調査研究

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2003.09.03
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大阪の部落史通信・33号(2003.8)
 

食肉の村の形成

 のび しょうじ
    (大阪の部落史委員会委員)

一 源流を求めて

  BSE騒動をを契機の一つとして大阪羽曳野・松原の食肉流通センターが統合・廃止される。一見数ある「屠蓄場」と屠場ネットワークが時代の波に飲まれて一つ消えていく、というようにも見えるが、私にとっては特別な感慨が興る。更池村と向野村は関西の食肉生産の発祥の地、つまりは日本の食肉産業の源流なのである。これらの村とりわけ更池村で近世後期「生業」ともいえる牛肉生産・販売が大がかりに展開したことは十年前に初めて明らかにした(『新修大阪の部落史』)。それをさらに詳しく「江戸時代の肉屋さん」(『紀要 部落解放なら』第七号、のち加筆して『食肉の部落史』明石書店、一九九八年、収録)にもまとめた。けれどもその時点ではこれらの村を「食肉の村」、食肉産業発祥地とまで位置づけることは出来なかった。ようやくここに来てその確証が持てるに至った。折りもおりそのセンターが統合・廃止される報が届くと、二〇〇年の技術・文化の瓦解の現場に立ち会っている気がしてくる。

  本稿は先稿がふれることの出来なかったもう一つの食肉の村である向野村の新しい諸事実を紹介する。いわば、食肉生産発祥地を記念する「墓碑銘」である。近世社会の中で食肉の村を形成することがいかに困難であったか、権力・地域社会のみならず周辺皮田村からも強烈な差別を浴びせかけられながらの対抗文化であったかを明らかにしたい。

二 大和国岩崎「肉屋」襲撃

  元治元(一八六四)年、大和国葛上郡柏原村枝郷皮田岩崎村で酒・菓子を売る伊助の店に惣八ら若者三人が押し入って乱暴を働き、伊助の訴えもあったのだろう高取藩に捕縛され入牢の始末となった。七月一四日夕刻盆行事も盛り上がりかけたころの出来事であった。これに対して岩崎も組頭一四人が連名で若者三人の宥免を求める嘆願を役所へ提出した。それによると伊助は村役人に取り入って酒・菓子の商いから他の者を締め出し独占していた。競争相手がないのをいいことに不正をおこない前々から評判が悪い。今回の事件の引き金も若者組が伊助から酒と牛肉を買って、量目が怪しいとの噂もあって計り直したところ案の定少ない。抗議におもむくと「目方不足は村役人に冥加銀を出しているからだ」と木で鼻をくくる返事。これが原因で我慢できなかった三人が夕方暴行に及んだものである。かかる事情にかんがみ我々組頭方へ三人を下げ渡してほしい、というのである。当然酒が入っての出来事であろう。

  組頭層全体と枝郷ながら庄屋をもった岩崎村役人とが幕末村内にあって深刻な亀裂を生じている背景が見てとれるが、ここでの関心はそこにはない。当たり前のように牛肉の小売りが、しかも保存もきかない真夏に行われていること、伊助が牛肉小売を商売としている事実を告発するでもなく、さらにまた藩に対して憚ることなく牛肉食を公言していることである。

  伊助は小売店を営むだけではなく皮革も扱い、維新後には阪本清五郎となのる、阪本清一郎の祖父との間で文久二(一八六二)年皮荷争いを起こしている。伊助は牛肉をどこから卸して来るのか。村内生産?口吉野(吉野郡北西部のこと)下淵から?河内から?。この段階で村内生産は斃牛が出た時に限られたであろうから、安定供給は困難であったろう。先稿が明らかにしたように下淵久四郎はたしかに葛上郡小林村まで鹿猪肉や綱貫の行商に出向いている。岩崎も得意にあって何の不思議もない。但し残る幕末・明治一二年の二冊の大福帳でみる限り洞・小林・岩崎など仲間村との取引の中心は竹皮・沓など生業材料などで牛肉を売買した実績はなかったようだ。

