はじめに
森秀次は、被差別部落出身ではじめて代議士となった人物であり、融和運動の推進者でもあった。また、村内においては「ダンダン」(旦那)と呼ばれ、実力者として君臨したが、政治運動にかかわっていくなかで、しばしば差別事件に遭遇し、当時の新聞にも大きく報道されるなどしている。それだけに、多くの研究者が森秀次を取りあげ、彼の識見や業績などを紹介している。けれども、森秀次についての先行研究の多くは、大筋では問題ないが、部分的には間違いが多く、不明な点もそのまま残されている。森自身の発言にもとづく「余が経歴」(『明治之光』第一号、一九一二年一〇月)も、かなり事実がまげられている。
したがって、森秀次をどう評価するかというまえに、彼の履歴などを検討し、これまで誤って伝えられている点をただす必要がある。ただ、ここでは、諸般の事情から、森秀次の政治家として活躍するなかで遭遇した一八九一年の差別事件を中心に考察することにしたい。
一 村会議員から郡会議員へ
森秀次は、西岡惣市郎の二男として、一八五五(安政二)年九月二二日、和泉国の南王子村に生まれた(『人事興信録』一九一八年)。生い立ちについても分からないことが多いが、一八七六(明治九)年に豊島郡古江村(のちに合併して細河村、現在池田市)の森家に養子として迎えられた(『明治之光』第一号、一九一二年一〇月)。そのころの森家は大地主で、古江村だけでなく、周辺の村々にも多くの土地を所有していた。小林茂「現代部落の史的研究(上)―大阪府池田市古江について―」(『部落問題研究』第六輯、一九六〇年一〇月)によれば、一八七九年一二月現在、同家は一一町歩をこえる土地を所有している(二二頁、第一二表参照)。
森秀次は、森家の資力を背景に、やがて村会議員・組合会議員・学区会議員・郡会議員・府会議員・衆議院議員となるが、この間、長期にわたり地価修正問題にかかわり、全国二府四県地価修正同盟の常務委員にもなり、解決に努力した。また阪神土地(株)取締役・硫酸肥料(株)監査役・大阪朝報社常務取締役などにもなり、一九二六年九月九日に没した(『議会制度百年史 衆議院議員名鑑』一九九〇年、六五〇頁参照)。
彼は、会社の役職にも就いているが、若いころから晩年まで、政治に没頭し、政治家として活躍した。しかし、森秀次の語るところによれば、村会議員時代、他の議員らは、彼に「会議の時なぞは火鉢をもあたらせなかつた様な次第であつた」(「余が経歴」九頁)という。村会議員という公の場においても、森秀次はこうした差別を受けたのであるが、それでも彼は「之れ位の事には屈しない」で、「村会議員より進んで明治二十年頃郡会議員になつた」(同上)のである。
二 地価修正運動下の差別事件
大阪府内においては、一八八七年ごろから地主らが中心となって地価修正運動を行った(拙稿「帝国議会開設前における地価修正運動」『東大阪市史紀要』第二号、一九六九年三月および拙稿「三大事件の建白運動と地租軽減・地価修正運動―大同団結運動の理解のために―」『復刻東雲新聞』別巻、一九七七年参照)。森秀次も、一八八八年一〇月ごろから地価引下げの請願をするため奔走し、同年一一月には豊島郡の請願委員の一人に選ばれた(『朝日新聞』一八八八年一一月二九日付参照)。豊島郡はこれまでも何かと能勢郡と共同で行ってきたので、今回の地価引下げ請願も、両郡の委員が協議し、共同で行うことにしていた。ところが、一八八九年二月上旬、能勢郡は同郡独自に願書を起草し、請願した。
