はじめに
このたび、『大阪の部落史』第五巻(史料編 近代2)が刊行された。第五巻が対象とするのは、一九一三年の大阪府による救済事業の本格的な着手から、大阪府公道会の創立にいたる一九二七年までである。この時期は、部落問題をめぐるさまざま動きが本格化し始めた、興味深い時期である。
一九一三年に大阪に救済事業研究会が発足し、社会事業が本格化するとともに、被差別部落の各地域であいついで部落改善団体が設立されていった。一九一四年、第一次世界大戦が勃発して一時は好景気に沸く。しかし一九一八年の米騒動に象徴されるように都市・農村を問わず社会矛盾が顕在化し、方面委員制度が発足するとともに、大阪府・大阪市が救済係・救済課を設置したほか、部落改善事業にも取り組みだす。
一九二二年、水平運動が始まるのはこのような社会状況のもとであった。ただし水平社創立後も部落改善運動がなくなったわけではないし、融和団体としては一九二四年に泉南郡の誠和会が創立される。一九二五年には大阪市が周辺の町村を合併して「大大阪」を実現し、部落改善事業も拡大していく。民間の篤志家に委ねられていた貧困者児童への教育も、その教育を担っていた私立の有隣小学校・徳風小学校が大阪市に移管されていく。また被差別部落の周辺には貧困者が住みはじめるとともに、一九一〇年の朝鮮の植民地化のために日本へ渡航せざるをえなかった朝鮮人の一部も部落の内部ないしは周辺に定住し始め、部落は新たな様相を見せはじめる。
本書が対象とする時期の部落史は、以上のような状況のもとで展開していく。本書では、史料を便宜的に九つの分野に分類して掲載しているが、現実はそれらが渾然一体として起きている。
以下、第五巻に掲載されている史料の概要を、本書の「解説」を参考にしながら章ごとに紹介しよう。なお旧来の通り、プライバシーの保護、個人情報保護の観点から、一部の姓名を伏字とした。また史料には「鮮人」など、朝鮮人や女性など被差別者への差別的な表現が多く存在するが、歴史的史料としてそのまま掲載した。
一 都市行政の拡充と町村合併
(担当 北崎豊二)
一九一四年に勃発した第一次世界大戦を契機に、それまで深刻な経済不況にあえいでいた日本経済は翌年後半以降好転するが、被差別部落の人びとやスラムの住民のほとんどは、?
その「恩恵」にあずかることはなかった。一九一八年の米騒動を経て、大阪府は方面委員制度を発足させるとともに、隣保事業や失業対策事業、そして朝鮮人対策などに取り組むことになる。また重大な社会問題となりつつあった住宅問題や伝染病予防対策、ハンセン病患者の療養所「外島保養院」などの実態を示す史料を掲載している。
一九二五年には、大阪市は従来の東成郡・西成郡の四四ヵ町村を編入して「大大阪」を実現した。この際に部落をその地域内に含んでいる町村のうち、依羅村・城北村・住吉村から大阪市への編入に反対する動きがあった。これとは別に、一九二五年に堺市は舳松村などを編入するが、この時にも舳松村からは反対運動があった。関連史料を「舳松村編入一件書類」から多数掲載しているのが、貴重である。
二 部落の産業と貧富の諸相
(担当 小林丈広、福原宏幸)
本書が対象とする時期において、大阪の部落の実態を示す史料としては『部落台帳』があるが、同史料はすでに『大阪同和教育史料集』などにも収録されているので割愛した。
本書に収録した主な史料としては、新聞史料や『農家副業成績品展覧会報告』、『明治之光』『皮革世界』などの雑誌に掲載されたルポがある。関連する地域としては、細河村・南王子村・新堂村・長瀬村や大阪市内の都市部落などで、それぞれ部落の生活を支えた産業や都市下層社会の実態が明らかになる。
一九一八年の米騒動に関しては、大阪府全般の状況を記録した憲兵隊の記録と、大阪市内の状況を記録した「大正七年八月 米価暴騰関係書類」からの抜粋を掲載している。後者は、初出の史料である。なお、米騒動に際して大阪府知事が出した訓令・告諭は、第一章に収録している。
