一九一二年八月に設立された財団法人弘済会(以下、弘済会)は、大阪市が主体となってつくった公共的救済団体である。
当時大阪府内で、救済、救療・衛生、育児、教育、保育、「盲唖者」の保護、感化教育、養老およびその他の援護事業、職業紹介・宿泊授産、免囚保護、地方改善などの事業を営んでいた基金団体・機関などはおよそ一二〇余あった。これらの約半数は、一九一〇年以降に設立されたものである(『大阪慈恵事業の栞』一九一七年)。
ここに紹介する史料は、大阪市公文書館が所蔵する弘済会設立関係の公文書をまとめて簿冊にした「明治四十四年以降 組織調査竝本会設立関係書類綴 会長所管」である。
弘済会設立のきっかけは、一九〇九年七月の北の大火に対する御下賜金と一般義捐金品を処分した残余金の使途についてであった。
そのため大阪市から、大阪府および大阪市代表、大阪府会市部会議長、大阪市会議長、商業会議所副会頭、教育家代表、住友家・鴻池家・藤田家代表、朝日新聞社社長村山龍平、毎日新聞社社長本山彦一(両新聞社社長は一万円以上寄付者代表)など一五名から成る「北区大火災義金処分委員」が委嘱され、審議の結果、次のような「慈恵救済事業設計大綱」がまとめられた。
第一 財源及収支要略
一市役所々管ニ係ル火災御下賜金并ニ一般義捐金品処分残余金外二口本年四月現在金四拾弐万参千余円ヲ以テ基礎トナスコト其ノ内訳如左
金参拾五万弐千五百弐拾参円六拾八銭壱厘
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そして最初の設備費は基礎金の三分の二の二八万二〇〇〇円以内、経常支出予算は六万八四九九円とした。
団体の組織は財団法人とし、大阪府知事・大阪市長を名誉正副総裁とし、評議員・監事(一名は府もしくは市の会計担当者)は火災義捐者、府市名誉職、有給吏員に依嘱し、団体の責任者は院長もしくは会長とする。特に市役所内に一課を置いて公私慈恵救済諸団体の事業の監査・指導に当たらせる。
その事業は特に大火罹災者、「廃兵」、軍人遺族家族の授産および養育その他一般慈恵救済を行うこととし、甲種としてはじめに施行する次の一三の事業をあげている。
イ 大火罹災者中救助ヲ要スルモノ授産及養育
ロ 廃兵授産
ハ 陸海軍人遺族家族中救助ヲ要スルモノ授産及養育
ニ 棄児及孤児貧児等ノ養育
○ホ 貧民子女ノ昼間保育
○ヘ 略式幼稚園
ト 老衰者及窮民救済
チ 浮浪無頼者授産及感化
但当分免囚及不良少年ヲ除ク
○リ 子守教育(昼間)
○ヌ 貧児教育(夜間)
○ル 労働者職業紹介及無料代書
ヲ 救貧病院
○ワ 救療施薬
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次に設置される事業(収容所)の位置、収容または受託人員等は次の如くである(「事業一覧略表」―ただし「職員・傭員人員」と「報酬又ハ給料」の種別は略す。なお「感化及授産場」と「育児場」の「食料薬価又ハ保育費」の金額は、三、五三六円八五銭、七、三二一円九〇銭が正しい)。
ちなみに、「弘済会第一次計劃ニ係ル収容人員予定数」によれば、
一 火災罹災者 十五人
一 軍人遺族、家族 五十人
一 棄児、孤児、貧児 百六十人
一 老衰者(内百人有病者) 百四十人
一 無頼浮浪者 七十人
一 行旅病人 百 人
計 五百三十五人
参考
廃兵及ヒ教育又ハ保育ヲ要スル貧児其他労働者ノ等ノ収容ハ第二次ノ計劃ニ属ス
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となっている。
なお、前記「大綱」では乙種として次の八事業を漸次施行するとしている。
イ 一般職業紹介
ロ 特別宿泊所
ハ 精神病院
ニ 低能者教育
ホ 妊婦産婦ノ救養
ヘ 堕落婦女救済
ト 貧民部落ノ改善
チ 免囚感化
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一九一一年八月二五日付で「財団法人設立願」が、本山彦一(大阪毎日新聞社社長)、村山龍平(大阪朝日新聞社社長)、植村俊平(大阪市長)、高崎親章(大阪府知事)の連名で内務大臣平田東助宛に出され、翌一九一二年八月一七日付で設立が許可された。
設立願を出すに当たり、設立後の大阪市の出資問題に関して市会に設置された委員会で次の希望条件が決議され、市会協議会もこれを可決した(「財団法人弘済会設立願進達ニ付副申ノ件」一九一二年六月二七日決)。
一、北区大火ノ罹災民ニシテ現今尚救助ヲ要スヘキ者ハ此際第一ニ救助スルコト
二、弘済会ノ事業ハ可成先ツ北区ヨリ着手スルコト
三、小林授産場ハ相当ノ方法ヲ以テ継承シ設立者ノ目的ヲ充分貫徹セシムルコト
四、将来弘済会規則ノ改正セラルヽ場合ニハ可成北区罹災民ノ代表者ヲ役員中ニ挙クルノ希望ヲ本会ニ報告スルコト
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ところで、「財団法人弘済会寄附行為」によると、その事業として、前記「慈善救済事業設計大綱」にあげられていたイ、ハ、ニ、ト、チ、ヲ、ワは出てくるが、ロ、ホ、ヘ、リ、ヌ、ルは「資産ノ充実ト会務ノ整頓トニ随ヒ漸次施行スルモノトス」とされ、後日に実施されることとなった。
引用した史料の中に、今日からみて差別的表現と思われるものがあるが、いちいち注記をせずにそのまま歴史資料として掲載した。