能勢郡が、今回、別行動をとった理由の一つは、驚くべきことに、豊島郡の委員に森秀次が選ばれたことにあった。すなわち、『東雲新聞』は次のように記している(一八八九年二月一六日付)。
「 府下能勢郡の人民等ハ曩きに地価引下請願事件に就き能勢郡の人民を誘導せしに能勢郡の人民等も大に之れを喜びて共に請願せん事を約束せしにも拘ハらず其の後能勢の人民等ハ一郡にて請願することに決し且つ豊嶋より先きに抜駆けを為し請願に及びたるにぞ豊嶋郡の人民等ハ非常に立腹し将来ハ能勢と分離して郡役所なども能勢ハ断然能勢丈けにて設立せしむ可しとの事に一致したるよしハ既に前号の本紙に掲載せしが今又能勢郡の人民より聞く処に拠れバ成程能勢ハ地価引下に就てハ豊嶋の為めに誘導を受けしにハ相違なけれど能勢の方にも亦一の理由ありて豊嶋と一緒に請願を為さゞりし者なりとのこと而して其の理由と云ふハ第一此の誘導者の一人なる森秀二氏を人民総代となすこと第二能勢ハ至りて貧郡なれバ成るべく金員の支出なきことを主要とする等の事情あり然るに豊嶋と共に此の請願を為す時ハ其の相談毎に五里もある山中を越へて豊嶋まで出掛けざる可らず左れバ随て余計の費用を要するハ当然のことなり以上二ヶの理由よりして全く分離せし迄にて別に深き理由のあるに非ず然るを豊嶋の方にてハ非常に立腹し其の郡役所及び経済等を別にせんなど騒ぐとハ余り小量なる者共かなと何れも笑ひ居るとのこと」
右のように、能勢郡が単独で請願することにした第一の理由は「此の誘導者の一人なる森秀二氏を人民総代となすこと」にあった。しかも、能勢郡の地主は、そうした行動に出たことについて「別に深き理由のあるに非ず」と述べたという。だが、これは部落出身である森秀次への差別意識からなされたものであり、彼はここでも差別されたのである。
三 一八八七年と一八八九年の府会議員選挙
次に、森秀次が府会議員選挙において候補者にあげられながら、落選した三回の選挙についてであるが、最初は一八八七年一二月の選挙である。この年の一一月、大和国を大阪府から分離し、奈良県を設置したことにより、府会議員全員の改選が行われた。森秀次はそのときの選挙に立候補したが、彼は「余が経歴」に「僕は府会議員の競争に打て出た当時敵の樽見氏は百八十票で当選し私は三票しか無つたそれも養父一票と自選一票他一票であつた」(九頁)と述べている。しかし、『大阪府会史』第一編(一九三三年)は、このときの豊島郡の投票数は一五〇一票で、当選人垂水熊次郎の得票数を三一二票とし、その他の得票者の得票数は記されていない(八三頁参照)。垂水が一八〇票を得て府会議員に当選したというのは、森秀次の思い違いであろう。また、彼のいう得票数についても根拠がはっきりしない。
二回目は、一八八九年二月の府会議員選挙である。そのときの選挙について森秀次は、「余が経歴」で「再び次回に立つたが此の時我が郡へは大阪市内から金丸と云ふ弁護士を輸入して僕に対抗した然し此時の結果は私が十票の得票で矢張落選した」(九頁)と述べている。たしかに、住所が大阪市内の金丸鉄が、豊島郡で府会議員に当選している。けれども、森秀次の得票数は一〇票ではない。『東雲新聞』は「府下豊嶋郡にてハ一昨五日を以て増員選挙会を開きしに四百八十二点西区江戸堀北通二丁目金丸鉄、三百九十五点同郡古江村の森秀次氏等にして金丸氏が当撰し」(一八八九年二月七日付)たと報じており、秀次はかなりの票を獲得しているのである。