調査研究

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大阪の部落史通信・29号(2002.3)
森田康夫著

『河内-社会・文化・医療-』

山中 浩之(大阪女子大学)

 森田康夫氏はここ一〇年ほどの間に大塩研究・賤民史研究をまとめられ、長年の御蓄積を一挙に奔出されたかのような御活躍であるが、昨秋刊行された本書は、氏のフィールド拠点である河内八尾を中心に、古代から近代にわたる社会文化史的諸問題を縦横に論じられたものである。八尾で発刊される『河内どんこう』に掲載された諸論稿に新稿約八〇頁分を加えられている。とくに序文めいたものは付されていないが、「あとがき」には、地域のなかにこそ興味深い歴史的テーマがあること、そしてその発掘は「同時代人の人々の息づかいの聞こえる視点で解き明かす」こと、それを通して本書は「これまでの河内の社会文化史に欠けていた歴史認識に一石を投ずるものである」との自負が示されている。

 次に全体の目次構成を示した上で、各章の論点をみていきたい。

  1. 河内地名考
  2. 河内と行基伝説―七墓参り考―
  3. 歴史としての常光寺
  4. 小野篁伝説と河内国八尾地蔵
  5. 旧大和川デルタにおける中世城郭の歴史地理的考察―八尾城を復原する―
  6. 河内のキリシタン大名―池田丹後の茶会記より―
  7. 近世河内村々における村役人の諸相―『村方騒動一件録』より―
  8. 近世河内の私塾―簷葡舎と葛仏蓮をめぐる人々―
  9. 黎明期・河内の学校教育
  10. 日本の近代化と河内平野の鉄道
  11. 河内の民権運動
  12. 地域医療の形成と医師

 以上、比較的短いものから(9.)、一三〇頁を越える長大なもの(12.)までを含め十二篇が収められている。計画的な一書としてよりは、たえず関心を持続され、琴線にふれるたびに書かれてきた蓄積が自ずと本書を構成したものと拝察される。以下に各章の内容・論点を簡約に紹介する。

 1.は長久二年(一〇四二)初出とされる「八尾」という地名の考察である。従来、「八尾」弓矢起源説また「矢野」「谷野田」説があるが、氏は古代大和川治水工事において、多くの柵(しがらみ)によって築堤が行われ、それは「八百柵」とよばれ、そこから八尾(木)に転化していったという。治水工事による民衆の生産生活の安定と関わって地名となっていったという説は興味深いが、「八百柵」というよび方があったというのは氏の推測によるもので、その点が弱く感じられる。

 2.は行基の造ったという墓にお参りをすれば老後、家族の世話にならずに極楽往生するという伝承の背景を探ったものである。民衆的仏教家行基に対する庶民信仰や葬送儀礼に携わる三昧聖の行基信仰をふまえ、危難からの救済と健康を護持する菩薩として行基が崇められてきた動きを説く。行基という存在が後世にまで人々の心の中にどう生き続けていたかを示唆する興味深い伝承の考察である。

 3.は八尾常光寺とはどういう歴史的性格をもつ寺院であったかを検討したものである。「常光寺縁起」によって、同寺は行基が開いた二十五?壇の一つで、民衆のなきがらを葬った墓所として出発したものであること、南北朝期に至り、又五郎大夫なる者が、小野篁作と伝える本尊地蔵菩薩の霊験により病気平癒して、信仰を高め再建に至ったこと、その又五郎は八尾座荏胡麻流通にも関係した西郷の商人で、「平和」の回復を願って寺の再建を行ったらしいことなどが述べられ、結論として常光寺は墓所として、また商人の「平和」を維持する「聖なる場」・無縁所であったとされる。八尾の歴史空間の中に常光寺を古代からの系譜をもつ「聖なる場」・「平和の場」として位置づけようとされた魅力的な論である。ただ、ほとんどを「常光寺縁起」のみによって立論されているのは、寺自体の主観的なイメージとしてはそうなのであろうが、歴史的には他史料によって客観的に検討される必要がありそうである。

 4.は新稿であり、常光寺の本尊が小野篁作の地蔵菩薩と伝承されているのはなぜかを検討したものである。九世紀、小野篁は遣唐使を拝命したが、難破が続いて、ついに乗船を拒否し隠岐に配流された文人貴族である。配流という挫折は篁についていくつかの伝説を生み出し、死後、篁は異界の閻魔庁で冥官となり、人の現世での罪を赦してやるような存在となったという話がある(江談抄)。

つまり篁は配流に対して怨霊神的な性格をもちながら、その現われ方は荒ぶる神ではなく現世の罪をゆるしてやるような存在として語られており、そこに地獄からの救いを導く地蔵菩薩と関連づけられる面をもっていたとされる。そしてそのような見方が謡曲「八尾」が作られる基でもあったという。篁伝説は大変面白く、地蔵と篁の結びつきもよくわかるが、篁伝説と八尾あるいは常光寺との結びつきについてはどうなのであろうか。