三 朝鮮人の定住と部落
(担当 横山篤夫)
本書が対象としている時期は、一九一〇年に日本が大韓民国を植民地とした時期と重なっており、日本に渡航する朝鮮人が増加した時期でもある。そうした朝鮮人のかなりの部分は、後に被差別部落の内部あるいは周縁部分に定住することになる。したがって、在阪朝鮮人の歴史を明らかにすることは、大阪の部落史を解明する際の重要な部分であり、そうした問題意識から、既刊の『大阪の部落史』第七巻・第八巻(史料編 現代1と2)でも独立した章を設けた。
本書では、朝鮮人が集団で大阪の部落内部に定住し始めたことを示す史料を少ないながらも掲載した。水平社の活動家と朝鮮人(李善洪)の交流の貴重な記録も収録した。「李
善洪」は、全国水平社第二回大会に関する史料(第五章に収録)に出てくる「李善鴻」と同一人物であろう。なお大阪府が、社会事業の一環として隣保事業とならんで朝鮮人対策の必要を示した史料は、第一章に収録している。
四 部落改善運動の本格化
(担当 秋定嘉和)
大阪でも、部落改善運動の歴史は古い。本書に史料を掲載した地域に限っても、舳松村では一九〇五年から青年同志会が活動していたし、島村の青年会は一九一〇年の創立、西郡村の青年会の創立は一九一一年だった。北区の被差別部落でも一九一一年に改善団体が設立されて、本格的に活動している。その他、一九一三年から一四年にかけて新堂村、南区栄町、城北村、北中島村、布忍村、西天川村などで、青年団を中心とする改善団体が組織されているし、設立年代は特定できないが、同時期に細河村などで青年会の活動が史料のうえで確認できる。
融和運動も、一九二四年には泉南郡に誠和会が、一九二七年には三島郡誠和会が発足し、無視できない影響を与えることになる。
五 部落大衆の目ざめと水平運動
(担当 三原容子、久保在久)
部落差別をなくすさまざまな取り組みのなかで、歴史的に重要なものの一つが水平社を中心とした運動であることは、言うまでもない。一九二二年の全国水平社創立以前から、大阪では奈良の青年たちと交流があったし、創立大会にも参加し、同年七月には大阪西浜水平社が創立された。本書では紙幅が許す限り、各地域水平社創立の動きや糺弾闘争、講演会や演説会などの記録を、地域に片寄りがないように掲載した。
水平社には、部落の活動家だけでなく、社会運動に専心していた青十字社の木本凡人、大阪時事新報の記者であった難波英夫など、部落外の人びとの協力もあったことは無視できない。また水平運動は労働運動や農民運動、無産政党運動との連帯もあり、そうした史料も掲載した。
しかし、水平運動は革命的な社会運動とのみ連帯していたわけではなく、さまざまな思想的な傾向をもつ社会運動と連帯していた。部落のなかに多様な階層と思想があったことから当然のことだった。「解放令」
を記念して明治天皇追悼法会が水平社の主催で開催された例もあり、実際の運動に当たっては、時に大阪府の特高課と懇談するなどしていた。従来の通説よりも多様な水平運動の実像を、本書掲載の史料から読み取ることが可能である。
六 本格化する改善・融和事業
(担当 秋定嘉和)
大阪府と大阪市は、都市問題が顕著であったことを反映して、社会事業の先進的な地域であった。一九一三年に救済事業研究会が設立され、本格的な社会事業が取り組まれていくことになり、被差別部落においてもその一部の事業が実施されていたことが史料から知ることができる。また、すでに一九一二年に設立されていた弘済会や、済生会などの民間の社会事業団体の事業のなかにも、部落で実施されたものもあった。