この選挙は接戦で、投票に不正があったらしく、同紙は「豊嶋郡にてハ前号の本紙に記せし如く当地の金丸鉄氏が当撰せしが仝郡の撰挙会にハ何か不都合なる事のありし由にて一昨日更に池田郡役所に於て一々其の投票を取調べたるが仝郡の有志森秀二氏等も今回の撰挙会にハ不審の廉少なからずとて充分其の取調べをなす為め日夜奔走中なりとのこと又此の事に就き有志の人々にハ不日更に懇親会を開き協議を遂ぐる見込みなりと」(一八八九年二月八日付)と報じている。一八八九年の府会議員選挙では、わずか八七票の差で落選したから、森秀次も手をこまぬくことなく、投票の不正を暴こうと奔走したのである。それは、次の新聞記事で、より明確であろう。すなわち、『東雲新聞』は、「府会議員選挙の紛議」と題して左のように報じている(一八八九年二月一〇日付)。
「 府下豊島郡の府会議員選挙会にハ何か不審の廉あり不正なる投票ありしとの事にて楠村同郡長が選挙会の翌日更に其の投票及び其の選挙人を取調べしよしハ既に本紙に掲載せしが尚ほ聞く所に拠れバ当地の代言人金丸鉄(即ち同郡の当選者)氏を選挙せし者の中にハ五六十名も不都合なる者ありて是れ等ハ翌日に至りて悉く棄却されたりとか而して金丸氏の点数ハ次点なる森周次氏の点数と全く八十七点の相違なりしも最早二十点内外の相違よりか無くなりし為め森氏こそ当選者なれとて森派の(瀬川村なる)池永氏等ハ昨今非常に奔走し金丸氏を投票せし人々の不正の廉を捜し居るとぞ又森氏も何か証拠物を捜がし出したれバ或ハ其の筋に出訴せんも計り難しとのこと元来金丸氏ハ牧落村の戸長及び坊ノ嶋村の戸長等が奔走せし者にて其の実撰挙人に於てハ金丸氏の住所姓名さへ知らざる者いと多かりしとのこと又金丸派の方にてハ既に一旦定まりて郡長ハ当選者の氏名迄も報告し乍ら此の有様に至りしハ全く郡長の処置宜しからざりしが為なりとて昨今非常に激し居るとのこと」
こうしてみると、一八八九年二月の府会議員選挙で、金丸を府会議員に推し、奔走した人々は、森秀次を差別したとはいえないまでも、森が府会議員となるのを好まず、彼の当選を妨害していたといえよう。それにしても森秀次は自己の得票数をなぜ非常に少なくいうのだろうか。
四 一八九一年の府会議員選挙
三回目は、一八九一年三月の府会議員選挙である。このときの選挙について森秀次は、「余が経歴」において「此の時は大に私は有望であつたが残念な事には明日が愈々選挙となつた前日大阪選挙区と云ふ名義にて『貴郡は実に人物に富んで居るではないか然るに森秀次の如き者を選挙するとは一寸聞ゑぬ事だ万一森が当選して議場に来れば吾々府会議員は連袂して議場を去る』と云ふ意味の印刷物を配付したものだ、これが為めに僕は非常な打撃を受け残念ながら三度失敗した然しこの時は関西日報や東雲新聞等は筆を揃へて敵の卑劣手段を攻撃した其の結果敵の参謀木村清近君は僕に謝罪する当選者の北村君は責を負つて二年で辞職した」(九頁)と述べている。事実、この事件は当時の多くの新聞が取りあげ、報じたので、世人の注目を集め、早くから有名である。『近代部落史資料集成』第四巻(一九八七年)や『大阪の部落史』第四巻(二〇〇二年)にも、この差別事件に関する新聞記事などが数多く収録されている。したがって、改めて述べるまでもない事件ではあるが、「余が経歴」には史実と若干異なる記述がある。まず、選挙区に配付された文書である。ここに豊島郡の豊中村役場に送付されたものを示せば、次の通りである(奥野家文書)。
「 拝啓 陳者今般府会議員半数改撰之時ニ臨ミ貴郡ニ於テ候補者之壱人トシテ新平民某ヲ推挙セラレシ旨伝聞致候貴郡ノ広キ人口ノ多キニ新平民ヲ推挙セサレハ他ニ人物無之ハ是非ナキ次第ニ候得共可成ハ普通ノ人ヲ撰挙セラレ度然ラサレハ一般郡部議員ノ感触ヲ欠クノミナラズ第一貴郡公益ノ為メ不利益ト被存候故此段御注意迄申進候也