 5.は中世の八尾城がどこにあったかを検討するものであるが、これも常光寺の問題と関連する。山鹿素行収集の「八尾城図」に常光寺地蔵堂が記されていることから、従来、八尾城西郷説が主張されてきたが、氏はそれに対し、細密な地理的景観的考察を行い、さらに常光寺が戦いの場とは「無縁」な場であったことを理由に、西郷説を否定し、八尾城八尾座説を強調されている。論の当否は評者にはわからないが、両者とも山鹿素行の「八尾城図」なるものを根拠に論じられている点がやや心もとない感じを与える。その図自体がどこまで信憑性のあるものなのか再検討が必要であろうし、何よりもきちんとした発掘調査が期待されよう。

 6.は中世最後の八尾城主で、洗礼名「シメアン・イケビダフンゴ」といったキリシタン大名池田丹後守の茶事を、津田宗久一族の「天王寺屋会記」からうかがったものである。西郷墓地のキリシタン墓碑は知られているものの、これも決定的には発掘調査がキリシタン遺物についても、茶事についても明らかにするはずである。

 7.からは近世に入り、まず村役人たちの訴えを概観したのち、天保三年(一八三二)の八尾寺内村の村方騒動の動きがたどられ、庄屋の不正を追求する一般農民の政治的成長が示される。その記録を作成したとみられる矢作神社神官友田義愛の、騒動を忠臣蔵九段目に見立てた戯作が面白い。騒動を当時の人々がどういう感覚でみていたかを示している。

 8.は八尾植松村にあった私塾簷葡舎とその学者葛仏蓮についてであるが、仏蓮の伝が家譜史料によって明らかにされているのが有難い。幕末の三筆貫名海屋と親しく、その媒介で勤王家池内大学の姉を娶ったことなど興味深い交流が知られる。

 9.は主として堺県時代(一八八一年〈明治一四〉まで)の河内の学校制度の動きについて概観したもの。

 10.は一八八九年(明治二二)の湊町―柏原間に始まる河内の鉄道普及の過程が幾多の計画案の挫折とともに示されている。鉄道敷設と地域住民との関係、また本来あるべくして、計画等の杜撰により結局実現されるに至らなかった河内・泉州間の鉄道など触れてほしい事柄であった。

 11.は明治一〇年代の小作争議を地租改正に対する民権運動の一形態としてみるべきだという北崎豊二氏の研究に促されて河内の動向を探られたものである。

 さて12.は本書中、最長篇であり、近世から明治一〇年代の開業医制成立までの医師による医療についての叙述である。近世分は新稿である。評者もかつて河内在郷町の医療の展開と、八尾田中家の医家としての形成について述べたことがあり、前半部分は重なるところが多い。本章中の最も貴重な点は、田中家の処方箋を分析されたことである。この処方箋は襖の下張りに使われていたものを、かつて評者が学生と共に水で糊をはがし、一枚一枚干したものであった。そのときの情景を思い出すと懐かしい。ただ下張り文書はすべて裁ち切って使用されていたため、元の順序通りに復元するのが困難で、私はその利用を諦めていたものであった。量はまことに大量にあった。それらの中から森田氏は元治二年(一八六五)分を復元され、患者の地域分布・性別・治療状況を明らかにされた。一枚一枚裁ち切られている上、使用済となった処方箋は手習いの練習帖となっていたので余計に扱いにくい。一年分でも復元された御労苦は大変だったと拝察する。さらに嘉永三年(一八五〇)の医療収入をも明らかにされており、これも貴重である。なお処方箋には病名は記されず、処方のみであるが、氏はその処方薬から病気を推測されて「疾病傾向」を一覧表にされている。漢方の専門家ならまだしも、そうでない場合、これは危うい方法ではないだろうか。ともあれ近世医療という最もうかがいにくい分野において、一医家の医療実態の一部が明らかにされているといえよう。

 本章の後半は、「医療制度の近代的改革」「堺県における医学校の設立」「伝染病予防の医療」「開業医療の成立」と明治前半の制度の改革と整備について、主として堺県の布達類によって記述されている。開業医制までの制度的変遷を知るに有用な内容となっている。

 以上、十二篇、内容の簡約に少しくコメントを付してきた。古代から中世にかけては、行基から常光寺へとつながる庶民信仰とそれを基盤とした「聖なる場」・無縁所としての八尾の歴史的イメージが氏によって明確に結ばれているのに気づく。近世から近代にかけて、八尾はすでに先行の御著書に示されるように多様な活動の一拠点であったことが本書においても豊富な事例を通して示されている。

 最後に、書名について一言。如上のように本書は、たしかに河内を冠した諸論稿の集成であるが、実質的には一貫して八尾について語られている。『河内』という書名は、かえってあいまいな感じを与えている。評者がいうべきことではないのだが、たとえば「歴史からみる八尾」「歴史のなかの八尾」のような書名の方が、内容的にもぴたりとするように思えたのだが。

 しかし南北に広がる河内の、それぞれの地域において、多様で豊かな河内像が描かれることへの期待と挑発とみれば納得もさせられる。その意味で河内といえば八尾を連想するその地について、具体的な歴史叙述が備わったことを喜びたい。

(四六判、三四五ページ、二八〇〇円+税、和泉書院、二〇〇一年九月刊)