  ところで本題から少し離れるが一般に夏には牛肉消費は大きく落ち込む。ところが幕末の大坂周辺の皮田村では盆行事の間に牛肉を食す新しい習慣、民俗が形成されていったようだ。大和の岩崎だけでなく、下淵、大坂更池村、泉州南王子村などで確認することができる。その民俗は地方によっては周辺の一般農村にも波及して正月・盆だけすき焼きをするという慣行が近代に定着したところもあった。

三 「向野村は殺生村」

  ここではもう一つの可能性をもつルートを考える。安政五(一八五八)年一二月岩崎村牛博労嘉八が牛を向野村に売ったことが問題になる。話は二年前に遡る。安政三(一八五六)年嘉八が無届けで免許なしに博労を行っていることが明るみにでる。大胆にも河内国で牛売買をしているというのである。そのうえこの年村へは手狭となった牛小屋の増設を願い出ているから、かなり本格的な牛取引を考えたことが知れる。当然天王寺孫右衛門から抗議がくる。当時大和南部には近くの蛇穴村で牛市がたった。孫右衛門手代は嘉八が蛇穴の取締役まで届けをだし鑑札を受けるよう岩崎と本村庄屋へ願い出ている。

  それが?末はわからないが、その後も商売を続けたところから了解がついたのだろう。一二月一六日付岩崎村からの高取藩宛長文の嘆願書は

嘉八・増次郎義博労渡世ニ事を寄セ、弱牛馬・煩牛馬下直ニ買受、河州丹南郡丹下村向井殺生方ニ差送り、法則相乱し候旁御糺之上御取締成し下されたく

  その取締を訴える内容であった。残念ながら興味深いその嘆願書は見つからない。そういう内容の長文の訴状を作成して提出した代書屋の費用請求書のなかにメモが残っているにすぎない。「調書」と題された明細覚には、これに続いて翌六年二月になって嘉八を外して増次郎のみの取締に切り替えて嘆願書を提出したこと、ところが改心したと思われた嘉八が皆の目が外れたのをいいことにして、引き続きせっせと河州殺生村へ弱り煩い牛馬を差送っていたことが発覚して四月に再び訴えられた事実が明らかにされている。

  すでにこの時期老病牛を下値で取引する事態は驚くほどのことではなくなっていたはずである。孫右衛門は明和段階で博労の老病牛の皮田への下値取引を公然と奉行所へ書き上げている。幕府にもその意向は存在したが、藩によっては明確に皮田の博労を禁止したので孫右衛門側として「牛目利」の名目をもって皮田博労を組織に取り込む戦略が採られた。皮田牛目利と孫右衛門については専論を必要とするが、幕末大坂の皮田村では村の博労が特別の意味を帯び始める。南王子村庄屋三右衛門、矢田の源四郎の動向が比較的知られる。村政ヘゲモニー争いの一方の主体であり、大坂周辺を巻き込んで持主自由処理を要求する草場制解体「国訴」では身分を越えて皮田博労仲間が利害で百姓側に加勢したりしたからである。だからといって彼らをなんの証明もなく予断をもってアウトローと決めつける塚田孝や西尾泰広に与しているわけではない。関東の貧窮分解は層としてのやくざ集団を作り出す。要求を実現する最短手段が暴力であることは東西古今を問わず、幕末大坂にもなかった訳ではないが、市民社会の成熟したこの地では社会的基盤を得ることはできなかったと考える。

  牛に牽かれてあまりに遠道に出てしまった。岩崎村役人が神経質になったのは老病牛馬の下値買いではない。それは草場惣代等にあてた嘉八・増次郎の詫証文がないこと、本件が草場組合の訴えではない点に示唆される。村にとっての問題は売る相手先にあった。訴状要約からもそれが知れる。村役人からすれば屠殺されるのが分かりきった所へ老病牛といえども、生きた牛、苦労をかけた牛を引き渡すのは忍びない。その心情が訴状を支えているのである。「殺生方」、殺生を専らとする村への持続的売却が問題なのである。