三月 日
摂河泉三国有志者
豊中村役場御中 」
森秀次を名指しはしていないが、「新平民某」とし、部落出身であることを問題にしているのである。そして、彼が府会議員に選ばれるようなことになれば、「一般郡部議員ノ感触ヲ欠ク」だけでなく、豊島郡の「公益ノ為メ不利益」であるとして、彼の推挙に反対しているのである。右の文書は封書として送られてきたが、消印は三月一二日で、投票日(三月一九日)の一週間前である。
これに対し、森秀次支持派も、早速と彼を擁護する文書を作成し、各村役場に送付した。その文書は『大阪の部落史』第四巻にも収録されているが、印刷されたものであり、封筒の消印は三月一五日となっている。長文であるが、次のようなものである(奥野家文書)。
「 拝啓陳者今般府会議員半数改撰に付貴郡に於て最も有力なる候補者の一人たる森秀次氏の事に付文章を発して之を非難せしもの之あるやに伝聞致候是固より反対候補者の卑劣手段に出でたること明かなれバ深く咎むるにも及バざる事なれども文明進歩の今日而も我大阪府下に於て斯かる不文蒙昧の言を放つて愧ぢざるものあるに至りてハ我等自由平等の真理に仗り公明正大の思想を以て世に立たんとする者の黙止す可らざる所に有之候諸君試に思へ英国の故大宰相ビーコンスフヒルド侯ハ猶太人なり英人の猶太人を視る昔時我国の新平民を視るよりも酷し而して微侯ハ其末裔にして出でゝ英国の大政治家となり其宰相たりし而して天下万国之を以て英国の不名誉なりとせし乎独り之を以て其不名誉なりとせざるのみならず此時を以て英国文明の一大徴候となせるに非らずや今や我国日進の今日に際り森秀次氏の如き其曾て世人の卑みし地位に在りながら嶄然其頭角を見ハし夙に政治上なり郡治上なり又教育衛生上なり熱心之に当り身を以て公共の事に従事するもの恐らくば貴郡中其右に出る者なかるべしと認め申候真に是れ貴郡の名誉文明進歩の魁を為すものと云ふも不当の言にあらざるべし我等深く自由真理の発達を期すると共に森秀次氏が我府会議員の一人として撰出せられんことを悦ぶ幸に公平無私の撰挙を以て貴郡の名誉と福利を傷けざらんことを不堪希望之至に候匆々頓首
三月 日
摂河泉三ヶ国有志者 」
すなわち、森支持派の「摂河泉三ヶ国有志者」は、自らを「自由平等の真理に仗り公明正大の思想を以て世に立たんとする者」と位置づけ、反論しているのである。その上で、森秀次が「曾て世人の卑みし地位に在り」と述べ、部落出身であることを隠すことなく、彼のこれまでの政治上における功績をたたえ、彼を府会議員に推挙しているのである。しかし、森秀次は落選した。『大阪府会史』第一編によれば、豊島郡の選挙有権者総数一五二五人、投票者数一二五〇人、投票数二四七二票、当選人北村吉次郎六一六票、当選人深田与平次四二七票、次点者権野信治郎三八七票、森秀次三四二票で、四位に終わった(八三頁参照)。
『大阪朝日新聞』は、選挙が実施される二日前の一八九一年三月一七日、「風説」であるとしながら、今回の事件について「選挙に関する怪聞」と題し、次のように報じている。
