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大阪の部落史通信・333号(2003.8)
 

書評と紹介

「浪速部落の歴史」編纂委員会編

太鼓・皮革の町
―浪速部落の300年―

森田 康夫(大阪の部落史委員会委員)

  近年ようやく大坂渡辺における近世以来の歴史像が史料的に追究できるようになり、先に通史として『渡辺・西浜・浪速部落の歴史』が出された。さらにその後も大阪の部落史委員会などによる史料調査のなかから渡辺関係の重要文書が多数収集されるなかで、新たに通史を補完するテーマで大阪の部落史委員会に参画しておられる研究者を中心に執筆されたのが本書の成り立ちである。

 その内容は次の諸論稿から構成されている。

 発刊にあたって

第úJ部 近世編・渡辺
第1章 摂津国西成郡下難波村時代の渡辺村と木津村への移転(寺木伸明)
第2章 古地図から見た渡辺村の変遷(中尾健次)
第3章 渡辺村と葬送・墓地(村上紀夫)
第4章 「渡辺村真宗史」に向けての覚書(左右田昌幸)
第5章 太鼓屋又兵衛伝・説(のびしょうじ)
第úK部 近代編・西浜
第6章 新田帯革と西浜の皮革業(吉村智博)
第7章 西浜皮革産業で働く人々(福原宏幸)
第8章 西浜水平社と差別投書事件(朝治 武)
第úL部 現代編・浪速
第9章 太鼓集団「怒」と文化活動(浅居明彦)
第10章 「かわ」「皮」「皮革」―みんな幸せに生きていくために―(渡邊 実)
 あとがき


  まず第úJ部・近世編では三度にわたる地域移転を求められた渡辺の生活空間の変遷を、主として文書から追求された寺木伸明氏の論稿と絵図などから論証された中尾健次氏の論稿によって、「役人村由来書」(文久二年)以来、言い伝えられていた地域変遷と町割に至る状況まで明らかにされている。これまで渡辺は淀川の支流である大川の左岸沿いの天満橋辺りにあったとされていたが、中尾氏の考証で右岸の南渡辺にあったことが明らかになった。

  ところで天正一一年(一五八三)に豊臣秀吉が石山本願寺の跡に大坂城を築城した時、座摩神社は現在地(大阪市東区南九太郎町)に移転させられた。これを機に、座摩神社のキヨメ役を勤める集団として形成された渡辺の住民も、元和五年(一六一九)に下難波村の一角に「かわた屋敷」七反三畝を与えられた。この屋敷地は道頓堀川の北側であったが、元和七年(一六二一)に今度は道頓堀川の南側の下難波村領内に再度屋敷地が与えられて移転した。そこで渡辺の人々は八〇年ほど居住した。この間、旧渡辺住民の格式と生業に従って、最も古くからの有力層からなる中之町を軸に、皮革問屋の集まる八軒町などの町割がなされていた。

  『新板大坂絵図』によると地域の出入口には木戸がおかれ、他村に見られない木で囲まれる景観にあったところから寺木氏は「景観上においても、社会から隔離されたムラとして存在せしめられていたと言える」(八頁)とされている。それでも延宝検地帳には本村百姓に続き、賤称ぬきで渡辺の惣道場である徳浄寺以下の住民の屋敷地が記載されていたことも指摘されている。景観上の差別性に対して、なぜ検地帳では賤称が外されているのであろうか。そこがさらに知りたいものである。

  渡辺は元禄一一年(一六九八)の末に市街地の拡張という幕府の都市政策のなかで、下難波村から木津村に再度の移転を命ぜられた。しかもこの間、中尾論稿で述べられているように御用地召し上げの代替地として低湿地の東成郡野江への移転を命ぜられたり、木津村領の干拓地である七反島への移転が計画されるなどした。いずれも居住に適さないために移住可能な場所への移転を嘆願し、その結果として木津村堂面に替地が与えられるという経過をたどった。

 このように為政者によって居住空間を転々とさせられた例は他にないであろう。渡辺のかわたこそ変貌する都市の犠牲者であったことがよくわかる。

  しかもこの間、大坂三郷に属する都市のなかにあった<渡辺>だけに、下難波村への移転や木津村への移転に際しても、常に年貢地を上回る無年貢地を「大坂三郷に準じて除地とされていた」(三〇頁)とする中尾氏の指摘は重要である。これまでかわた村の無年貢地などは役負担の代償としての除地と理解されてきたが、そうではなくて大坂という市中の慣習を渡辺の人々は為政者の都市政策に対して、その度重なる移転に際して町固有の既得権益として保証されたということであった。それ故、下難波村に続く木津村移転でも渡辺の<町>固有の町割が、場所に応じて区画されていた理由がよく理解できる。

