に?畜場が設立されてから、郡部の他の村においても?畜場が設けられた。斃牛馬処理の衰退、皮革業の淘汰によって職業を失い、困っていた多くの部落は、?畜業に新たな可能性を見いだした。ところが、それも束の間、一九〇六年に?場法が制定され、民間?畜場は統廃合を余儀なくされたのであった。

 次に、スラムについてであるが、一八七七年には全国にコレラが大流行した。コレラその他の伝染病が以後も流行したことから、スラムの解消が緊急の課題となった。新聞記事やルポルタージュで、名護町がスラムの象徴として取り上げられ、報じられた。大阪市もその対策に乗り出し、長屋や宿屋への規制を強め、貧困者を市内から排除しようとした。一八九一年ごろには、名護町住民も市外転住を余儀なくされ、木津などに移住した。この結果、西浜町の膨張、部落の拡大となった。

 (四) 自由と平等をめざして     (担当 北崎 豊二)

 解放令が布告されても、部落差別が解消しなかったから、部落の人びとは部落の解放を求め、さまざまな政治運動に参加したほか、差別事件が発生すると抗議運動を繰り広げたりした。

 政治運動としては、自由民権期に栄町他九ヵ町(西浜町)の人びとは、民権結社に加盟したり、懇親会や演説会に出席するなど、民権運動の高揚に貢献した。第一回衆議院議員総選挙においては、『東雲新聞』に「新民世界」を掲載し、部落民の立場から平等を主張した中江兆民を積極的に支持し、彼を当選させた。

 また、部落出身の森秀次は、府会議員選挙の際には中傷されたりしたが、一八九五年に府会議員、一九〇三年に衆議院議員となり、政界で活躍した。ただ、彼の場合、この時期もっとも力を注いだのは地価修正運動であり、地主の利益擁護に熱心であった。

 それに対し、南王子村の中野三憲は、部落改善運動の全国組織である大日本同胞融和会の結成に尽力し、一九〇三年七月の創立大会で議長を務めるなど、部落改善運動に力を入れた。

 次に、差別事件についてであるが、一八七三年西天川村で取締番人が差別発言をし、それに村民が抗議した。一八九〇年には、西浜町民の西倶楽部への加入を拒む事件があった。町民の抗議により、当事者が謝罪し、解決したが、その後も森秀次への中傷など、数々の差別事件が発生した。

 こうした動きとは別に、部落の人の中には人力車夫となった者も多かったので、車夫についても少し触れている。大阪府は、一八八二年に人力車営業取締規則を定めるなど、車夫の風儀改善につとめた。けれども悪弊は容易に改まらなかった。ところが、一八八九年になると、自用車夫取締規則の制定を請願し、車夫仲間の風儀を改良しようとする車夫が現れた。また、一八九七年には、市中の車夫が結束し、人力車税の減税を府会に請願するなど、組織的な行動もみられた。

 (五) 改善事業の芽生え     (担当 秋定 嘉和)

 恒常的な社会救済施策は明治政府のもとで実施されることになったが、堺県では一八六九年に窮民救助の心得を布達している。大阪府では、一八七一年に大貧院を設け、身寄りのない老人・廃疾者・孤児・極貧者などを収容することにしたが、翌七二年に授産所と改称し、七三年にそれを廃止した。その後、府は一八八一年に貧民施療規則を定め、病にかかった極貧者などの施療につとめることとした。府が救済事業を恒常的に行うことにしたのは一八九九年になってからである。

 大阪市は一八八九年に窮民救助規則と貧民施療規則を定め、政府の恤救規則で救済できない極貧者の救助につとめた。

 一九〇〇年代に入ると、貧民救済を求める声が強まり、新聞に慈善団体の実態紹介が連載されるようになった。大阪私立衛生会の動きや曾根崎警察署の被差別部落に対する救済事業・就学奨励などについても報じられた。一九一一年には、毎日新聞慈善団の市内巡回診療も予告された。

 また、このころから部落改善事業と社会事業が結びついたものもみられるようになったが、民間の救済事業家として?客の小林佐兵衛や奥田弁次郎がいたことも見過ごすことはできない。

 一方、衛生対策として注目されるのは、一八七一年に大阪府が死畜を焼却処分するよう指示し、死畜の利用を禁じたことである。そして一八八二年、大阪府は斃牛馬の解体を免許地外で行うことを禁止すると同時に、牛馬伝染病取扱手続を制定し、その処理方法・取扱手続・代価などもきめて、きびしく取り締まった。

 大阪市では、人口の増加にともない伝染病もしばしば流行したので、その予防のため、道路・下水道などの清掃、屎尿・塵芥などの処理に追われた。大阪市は市の発展とともに、つぎつぎと発生する都市問題の解決に取り組まなければならなかった。

 (六) 近代教育と部落     (担当 吉村 智博)

 学制頒布にはじまる近代日本の教育制度は、部落にも大きな影響を与えた。教育をめぐって、社会との交錯と矛盾が露顕することになった。そうした点を、「部落学校」の成立や統廃合および部落の学校教育への主体的関与を通じて明らかにしようと試みた。

 栄町他九ヵ町(旧渡辺村、のち西浜町)では、一八七二年に小学校を設立したが、当初は寺院を仮教場とした。やがて、多額の積立金と寄附金により新校舎を建設し、維持・管理・運営にあたった。同部落は、教育によって差別からの解放を期し、学校教育に多くの犠牲をはらったのであった。