「 議員選挙の競争甚しき時に当り種々の怪聞珍談の生出するは今さらの事にあらず左れば此度の大阪府会議員半数改選に於ても色々の怪聞珍談もあるべきが近報に従へば府下三国の中の一国なる某郡にては改選二人に対して十数人の候補者あり其中某氏の如きはなかく勢力あり当選者二人中の一人は必ず某氏ならんとまで称せらる由の処何故か他の二国郡部の議員は若し某氏に対して当選する様の事あらば何れも辞職すべしとの言合をなし且此事を以て他の一国の現任議員にも迫り専ら某氏の当選を妨げんとなし居る由言伝ふるが右の某氏を選挙せんとする有志者は之に対し勉て其妄説たるを世人に知らしめんとて大体一地方代議士たる者が当選者一人の為に各議員頭を併べて辞職する如き馬鹿気たる挙動の有べき筈なく又一郡の輿望にて当選したるその代議士に対し如何なる事情有りとも他の代議士より異議を容るべき道理万々有るべからずと弁駁し居る趣なり如何にも地方代議士たるものにおいて斯る言合せをなすことはなかるべし併しながら他の一方に於ては現任議員中某候補者に対し何故か一種の非難を加へ其人にして若し当選せば私交上は姑く舎き決して公交をなさゞるのみならず其土地同士の交をも絶つに至らしめんとの決心をなしたるものもありとの風説あり随分珍聞と云ふべし」
右のように、『大阪朝日新聞』の記事は、地名・人名を伏せているので分かりにくいが、豊島郡の森秀次の選挙に関するものとみて間違いない。同郡は一八九一年の府会議員選挙において二人改選しており、『大阪府会史』第一編に得票者一二人の氏名が列挙してある(八三頁)。すると、河内・和泉両国の郡部議員が、もし、「某氏」つまり森秀次が当選するようなことがあれば、「何れも辞職すべし」といい合わせたことになる。
ところが、『大阪毎日新聞』は、選挙後の四月、三月に実施された大阪府会議員選挙の際、摂津国西成郡において、「新平民」云々と記した葉書が村役場に送付されたが、それに摂津国と河内国の郡部議員が嫌疑をかけられていると報じている。すなわち、同紙は「新平民の文字に付て」と題して、次のように報じている(一八九一年四月四日付)。
「曩に府会議員半数改撰の時郵便端書(島の内郵便局の消印あり)に新平民云々との事を認めたる者を西成郡内の各村役場へ送りしものあり此端書の発送者は果して誰れなるや未だ分らねど同郡西浜町の有志者は新平民とは不都合なり此発送者を詮議せずには置かれずとて非常に激昂し平松徳兵衛、溝端佐太郎、寺倉隼之助の三氏に嫌疑を掛け目下三氏に向て厳しく談判中なるよし」
嫌疑をかけられた平松徳兵衛は、府会議員(一八八四年七月補欠当選、引きつづき当選、一八九二年九月辞任)で、西成郡九条村に居住していた。溝端佐太郎も当時府会議員(一八八一年三月堺県合併総選挙に当選、引きつづき改選ごとに当選、一八九一年三月の選挙にも当選したが、同年四月辞任)で丹南郡狭山村に居住していた。寺倉隼之助も府会議員(一八八六年八月補欠当選、引きつづき改選ごとに当選、一八九九年七月府県制実施につき六月中に退任)で、能勢郡西郷村に居住していた。三人の府会議員は居住地も、選出された選挙区も西成郡ではないが、溝端は葉書事件が新聞に報じられた四月に府会議員を辞任しており、平松は翌一八九二年九月に府会議員を辞任している。寺倉だけは、その後一八九九年六月まで府会議員をつづけているので、確証はないが、少なくとも溝端と平松は、さきの葉書の発送と関係があり、辞任したのではなかろうか。また、新聞は「新平民云々との事を認めた」葉書であるとしているだけで、その全文が明らかでない。葉書の発送先も、西成郡内の村役場だけなのか、他の郡の村役場にも発送されたのか不明である。しかし、これは葉書であり、豊島郡の村役場に送付されたものは封書であるから、別のものである。いずれにしても、一八九一年三月の府会議員選挙には、部落出身者の選挙を妨害するため、悪質な文書が村役場に送付され、森秀次は落選した。
