はじめに
関西大学図書館所蔵「河州亀井村弥兵衛行実」について、紹介する。本文書は、非人番父子の百姓身分への身分解放の事実を記す、貴重な史料である。非人番弥兵衛の養父への孝行―成人になってから自分を引き戻そうとする理不尽な実父ではなく―、養父の厚恩に報いる弥兵衛の半生が語られている。
本文書は、鬼洞文庫旧蔵。竪帳、七枚(表紙共)。
本文書によれば、享保十五年六月、摂州平野郷の法橋良弘が亀井村非人番弥兵衛の行実を聞き取り、書き留めた。翌年、三谷某がそれを書き写したのである。奥書には、つぎのように記されている。
「右ハ河州渋川郡亀井村弥兵衛行実
享保十六年亥吉書初の日謄之
三谷□□」
一 非人番の身分解放の条件
穢多非人身分引上げについて、弾左衛門が勘定奉行所へ差出した書付によれば、素人が一旦非人に陥っても、十年を経過していなければ、その非人の縁者より非人頭に引上げを申し出て、素人になることが可能であった(注1)。
後述するように非人番弥兵衛父子は、いずれも非人身分となって十年を経過しているので、年数に関する条件はそれほど厳格ではなかったものと考えられる。
以下に示す事例によれば、非人番身分解放の実質的要件は、非人番の役目を通して、村中から「実躰なる者」であると認められることであったことが分かる。
河州石川郡大ヶ塚村の在番人小頭吉兵衛は、数年実貞に勤めたことが認められて(「吉兵衛義数年実貞ニ相勤候ニ付」)、村中相談の上、百姓に取立てられている。つぎに、「文政五壬午三月 浄土宗切支丹宗門ノ御制禁人別寺請帳」(関西大学図書館所蔵)より在番人小頭吉兵衛一家の部分を掲載する。
「 高七斗五升四合
在番人小頭
浄土宗善性寺旦那○印 吉兵衛○印
四十八才
女房
同寺旦那○印 くに
四十五才
(中略)
〆五人内男弐人 吉兵衛義数年実貞
女三人 ニ相勤候ニ付、村中相談之上、未年□百姓ニ取立遣候ニ付、此所除 」
また、大ヶ塚村竈数合二五五軒の内訳は、寺三ヶ寺、庵二軒、高持一三六軒、無高一一三軒、非人番一軒である。この中にあって、吉兵衛が高七斗五升四合所持していることも注目に値する。
さらに、泉州檜尾村番人喜八一家の嘉永五年子四月付け、堺四ヶ所代七堂長吏より檜尾村御役人中様宛「人別送り一札之事」(関西大学図書館所蔵)によれば、七堂長吏は、配下の番人喜八が出世して、村方に住宅を建てたいと申し出てきたのを受理して、檜尾村御役人に村方人別加入を願っている。その際、七堂長吏が喜八一家の出世を認めた根拠は、彼らが「実躰成もの共」であったからである(「右之もの儀、先年 私共支配下ニ罷在、実躰成もの共ニ御座候処、此度出世致、村方ニ住宅仕度旨、申出候ニ付、以来其村方人別ニ御加入可被下候、右為念人別送り一札仍而如件」)。
泉州の番人が百姓身分に出世するためには、形式的要件として、堺四ヶ所長吏及び村役人の承認が必要であったことが分かる。
なお、番人喜八は、奥州宮城郡中村百姓伝右衛門倅であった。
では、「河州亀井村弥兵衛行実」の叙述の順序にしたがって、その概要を見てみよう。
二 河州亀井村弥兵衛の行実について
(一)弥兵衛と養父作介との出会い
河内国渋川郡亀井村に作助(作介)という者がいる。尾張国の生まれで、父は加藤清兵衛という武士であったが、理由があって仕え(仕官)を辞め、江戸でいっしょに暮らしていた。父の清兵衛が亡くなってからは、作助(作介)はなすべき手段もなく、河州にやって来て、久宝寺村より亀井村に移り、非人番といって大変賤しい役を務めた(注2)。