  ここで思い出されるのは次の一件である。天明年間生駒郡安堵村では近江への牛取引が「不法之筋合」として職差留処分を受ける。庄八以下五人の博労が村方へ差し入れた四ヵ条から老病牛を無理矢理厩から引き出し、数人掛かりで近江まで売りにいったことが分かる。但しこの段階では博労が草場権を攪乱する対象として問題となった。それから百年時代も村も異なるが、近江に代わって河州向野が取引先として登場する。以下推定を重ねるが、近江とは彦根であっただろう。当時老病牛の引取手はそこしか考えにくい。距離にして一〇〇キロはあろう。もし向野が引取手としてあれば安堵村も近江ではなく河州に向かったと思われる。向野の名乗りが後期以降であったことを示す。

四 更池・向野は屠者村

  安政五(一八五八)年三月大坂渡辺村の二つの寺院、徳浄寺と正宣寺の門徒惣代は連名して西本願寺本山に強い口調の抗議文を送った。それは河州更池村称名寺が色衣を許され公然使用していたことが引き金であった。部落寺院のなかで最初に色衣=国絹袈裟を許されたのは正宣寺であり天明年間と先例集にある。しかし問題のこの時の住職恵由はいまだ御免とならず申請中だった。徳浄寺の立場からいえば、自寺は部落寺院の中のトップと自他ともに認める地位にあり院家同様の色衣なのに、称名寺がこれより下座とはいえ余間同色の色衣を許されており、部落寺院の秩序をゆるがせにする本山許可は我慢ならないものであった。

  そこから抗議文では次のような驚くべき論理、というよりも雑言が飛び出す。徳浄寺はこれまで本山の取扱いにおいても格別であった。それが更池称名寺同様の地位まで転落するのはまことにもって嘆かわしい、と書き、続いて突然

河州向井之村・更池村右両村之義は?者村と申し、近国類稀なる下村にて御座候

   といってのけるのである。昨年一一月に左右田昌幸氏によって紹介されたこの史料(『太鼓・皮革の町』所収)はまだあまり読まれていないのか反応は鈍いが、被差別民解放「運動」の深刻な両義性を明るみにだす。今この点を掘り下げることはやめるが、抗議文に文脈上何の関わりもない向野村が当然の如くに更池村と同格・同類の村として告発されているのである。

   もとより南王子村での動きをみる限り?牛に対する受容は皮田村ごとに温度差が大きい。矢田村(城連寺村)博労源四郎が指弾されたのは草場内の生き牛を勝手に売買することによって草場制が空洞化することであって、そうして買い入れた事故牛や老牛をどこに売りさばくかは問題にはならなかった。文久に職留めになった彼は数年後の慶応元年には村中の嘆願によって再び博労に復帰したばかりか村役にも就いた。食肉の習慣は序々に広がって受容されてはいく。けれども公然と屠牛を行う村になることは大きな飛躍をはらんでいたのである。先稿であれほど食肉習慣が広まり定着したかにみえた泉州南王子村でさえ、解放令と同時に村役人は屠牛生産を圧迫したのみならず、食肉そのものを周囲からの差別の原因と見立てて排撃したのであってみれば、食肉の村の前途がいかに多難であったかが想像される。

  史料皆無であった向野村の事例を紹介した。更池と並び称される向野の食肉実績はどのようなものであったか。一八七五(明治八)年七月から十二月まで更池が四四頭の時、向野二九頭の解体、矢田はなお五頭にとどまった。翌七六年の同半年更池五一八頭に対して向野も三一三頭の実績を示しており、更池と変わらぬ食肉の村となっていたさまが如実にみてとれる。

[附記]

  大阪の部落史委員会が収集した多くの史料をもって本稿も成っている。ここで明らかにしようとした論点は大坂の中にあっても皮田村間には歴然と村格の違いがあり、村役人も村民も村格を維持しランクを上げることが長期戦略の根底にあったこと、幕末維新期にはその規定要因として大きな勢力となってきた皮田博労=皮田牛目利に着目すべきこと、にあった。そのことを追求するこれは第一弾である。