これを知った西浜町の有志者は、「非常に激昂し」て、文書を発送した者に対する抗議運動を起こしたのである。まず、さきの新聞記事にみられるように、文書を発送したと思われる府会議員三人に対し、「厳しく談判」した。また、森秀次の地元細河村(新聞では古江村としているが、当時は細河村である)の有志者も立ちあがり、西浜町の有志者と協力し、「文明の今日にも尚我輩を穢多視するのみならず、貴重なる参政の特権をも奪はんとす、我同胞の恥辱是より甚だしきはなし、願くば諸君と協心同力死を以て此恥辱を雪がん、敢て諸君の血涙に訴ふ」(『国民新聞』一八九一年四月一二日付)との檄文を摂津・河内・和泉・大和・山城・近江の六ヵ国の被差別部落の人びとに送付した。各地の部落の人びとは、檄文をみて「大に憤激し」(同上)、西浜町の西浜倶楽部へあてて「今回の事実は由々敷大事なり死を以て談判すべしとの回答」(同上)を寄せる者や、わざわざ来阪する者もあった。運動費も「西浜町のみにて既に一千円程の寄附」(同上)があった。差別文書に対する抗議運動は、新聞記者の目からみても「中々の騒動」(同上)であった。
今回の差別事件に対し、京都府内の部落の人びとも抗議に立ちあがった。京都府における抗議運動については『日出新聞』が詳しく報じている。同紙は、豊島郡の各村役場に送付された、さきの差別文書の内容を、ほぼ正確に紹介し、それがために森秀次が落選したと記している。そして、これを知った大阪の部落の有志者らが「反対派の卑劣手段を憤り、急に近畿地方新平民の大懇親会を開き大に計画する処あらんと欲し」(一八九一年四月七日付)て、その旨を京都府紀伊郡柳原町の有志者に通報したという。通報を受けた者らは「至極同感なり」(同上)とのことで、四月四日、京都円山の左阿弥楼で集会を開いた。四日の集会には、柳原町のほか、京都市内および市周辺の部落の有志者も参加し、将来、大阪・京都・滋賀・岡山・福岡の五地方におよぶ被差別部落の人びとの団体をつくり、「何事にまれ互に相援けて一致の運動を為さんとの事を評決した」(同上)という。つづいて四月七日、柳原町や鷹ヶ峰村字蓮台野など京都府内の部落の有志者五〇余人が柳原町小学校において集会を開いた。その集会では、「此回の件たる独り森氏一身の毀誉に止らずして大に我々新平民社会一般の栄辱に関するものなれば将来の為め予め運動の順序を定め置かん」(同紙、一八九一年四月九日付)との意見から、次のような五項目を決定した(同上)。
一、広く全国の我々社会に気脈を通じ一層権利の拡張を謀る事
二、森氏に係る件は近畿地方の新平民に聯絡を通し西浜倶楽部(大坂渡辺)に応する事
三、応接委員三名を西浜倶楽部に派出せしむる事
四、四月廿日を期し近畿地方の新平民を件し京都に大懇親会を開く準備方法の事
五、運動費は有志者の義捐を以て之に充る事
このうち、第三項の委員の派遣については、柳原町から二人、蓮台野から一人選出することになった。第五項の運動費については、柳原町の和親会が半額を負担し、「他は別途に支出すべき金額あるを以て他に募集することを為さゞることに決し」(同上)て、この日は散会した。
しかし、四月二〇日に京都で開催することを予定していた大会は、その後中止することになった。『日出新聞』によれば、「曩きの豊島郡の撰挙に不当の筋あり迚不日改撰を行ふこととなり、撰挙人中にも今回の改撰に森氏の名誉を回復し是非に同氏を当撰せしめんと云ひ出すもの多きにより」(一八九一年四月一六日付)、ひとまず、今回の事件に対する抗議の手をゆるめ、さきに計画した運動を中止することにしたのである。京都から派遣した三人の委員も引きあげた(同上参照)。