享保二年(一七一七)十月二十九日大坂に行くことがあり、渡辺橋を通り過ぎたところ、十余歳の子どもがさまよい歩くのを見て、理由をたずねると、「父が私を人の奴にしましたが、主人の心にかなわないといって、父の家に帰されました。父は大いに怒って、どのようにもなれといって、私を追い放ちました。それで、このように路地で物を乞う身となりました」という。作介は、これを憐れみ、自分には子どもがいなかったので、吉三郎という名を伝蔵と改め、実子同様に育て、後弥兵衛と名乗った。弥兵衛はよく父母に仕え、すべてについて、自分を後とした。弥兵衛が外出して帰って来なければ、父母も夕餉を食べなかった。弥兵衛が二十歳の頃、大病を患い、父母はこれをいたわった。また父が病気になった時、弥兵衛は寝食を忘れ、すべてに心の限りつとめた。作介も弥兵衛がよく仕えてくれることを喜んで、人にも常に語った。
(二)実父喜兵衛と養父作介
享保十四年五月弥兵衛の実父、大坂宮崎町の喜兵衛という者が作介の許にやって来て、弥兵衛に帰って来るようにと言った。喜兵衛は、久宝寺村の非人の司(非人番小頭)にも働きかけて、弥兵衛を連れて帰ろうとした(注3)。
作介は、弥兵衛に向かって、「汝、この年月我二人に仕える様子、実子にも優って、朝夕労苦を助けてくれたことを思えば、今よりお互い離れてしまうのも、いかばかり名残多いことです。実父の許に帰って豊かに暮らしたいと思うならば、留めません。急ぎ帰って、実父に仕えなさい」と言ったところ、弥兵衛は聞き入れることもなく、つぎのように言った。
「私はむつきの中から出て、十二歳までは元より実の親の恩があるけれども、追い放たれて後は、身のよる所なく飢渇が迫るのを拾い助けられて、今年二十五歳になりました。ひとえに御慈しみに因っています。義をもって、私を養ってくださったので、私もまた義にて仕えましょう。父母が老齢になり、今私が外へ行けば、誰が代わって明け暮れをかえりみるでしょうか。このことを思えば、実父のもとに帰って、良いものを着、美味しいものに食べ飽きても、それを楽しみとすべきものは、心得違いであるとどのように責めを受けても、少しも恨むことはありません。しかし、かの司(久宝寺村の非人番小頭)が、私に助言してくれたことは、厳かです。我意に任せば、かえって、父の仕業であると他人に言われるので、一度は大坂に行かなければなりません。ほどなく又当地へ帰って来ます。しばらく待っていてください」と言って村を去った。
人々はこれを聞いて、「弥兵衛はこのように潔く言っても、大坂に帰れば、衣食の欲に惹かれて、帰ってくることはないだろう」と話した。
(三)弥兵衛、大坂町奉行所へ訴える
弥兵衛は、一日ばかり実父の許に居たが、又ここを出て(渋川郡)柏田村というところに隠れた。これも養父が人に疑われないように、と考えてのことである。柏田村に滞在しているうちに、一々のことを書き認めて、大坂にある御奉行所(町奉行所)に訴えた(注4)。「実父が私を引き戻すことのないようにしてください」と申し上げた。(奉行は、)作介・弥兵衛の志が共に切ないのに心を動かされて、実父の願いを遂げずに、弥兵衛が亀井村に住むことを認めた。公庭において、作介は出自を尋ねられたので、尾州の生まれであることを初めて申し上げた。このように恐れ多い公裁をうけたので、村の長某等(注5)は相談して、彼非人番をのぞき、人なみの農夫とした。亀井村を支配する代官小堀氏にもこのことが聞こえ、今年四月京都に召された。
代官小堀氏は、弥兵衛の志に感心された。
享保十五年六月、人がやって来て、「このことを書き留めよ」と言うので、その語るままに記した。このように大変立派なことは、誠に語り継ぎ言い継いでほしいと思って、詞の拙いのをかえりみないこととなってしまった。