  そのように考えるならば寺木氏が下難波村から木津村への移転をめぐって「渡辺村屋敷地全体(無年貢地分と年貢地分)の北側四分の一程度が、召し上げられることになったと考えられる。(中略)その四分の一ほどの代替地を、その南側にでも地続きで確保すればよいわけで、全面移転の必要はなかったのである」(一二頁)と移転を領主側の一方的な差別施策の結果とされているが、屋敷地の分断に対して地域的結束を誇る渡辺の住民としては、単なる代替措置で妥協できたのであろうか。

  渡辺住民にとっては川に面した場所で、商工業者としての伝統的な町の機能を維持することが重要であった。その町割を可能にするために全面移転を選んだのではないかと考えられるが、その点はいかがであろうか。その証しが寺木氏も述べられているように「この地に移転してからも、従来どおり旧四町は無年貢地、新二町(新屋敷町と拾軒町)は年貢地となった」(一六頁)とあるように、伝統的な町割を無年貢地を中心に進めるためには一定の町空間を必要とした。そのためには再度の全面移転であっても、それを選ばざるをえなかったのが渡辺住民の立場であったのではなかろうか。

  下難波村時代でも町としての景観を保つために、<町>の出入口に木戸を設けることになったのであろう。それを隔離のシンボルと見るか町屋の体面と見るかも論議されねばならないであろう。

  次に中尾氏は、渡辺が「渡辺村」と称するようになったのは、難波村に移転した段階からであろうと指摘されている(二五頁)。その理由は難波村が大坂市中の外側にあたり、そこに渡辺が位置するようになったから渡辺<村>と称するようになったとされている。しかし渡辺は難波村や木津村領という村落内に存在していても決して農耕を営む村ではない。その機能からいって<町>であることに重要な意味があるのではなかろうか。現に中尾氏も木津村での渡辺は「難波村領内にあった時と比べ、格段に町の数が増えている」(三四頁)ことに注目されているように、町としての経済的繁栄が恒常的な人口増加をもたらし、周辺地域に「穢多細工場」などの名のもとに住宅を拡張させたことが述べられている。

  たとえ「渡辺村」「役人村」「西木津村」と自称していても歴史学としては町屋の発展として分析することが、より渡辺の実像に迫りうることができるのではなかろうか。現に木津村移転後ではあるが「船場町」と自称していた。その意味でも私はこの書評に<渡辺>と表記することにこだわった。

  それにしても近世大坂の絵図に「かへ地ゑつた」とか「ゑつた」「穢多村」「穢多新地」「エタシンケ」などと、大坂を知ろうとする人々に賤視の眼差しで渡辺を差異化することに注意を払っていたことがわかる。そしてこのような絵図における意識のあり様に改めて身分制社会の呪縛の強さを見る思いがした。

  村上紀夫氏の「渡辺村と葬送・墓地」は役人村としての側面と、本村木津村からみた被差別民への別火の実態について述べられた内容から成り立っている。まず役負担としての葬送に関しては『摂津役人村文書』に示されているように、大坂城をはじめ主要な公儀施設の周辺行倒れ人、刑死者、牢死者、それに相対死などの死体「取り片付け」が渡辺の斃牛馬処理権の代償として負担を命ぜられた役であった。ここで死体「取り片付け」といわれる行為の内容について、相対死事件を例に説明されている。

  すなわち一口に「取り片付け」といっても、『徳川禁令考』にあるように、死罪や遠島の刑を受けたものが牢死した場合、「取り捨て」といわれる掘った穴に投げ込み軽く土をかぶせる埋葬であり、下手人や重追放以下の処分を受けたものが牢死した場合は「取り片付け」と呼ばれており、前者と比べて少し丁寧な埋葬法であった。さきの男女二人は相対死であるところから千日の灰置き場に取り片付けられることになった。

  ところが「取り捨て」の埋葬は千日の墓所以外でも行なわれ、それが渡辺に近い十三間堀川の西にある月正島で行なうことが渡辺の仕来りになっていた。つまり「取り捨て」埋葬が渡辺の役務であったということである。その理由として、村上氏は寛保元年(一七四一)に渡辺住民が千日墓所で刑死人の埋葬を求めた時、墓所聖からそのような慣例がないと拒否され、奉行所側もそれを支持した時からであろうとされている。