こうして抗議運動は収束の方向にむかったが、豊島郡において、今回の府会議員選挙が不当であるということで、改めて選挙を行うようなことはしていない。同郡では、一八九一年三月の府会議員選挙後、一八九五年二月まで府会議員選挙を行っていない(『大阪府会史』第一編参照)。つまり、『日出新聞』の記事のようにはなっていないのである。では、どうして抗議運動が収束したのであろうか。それは、西成郡長と西浜町長が事態の収拾のため、積極的に動いたからであると思われる。
今回の抗議運動の核となったのは、西浜町の西浜倶楽部員であり、同倶楽部員らは、悪質な文書を送付した府会議員の一人とみられる西成郡選出の議員平松徳兵衛に、はげしく抗議した。そのため、『大阪朝日新聞』によれば、「元来此事は右の如く豊島郡に於ける議員選挙の事より関係を西成郡内に及ぼしたるものなるに昨今の模様にては其余波延て西浜の町治上にも及ぼさんとする恐あるに依り和解の道を講じて之を取鎮めんと」(一八九一年四月二三日付)押田西成郡長は、山越書記を代理として西森源兵衛西浜町長と協議を重ねた。そして、四月一九日から西浜倶楽部員とも相談したという(同上参照)。
だが、この事件が落着をみたのは、五月にはいってからである。『日出新聞』によれば、「其後西成郡長押田良助氏双方の間に周旋して仲裁の労を取りいよく昨日(五月七日―引用者注)同地今宮の商業倶楽部に近府県の新平民を会して和解の宴を開き席上平松氏より新平民に対して謝罪の意を表し又別に西浜町平等会員(大坂の新平民の団体)へは特に新聞に公にせざる約束にて謝罪状を出す筈にて首尾よく落着した」(一八九一年五月八日付)のであった。また、同紙は森秀次と争い、当選した「豊島郡府会議員北村吉二郎氏は郡内町村長村会議員等より辞職を勧告せられ目今思案中の由なり」(同上)と報じている。森秀次も、さきに指摘したように、「余が経歴」で「当選者の北村君は責を負つて二年で辞職した」と述べている。しかし、彼の場合、任期満了まで議員を務めている。
以上によって明らかなように、森秀次は、一八九一年の府会議員選挙における差別事件についても、勘違いしてか意識的か分からないが、事実でないことを種々述べているのである。
むすび
当初、本稿において、森秀次の「余が経歴」を全面的に検証し、政治家としての森秀次の生涯について考察するつもりであった。なぜならば、森秀次についての今日までの研究の多くは、誤りの多い「余が経歴」にもとづいて記述されており、事実を正確に伝えていないように思えるからである。たとえば、藤谷俊雄氏は『部落問題の歴史的研究』(一九七〇年)において、森秀次について記述している(七三〜四頁)。同書のその部分と「余が経歴」を比較すれば明らかなように、「余が経歴」の信憑性を問題にせず、すべて事実として同書に記されている。同書は、「余が経歴」の記述の域を出ていない。にもかかわらず、最近でも、藤谷氏の前掲書に依存しようとするものがある。原田敬一氏の「名望家と政治―大阪府豊嶋郡豊中村奥野熊一郎の場合―」(『鷹陵史学』第二六号、二〇〇〇年九月)がそれである。同稿において原田氏は、一八九一年の府会議員選挙における森秀次への差別事件について、「『東雲新聞』などは強く抗議したが、森は落選した。この事件については、藤谷俊雄『部落問題の歴史的研究』七三〜七四頁(部落問題研究所、一九七〇年)を当面参照されたい」(二四三頁)と述べている。ただ、彼の場合、さきの記述につづけて「藤谷氏によれば、森の府会議員選挙への妨害は三回行われたというが、今後調査研究していきたい」(同上)とも述べているから、彼自身、この問題について調査・研究することを予定しているようである。その成果を期待することにしたい。