摂州平野郷 法橋良弘
(四)代官小堀氏より弥兵衛に下付された褒書の写
河州渋川郡亀井村百姓
弥兵衛
右弥兵衛の養父作介は、番人を勤めていた頃、大坂市中で弥兵衛を拾い、養育して成人になった。ところが、昨秋実父である大坂宮崎町たばこや喜兵衛方より、帰って来るようにとの願いが伝えられたので、村方の者は、弥兵衛の考えに任せた。弥兵衛の考えでは、数年間養父作介に厚恩を請けたにもかかわらず、その老後を見捨て、実父方へ帰ることは、本意ではないという理由から、大坂町奉行所へ訴えた。奉行所で取調べの結果、庄屋・年寄の了簡で弥兵衛父子を水呑百姓に取り立て、そのまま村方に差し置くとのこと、道理にかなったことである。弥兵衛が、養父への義理を忘れず、孝行の心に励むことは、奇特なことなので、その褒美として鳥目二百匹を遣わすものである。
戌四月
右は河州渋川郡亀井村弥兵衛の行実である。享保十六年辛亥吉書初の日これを書きうつした。
三谷□□
おわりに
当時「賤しき役」といわれた非人番の仕事に携わった弥兵衛の養父への孝行―弥兵衛行実―は、村人、大坂町奉行、代官小堀氏の心を動かした(注6)。摂州平野郷の法橋良弘もまたこれに感激して、弥兵衛の行実を聞き取り、書き留めたのである。
前述した大ヶ塚村の在番人小頭吉兵衛や檜尾村番人喜八は、その役目である警察業務に専念することで村役人から「実躰なる者」との評価をうけ、百姓身分としての処遇をうけることとなった。
実父による引き戻しを拒絶して、亀井村で養父とともに暮らすために、この件で裁判管轄権を有する大坂町奉行所に訴えて―直訴して―、法的な解決を図るという弥兵衛の発想は、日頃非人番として、幕府法及び村法に忠実に従い、実直に公務を実践する中で培われたものであると考えられる。
弥兵衛の養父作介への孝行は、亀井村庄屋・年寄によって、身分を越えて支持される人間としてあるべき行いに合致するものであると考えられて、弥兵衛父子は、百姓身分に取り立てられることになったのである。身分差別制度のなかで、身分ではなく、その人の行いによって、その人物を評価していることに注目すべきである。
注1 安永六年丁酉五月八日
一、穢多非人之類素人へ引上之事
先年武州榛沢郡新戒村之穢多、医道功者にて村方調方に相成候間、平人に引上、医師にいたし度旨申し、向寄非人頭差障候に付、其節之支配御代官より奉行所へ内伺いたし候処、左之通り弾左衛門より差出候書付御渡有レ之候事
一、全体非人素生之ものは素人には不レ仕候往古より之作法にて御座候、尤素人一旦非人に相成候ものも、拾ヶ年相立不レ申内は、其非人之縁者より引上申度段非人小屋へ申来候節、其趣非人頭より私方へ申出候間、証文を取、素人にいたし候様申付候、勿論拾ヶ年相立候ても素人に不レ仕作法に御座候、然れ共非人より素人に相成候儀出世に御座候間、近来年久敷非人にても其非人之縁者より引上申度段非人頭共へ其頼候得ば、一応右作法申聞、頻に引上度段申ものは証文を取為二引上一候得共、前書に申上候非人素生之もの素人には不レ仕作法に御座候
右之趣御尋に付、乍レ恐書付を以奉二申上一候、以上
浅草 弾左衛門
酉五月八日
(『日本財政経済史料巻九』戸口之部二)
注2 寛保三年(一七四三)亥五月 付け「河内国渋川郡亀井村差出シ明細帳」(林家文書)によれば、 当村は小堀十左衛門様御代官所で、高五〇二石五斗四升三合、此反別三三町九反七畝二歩、竈数五八軒(三一軒は高持百姓、二五軒は水呑百姓)である。非人番一人、煙亡(隠亡)一人について、つぎのように記す。非人番は御領私領の立会いで、給米として米三斗・麦三斗五升を、朝夕には給物を村から遣わされていること。煙亡の居屋敷・年貢地・墓所は、鞍作新家村領にあること(以上、『八尾市史』史料編、二九八〜三〇三頁)。久宝寺村は隣村である。弥兵衛の養父作介は、漂泊の後、久宝寺村に居住していた非人番小頭の配下となり、亀井村の非人番として雇われたと考えられる。