 農村の部落でも学校建設が進められた。南王子村では、村方騒動によって新校舎の建設は遅れたが、村内有志の人びとの尽力により、新校舎を建設し、小学校を存続させた。荒生村や道祖本村では、洋風のモダンな校舎を建設した。また、中には部落と部落外との共学が実現していた小学校もあった。

 ともあれ、学制が頒布された当初、現在の大阪府域においても、数校の分校化、いわゆる「部落学校」の生成がみられた。ただ、それらの多くは、後に本校へ統廃合されたり、いつの間にか消滅しているのである。

 次に都市部で問題となる学区についてであるが、一九〇〇年代にはいると、学区の分合問題が発生した。栄木津北島町の児童の通学区において、部落であるということから排除された。こうした部落差別が、近代教育の中でも各所にみられた。

 (七) 芸能と新思想     (担当 中島 智枝子)

 芸能の場合、近世において被差別民が担っていた芸能が近代に入ってどうなったか、河原乞食として蔑まれてきた芸人観などが改められたかどうか、こうしたところに重点をおいた。

 大阪府の布令などによれば、維新当初、猥褻なものの興行を禁止したり、諸遊芸を取り締まったりしたほか、役者を身分いやしい河原者とみて、その風儀を取り締まった。この時期、為政者の芸能観はまだ近世とさして変わらなかった。

 芸能に対する施策をみても、大阪府は一八七一年一月に芸能興行に課税し、翌七二年七月には芝居等諸興行心得を出し、開業したい者は冥加金を上納して鑑札を受け、その上で興行するよう命じている。また、一八八二年九月には、観物興行場並びに遊覧所取締規則を、一九一一年六月には無料興行類取締規則を制定した。遊芸人に対しても、一八七八年一〇月、府内で営業する場合、他官庁の鑑札を所持していてもそれぞれ府の鑑札を受け、納税するよう命じている。大阪府は見世物などの興行や遊芸人らをきびしく規制したのである。それでも、大阪府内に遊芸人は、一八七八年三六二〇人、一八八七年四一四一人いた。

 大阪府内には、多くの芸人が、さまざまな芸で糊口を凌いでいたのである。その中に、近世の非人芸の流れをくむ祭文が、近代に入って浮かれ節となり、一九〇〇年代に浪曲となって、大衆芸能を代表するものとなった。こうした動きの中で、役者を河原者として蔑視することを批判する評論が一九一〇年三月の『演芸画報』に掲載されたのであった。

 演劇で部落問題を取り上げたものとして、大倉桃郎の「琵琶歌」があった。これは一九〇〇年代を代表する作品で、多くの劇場で上演された話題作でもあった。

 新思想としては、一八七九年一月二一日の『大阪日報』に自由郷主人の「人権ノ弁」が掲載された。ついで、『文明雑誌』の第二・三・四号に「進路ノ荊棘」が掲載された。また、自由民権期に部落解放をめぐって大阪の新聞紙上で論争があった。一回目は一八七七年で、『大阪新聞』と『大阪日報』の紙上であった。二回目は一八八八年一月から三月にかけて『東雲新聞』紙上であった。このとき中江兆民は「新民世界」を発表し、「新平民」の立場から当時の平民主義を痛烈に批判した。

 そうしたものとは異なるが、一八九八年の『大阪毎日新聞』に、鳥居龍蔵の部落民についての人類学的研究が掲載された。この記事により、当時の人類学者が部落の人びとをどのようにみていたか知り得るのである。ほかに、一九〇八年の『大阪毎日新聞』に、幸田成友の大塩平八郎と渡辺村との関係についての見解が掲載されている。この問題については、今日においてもなお議論を呼んでいるところである。

 一九〇五年に書かれた高見教倫の「出世魚」は、非人番を主人公とし、その境遇に同情したヒューマニズムあふれる作品である。数は少ないが、一九〇〇年代には、こうした文芸作品も発表されていた。

 (八) ゆるぎない信仰   (担当 藤本 信隆)

 近世の部落寺院の多くは、門徒の総意で建立された惣道場で、看坊(僧侶)の立場は弱かった。だが、時がたつにつれ、住職が後継者の決定権を持つ寺院・自庵へと変わっていった。南王子村でも、後に住職の立場は強くなったが、その過程において村内が混乱した。

 キリスト教は、一八七三年に禁教令が解かれてから部落にもひろまった。一八八二年ごろになると、西浜町にもキリスト教徒がおり、町内の仏教徒と対立した。時には暴行事件も引き起こしたが、一八八八年に仏教護教を目的とした公道会が結成され、キリスト教の進出を抑えた。

 部落では、浄土真宗本願寺派寺院の檀家である者が多いが、本山である西本願寺に対しては格別な思いがみられた。明如法主の葬儀などに多額の香儀を出したり、西浜町の一門徒が仏教大学(現龍谷大学)に図書館を寄贈したりしている。

 部落の門徒は西本願寺にこうした物的貢献だけでなく、人的貢献もしばしば行っている。しかし、西本願寺の布教師であっても、その差別発言には西本願寺に抗議し、当の布教師の除名を求めたりしている。

むすびにかえて

 以上、各テーマの内容を担当者の解説を参考にして紹介した。現時点で収集し得た史料の中から、紙数を考慮し、重要であると思われるものを精選して本巻に掲載したのである。したがって、今後、この時期の大阪の部落史研究に、本巻は欠くことのできぬものとなると、私は確信している。多くの研究者が本巻を利用することを期待したい。

 最後に、本巻がなるにあたっては、編集担当者のほか、大阪の部落史委員会事務局の尽力に負うところが大きかったことを記しておきたい。

 (A5版、五〇九ページ、大阪の部落史委員会、一二〇〇〇円+税、二〇〇二年三月刊)