ともあれ、これが森秀次についての研究の現状である。そこで、本稿においては、一八九一年の府会議員選挙における差別事件を中心に考察した。
一八九一年の森秀次に対する差別事件については、多くの新聞が取りあげ、差別文書の差出人を批判している。けれども、まだ、分からないことも多い。差別文書は、少なくとも二種作成され、送付されている。その一つが「摂河泉三国有志者」が差出人で、豊島郡の村役場に送付されたものである。文書の内容は、さきに紹介した通りであり、封書である。もう一つが『大阪毎日新聞』に報ぜられているもので、葉書に記され、西成郡内の村役場などに送付されたものである。葉書に記されている正確な文言については分からないが、府会議員三人が嫌疑をかけられ、そのうちの一人である溝端佐太郎は、一八九一年四月に府会議員を辞任している。西成郡選出の府会議員平松徳兵衛は、『渡辺・西浜・浪速―浪速部落の歴史―』(一九九七年)にも記されているように、西成郡長らの和解工作により、謝罪し、一九八二年九月に府会議員を辞任している。もう一人の寺倉隼之助は、その後も引きつづき府会議員となっている。彼は嫌疑をかけられただけで、差出人の一人ではなかったのだろうか。それとも抗議を無視しつづけたのだろうか、不明である。また、一八九一年の府会議員選挙において、森秀次と競争し、当選した北村吉次郎は、『日出新聞』では、豊島郡内の町村長や町村会議員らから辞職を勧告され、「目今思案中」とあり、森秀次も「余が経歴」で「責を負つて二年で辞職した」と述べているが、府会議員を任期の途中で辞任していない。それよりも北村は、二つの差別文書の差出人なのだろうか、豊島郡の各村役場に送付された封書の差別文書だけの差出人なのだろうか。この点についても明らかでない。
以上のほか、『大阪朝日新聞』の「選挙に関する怪聞」では、河内・和泉両国の郡部選出府会議員らも、差別事件に関係しているように記されている。しかし、丹南郡狭山村の溝端佐太郎以外、不明である。和泉国の府会議員の中にも、関係したものがいたのだろうか。いたとすれば、誰か。今後、明らかにする必要がある。そして、抗議運動に地元の細河村だけでなく、大阪府の西浜町や京都府の柳原町などが、いち早く立ちあがったが、それらの土地には、森家の親戚のものが住んでいた。西浜町や柳原町には、抗議運動を起こすに必要な資金を提供することのできる、財力のある住民も多くいた。だが、それだけではない。たとえば、西浜町の場合、近代にはいってからでも、多くの住民がさまざまな運動を行っている。なかでも、自由民権運動をたたかってきた伝統があり、この抗議運動のときも西浜倶楽部員が積極的に動いたことを見逃すことはできない。それにしても、一八九一年の府会議員選挙における差別事件に対し、当の森秀次自身がどのような動きをしたのか、判然としない。これら不明な点についても、以後の森秀次に対する差別事件の解明とともに、今後の研究課題とし、今回はひとまず、これで筆を擱くこととする。
〔付記〕
本稿に使用した『国民新聞』『日出新聞』の記事は、『近代部落史資料集成』第四巻および『大阪の部落史』第四巻に収録されているものである。また、奥野家文書は、豊中市史編纂室が収集・整理されたものを利用させていただいた。ほかに、大阪の部落史委員会が収集した史料も多く利用させていただいた。ここに、御協力いただいた各機関・方々に対し、心から御礼を申しあげたい。