注3 弥兵衛の実父喜兵衛は、弥兵 衛を実家へ引き戻すための手続きとして、亀井村非人番を統率する久宝寺村の非人番小頭に事情を話して、弥兵衛を平人身分に引上げることについて承認を求めたものと解釈することができる。
注4 大坂東町奉行稲垣淡路守種信(享保一四・二・一五〜元文五・三・一九)、大坂西町奉行松平日 向守勘敬(享保九・三・七〜元文三・二・二八)
注5 享保一〇年(一七二五)七月 の時点では、庄屋久左衛門、年寄利兵衛、同吉兵衛であり、元文四年(一七三九)六月の時点では、庄屋吉左衛門、年寄新六、同断吉兵衛、百姓代佐古衛門であることが確認される(前掲書、三三〇、五八〇頁)。
注6 以下の褒賞の事例において、 幕府が奇特者へ褒賞を与える理由として、実躰であること、年貢収納の公務に精を出すこと、親孝行であることなどに優先して、公儀を重んじることをあげていることに注意すべきである。
「享保六年辛丑二月日
銀拾枚被レ下レ之其身一代刀
帯苗字名乗可レ申候
但し、苗字は子孫迄相続名
乗可レ申候
岡田庄太夫御代官所
奥州大平村名主
庄右衛門
右之者、常に実躰にて公儀を重じ、御年貢収納精出し、百姓之為に成候事共も有レ之奇特之者之由、
近郷にても及二沙汰一付、書面之通被レ仰二付之一
銀拾枚被レ下レ之其身一代刀帯苗字名乗可レ申候
但し、苗字は子孫迄相続名
乗可レ申候
飯塚孫次郎御代官所
備後国有田村庄屋
金三郎
右庄屋常々公儀を重じ、御年貢収納之儀も精出し、其上親孝行にて万端実躰成者之由、近郷にても及二
沙汰一付、書面之通被レ仰二付之一
同人御代官所
同国同村組頭
市郎左衛門
右組頭常々実躰にて、名主と申合諸事精を入勤候付、御代官より右之段ほめ候様に被レ仰二付之一
銀拾枚被レ下レ之其身一代脇差帯可レ申候
同国同村平百姓
又右衛門
右之者公儀を重じ、其上継母に孝行なる者之由近郷までも及二沙汰一付、書面之通被レ仰二付一之
右之通今度被二仰付一候間、於二支配所一勝而孝行成もの又は格別正直にて諸人之為成、相応に人之見次をもいたし、悪敷者には異見等も加へ、近辺のものまで風俗直り候段及二沙汰一候のもの有レ之においては、遂二吟味一可レ被申聞一候、子細承届候上相応に御褒美被レ下にて可レ有レ之候条、可レ被レ存二其趣一候、以上」(『日本財政経済史料巻二』財政之部二)
「河州亀井村弥兵衛行実」
河内の国渋川郡亀井村に作助といふ者あり、もとは尾州に生れ、父は加藤清兵衛といえる物部なりしか、故ありて仕へをやめ、江戸にすむてともく明し暮しけり、清兵衛みまかりて後は作助せんすへなくて河州に漂ひ来り、久宝寺村より亀井村に移り、非人番とて〇いやしき役をなんつとめをれり、享保二年十月廿九日大坂に行事有、渡辺橋を過るに、十にあまる子のさまよひ歩くを見て、何の故そとゝへは、父われをやりて人の奴となすに、主人心にかなハすとて、父か家にかへせり、父大にいかり、いかにもなりねとて追放てり、されはかく路次に物をこふ身となれりといふ、作介是をあハれミ、我に子なし養ハるへきやととふに、其子うけかへは、父子の約をとるなく、家にゐて帰り妻とら母に子をえし事□うれしとし、吉三郎といひし名を伝蔵とあらため、産るにひとしく育ひたてし後、弥兵衛とそいひける、弥兵衛よく父母につかへ、くひものをはしめ万につきておのれを後とし、いやしき中なから言葉しわさ慎めり、をよそいやしきものゝならひ、親をやしなふ迄はあれと、いやまひはたらぬものなるを、弥兵衛かつゝしめるは、奇にえかたき事ならすや、弥兵衛外に出て帰るを見されは、父母も夕への餉をくらわす、あたかも稚な子を待ことし、されは其父母に愛さらるゝ事も又見つへし、弥兵衛年はたちに及ふ比、大きに煩へり、父母を是をいたわる事つとに過たり、父又やめる事有たるも、弥兵衛是につかへて寝る事くらふ事をわすれ、万つ心の限りつとめけるか、其日のいとなミいかにもする事なけれは、人の為にやとハれありくにつきては、父かかたわらに侍らさるを恨とはしける、若さる事に遠く出れは、夜更て帰るといへと、父にまみえされは、其心をやすしとせす、さるものから作介も弥兵衛□よく仕へぬる事をよろこひ、人にも常に語り出けるとなん、こゝに享保十四年五月弥兵衛か実父大坂宮崎町の喜兵衛といへるか作介か許に来り、弥兵衛か帰らん事を云わたれと、うけひかんさまもとみにはみへさりけれは、非人のつかさなる者の久宝寺村に有りけるにいひて、是にさへはタラせ弥兵衛をつれて帰らんとす、作介、弥兵衛にむかひて、汝この年月我ふたりにつかふるさま、実子にもまさりて朝夕老苦をたすけし事をおもへは、今より相離んもいか斗名残おほかれと、実父の手に帰りゆたかに暮しなんとおもふには、とゝむへくもあらすよし、我をな悲しみそ、とし比ろこの志の誠な□からかゝるさひわゐをもえしものならむ、急帰りて実父に仕へよといふに、弥兵衛聞入るけしきもなくしかなの給ひそ、われむつきの中より出て十二迄は元より実の親の恩なれとも、追放たれて後は身のよる所なく、飢渇にせまれるをひろひ扶けてことし廿五になしたて給ふ、ひとへに御いつくしみによれり、義をもて我をやしなひ給へは、我もまた義にて仕へさらむや、父母老たまへり、今われ外に行は、たれかかハりて明暮をかえりみてん、是をおもへは実父のもとに帰りて、よきを着うまきにあくとも、それを楽しミとすへきものは、これひか事なりとて、いか成責をうけ、かうへをぬかるゝとも露恨みなし、されとかのつかさかいふ事おこそかなり、しゐても我意に任せは、かへりて父のしわさと人のいいけるも有へけれは、一度は大坂に行へし、程なく又こそ当地帰らめ、しはしは待たまえ、となくさめつゝたち出けり、人々是を聞て、弥兵衛とかくいさきよくいふとも、大坂に帰りなは衣食の欲にひかれて帰り来る事はよもあらし、とかたりあえり、弥兵衛一日はかり実父か許に有しか、又出て柏田村といふにかくれぬ、これも養父を人にうたかハせしとはかれる也、柏田に有しうち一々の事書したゝめ、大坂なる御奉行所にうたえ奉り、実父のわれをひく事なからしめ給へと申す、公評たひかさなり、作介・弥兵衛か志のともに切なるを感しおもほし、実父かねかひは遂すして、弥兵衛は心よく亀井村に住つくへくなさしめ給へり、ひとたひ公庭にて作介か生れを尋させたまひしか、身を帰みてたハやすく申つゝりしか、しゐてハ□せたまひける事有しによりて、尾州の産なる事は、はしめてそ申あけゝる、かくかしこき公裁をうけたまハれは、村の長某等はかり合せて、彼非人番をのそき、人なミの農夫となしけり、さて此事其村預り司さとらせたまふ、小堀君にも聞へ、あけてことし四月京にめされたまふ、弥兵衛か志を感し給ひ褒書にそへてあしたひけり、作介父子か身にしては置所なき御恵みとそおほゆる、父子今世にあり、ますくつとめておこたらすは、はしめ有□能終り有といふへし
享保十五年六月人来りて、此事を書とゝめよといひけるにつきて、そのかたりたるまゝにしるす事しかり、かくいみしき事は誠に語りつきいひつきまほしくて、詞の拙きをかへりみさる事になんなれる