  いずれにしても「取り捨て」は重罪人に対する見せしめ的な埋葬法で、そのような重罪人の最後の葬送を渡辺に課していたことを大坂市中の住民からみた時、いやが上にも穢れ多き存在として印象づける為政者の狡智であった。

  このような渡辺住民自身の葬送は難波村時代は千日の墓所で行なわれていたが、木津村に移転後は、本村の墓地内で焼香場や礼場の借用をうけたが、焼場は本村建物のそばで何尺か下げて別に作られていたことが紹介されている。このように同じ人間でありながら同火を忌み、そのうえ一段下げて焼場を作らざるをえなかった渡辺住民にとっては、それだけに来世への強い願望なくしては一生を終わることができなかったであろう。

  その意味からも左右田昌幸氏の「「渡辺村真宗史」に向けての覚書」は、近世大坂における部落史研究の空白を埋める問題提起の一章である。左右田氏は渡辺における今後の真宗部落寺院史研究の指標として、一、真宗信仰の受容から始まって惣道場・寺院の成立。二、村持ち・門徒持ち道場・寺院の維持運営のあり方。三、門徒の真宗信仰の内実。四、門徒の日常生活における真宗という宗教の現われ方、生活意識面への影響。五、生業において渡辺村の真宗寺院の門徒であることの影響。六、寺院が複数存在することの意味、そのことの村内の政治状況との関連。七、惣道場の雇われ住職たる看坊の継職の実体。八、看坊と門徒との関係の実体。九、門徒レベル・寺院レベルでの他の地域・寺院との関係。一〇、本山に対しては幕末期に至ってなお「船場町」や「西木津村」と地名表記することなどに見られる門徒の地域認識の問題。一一、教団制度上の差別を受けつつ真宗寺院・門徒であり続けることの歴史的意味、また差別しつつ教団に包摂し続ける教団や本山との関係、などを掲げられている。しかし、これまで史料の残存状況と発掘状況に制約されて研究の進まないなかで、ようやく左右田氏などの努力で渡辺における真宗研究の可能性が生まれ、その成果の一端として本稿では木津村移転後の近世後期の動向が扱われている。

  周知のように渡辺には徳浄寺・正宣寺・阿弥陀寺・順正寺の四ヵ寺が存在していた。徳浄寺は渡辺全町の惣道場であるのに対して、正宣寺は渡辺の有力層が住む中之町の道場であった。これらはいずれも近世初頭以来の道場であるらしく、渡辺の移転にともなって道場も移築されていった。順正寺は文化一四年(一八一七)に木仏・寺号が与えられ、看坊恵正にも自剃刀が許された道場であるが、その場所は徳浄寺の境内にあった。また阿弥陀寺も文久三年(一八六三)に門徒により木仏・御影などの下付をうけ、了忍が寺号を本願寺に願い出て認められて徳浄寺から分立した道場であった。このように惣道場の徳浄寺から看坊を出した町の有力層を軸に精神世界の分化を見ることは、経済的有力者を中心とする地域再編を象徴するものではなかろうか。

  河内国北蛇草村には二ヵ寺あったが、東西両本願寺末に分かれていた。それでもかわた村で二ヵ寺を維持することに本村庄屋から掣肘を受けていた歴史があった。ところが渡辺には西本願寺系の四ヵ寺が併存していた。いうまでもなく渡辺の経済力を示すものであった。しかしその成立過程から見た時、渡辺の経済的発展にともなう地域内での新旧の立場や、労働・金融などを通して形成された人間関係と被差別身分にあることに起因する来世での強い救済観念が反映されていたといえるのではなかろうか。

  まず開基が最も早かった正宣寺は、渡辺橋南詰に住んでいた頃、いうなれば神社の宮座に連なるようにして起こされた有力層の寺院であった。それに対して徳浄寺は渡辺全住民の寺院であった。この両寺の木津村移転後の本願寺との関係は、享保二〇年(一七三五)に本願寺から両寺にそれぞれ五〇〇両の調達が指示されていたように、大金を寄進できる寺院とし部落寺院を下寺に持った金福寺・万宣寺などに匹敵する存在として重視されていた。しかし本山はその財力を重視しても両寺への社会的体面まで保証するものではなかった。