一九一七年の米騒動を経て、大阪府や大阪市に救済課や社会課・社会部などが設置された後、社会事業という一般対策を超えて特別対策としての部落改善事業(地方改善事業)に着手するのは、一九二〇年に入ってからである。大阪府は一九二一年に部落改善の九項目をまとめたのを始め、大阪府内の各町村が実施する事業を補助していくことになる。また、治安対策の一環として部落に警察官を配置するなど、行政の姿勢を窺わせる史料も散見される。
七 高まる教育への熱意
(担当 吉村智博、伊藤悦子)
同書の「解説」にもあるように、一九一〇年代から二〇年代なかばにかけて、大阪の被差別部落と教育の関係は、‡@「特殊部落」認識に規定された「排除」と、‡A部落および下層社会の生活実態を踏まえた救貧策としての「救済」の、二つの観点から読み解くことができる。
「排除」としては、都市部落・農村部落を問わず、部落の子どもが通う学校の合併問題や越境通学問題がたえず持ちあがったが、その解決は難航することがしばしばあった。また「救済」としては、大阪市内では早くから貧困者児童に対する「特殊教育」の必要が認識され、著名な有隣小学校や徳風小学校だけでなく多くの民間の教育施設が、地域の名望家や篤志家によって行われていた。
この時期、被差別部落や都市下層社会、その子どもの実態をルポした記録は多い。また、部落における教育への熱意を示す史料も掲載した。
八 文化と思想の諸相
(担当 中島智枝子、湯浅孝子)
この時期の、被差別部落あるいは部落差別をめぐる文化・思想の状況を示す史料としては、『明治之光』
や『救済研究』などに掲載された論説などから従来からも知られており、本書にも掲載した。南王子村の青年団機関誌『国之光』などの史料は、新しい。
本書で紹介した貴重な史料として、南王子村に生まれた説経師である逵田(つじた)良善の日記がある。また、淡輪村で地元の部落改善運動に尽力した堀田又吉の日記と、麻生郷村島村組合の村長をつとめ泉南郡誠和会会長の地位にもあった福原正雄の事績を掲載した。後二者、初出の史料である。
また、水平運動や部落寺院への批判、部落のなかにある朝鮮人差別の告発など、時代を反映する論説などの史料も掲載している。
九 改革を求める仏教界の動き
(担当 藤本信隆)
本書が対象とする時期の宗教に関する史料としては、まず前巻(第四巻)に引き続き、布忍村における寺院の日誌(「諸事記録」)を掲載した。当時の部落寺院の姿を読み取ることができる。
水平運動をめぐる宗教界の動きとしては、浄土宗の四恩報答会の釜ヶ崎での実践や、融通念仏宗を中心とする大阪同和会の結成の動きなどを紹介したほか、浄土真宗の取り組みとして、西本願寺大阪教区の講演会や西本願寺内部の有志による改革の動きを示した。
その他、天理教の信徒が部落で布教しようとした際に、部落から排斥を受けたことなどを綴った記録などもある。
お わ り に
―「水平社宣言」の読み方
本書に掲載した史料の概要は、以上である。
ところで、水平社の創立宣言は「過去半世紀間に種々なる方法と、多くの人々とによつてなされた吾等の為めの運動が、何等の有難い効果を齎さなかつた」と厳しく批判した。そうした「吾等の為めの運動」の典型が、全国水平社創立以前からあった部落改善運動であり、融和運動であった。
重要なことは、そうした運動が取り組まれた地域の多くで、後に水平運動も活発に取り組まれたことであり、一部には人的なつながりも確認できる。例えば、大阪市の北区にある被差別部落では矯風青年会が設立されて部落改善運動が本格的に取り組まれると同時に、梅田水平社という地域水平社が創立され、後には全国水平社の本部事務所も設置された。
この地域は、今日では同和対策事業の未指定地域であることもあってほとんど顧みられることはないが、大阪の部落史・運動史では、南区の浪速地域とならんで無視できない重要な地域であった。
つまり水平社の創立宣言の文言は、水平社の決意の表明ではあっても、そのまま歴史的な事実ではない、ということである。部落史の本格的な解明が待たれる。