  安政五年(一八五八)、正宣寺を出し抜いて河内国更池村称名寺が本願寺に色衣を許された時、徳浄寺・正宣寺の門徒惣代は「河州向井之村・更池村右両村之義者?者村与申、近国類稀成下村ニ而御座候」(留役所「大坂諸記」五九番帳、安政五年三月条)と同じかわた村であるにもかかわらず下位集団のごとくけなした。そして徳浄寺はそのような寺院に同色の衣を許したことを歎かわしいといい、正宣寺は色衣の着用をめぐって自尊心を打ち砕かれたことに幾重にも歎かわしいと本山をなじった。ともあれ本山に対しては財力で他を圧倒し、他のかわた村に対しては西日本の皮革の集散地としての経済力で下位集団視した両寺院の優越意識が史料からよく理解できる。

  とはいえ地域の経済的発展は有力豪商を生み出し、そこでの人間関係から町中の運営をめぐって主導権争いを起こさせた。それが地域の日常的関心事である惣道場の運営をめぐって表面化した。万延元年(一八六〇)に徳浄寺の了忍は本願寺から「格別之沙汰」により自庵を許された。この了忍は徳浄寺門徒惣代の一人であり北之町で皮革問屋を営む播磨屋五兵衛の子であったことから、播磨屋の徳浄寺支配をよしとしない門徒惣代の一人奈良屋新助らの了忍への不帰依運動がなされた。このような徳浄寺の内紛から了忍に従う門徒が、津村御坊の仲介で播磨屋五兵衛の献上した皮干場に寺を建て、本願寺からも寺号が許されたのが阿弥陀寺であった。渡辺では惣道場だけはたとえ誰であれ、町の有力層によって支配されることを許さない慣習があった。

  この阿弥陀寺の分立事件に関して左右田氏は、この時点での渡辺地域の階層分化の状況を参照・基準にしなければ、事件の正確な分析ができないとされている。もちろん階層分化の状況を把握することは必要であるが、この時、播磨屋五兵衛と了忍に従ったのは徳浄寺門徒のうちで一八〇人であった。この人数は町を二分する数ではなく、日常的に播磨屋五兵衛と関わりのある親類や仕事をめぐる利害関係で結ばれた人々だけであったのではなかろうか。播磨屋五兵衛家の徳浄寺を中心とした地域社会での指導性は認められなかったが、それでも阿弥陀寺を生み出した播磨屋五兵衛の本願寺に対する影響力は、渡辺の町でしか考えることのできない出来事といえよう。

  慶応四年(一八六八)、津村御坊が兵火を避けるために法物類を阿弥陀寺に一時避難するという、きわめて興味ある出来事が起こった。なぜ渡辺に避難したのか。その経緯は、「当度之義者非常与ハ乍申兵火ニ付、誰壱人も駈付候者無之所、早速西木津 多人数駈付来、右御品々持運候勢ひ実ニ不惜身命働感心之次第ニ有之候」と本願寺の留役所「大坂諸記」から紹介されているように、大坂市中の門徒は誰も来ないなかを渡辺から駆け付けて兵火から法物を助けたのであった。もちろんこの時の中心は津村御坊に恩義を感じていた阿弥陀寺関係の門徒であろう。そして播磨屋五兵衛は役人村の火消役の頭にでもなっていたのかもしれない。日常的に穢寺として差別していた寺院に、大坂の触頭・津村御坊の法物類が運ばれねばならなかったこと自体、浄土真宗界の差別体質はこの事態からも厳しく反省されなかったならば、教義そのものの質が問われかねなかった。左右田論稿はその意味でも私達を瞠目させる一文である。

  さて本書のなかで一番の圧巻は『世事見聞録』や『守貞謾稿』などで巨万の富を蓄え、被差別身分の増長者として伝説化された太鼓屋又兵衛の実像を追求したのびしょうじ論稿であろう。小説好きののび氏らしく多岐にわたる論証と多彩な登場人物は、さながら歴史小説の展開である。

  初代太鼓屋又兵衛と目される人物は、大和国葛上郡柏原村の枝郷岩崎の有力層・茂市郎家の次男吉兵衛であった。福岡藩革座柴藤の「風説書」によると、化政期に太鼓又が大坂で押しもおされぬ豪商として名をとどろかせていた。その繁栄の元を築いたのが、大和から婿養子として迎えられた吉兵衛であった。しかし吉兵衛が史料に登場した時、すでに中之町正宣寺の檀家としてであった。中之町は渡辺の中心で、誰でもが簡単に参入できる空間ではない。当然、太鼓屋又兵衛家はこれ以前からここに居を構えていたということである。のび氏の追求は太鼓の胴に書かれた墨書銘の探索に及ぶ。

享保廿年乙う正月吉日
摂州大坂渡辺村中之町
  細工人太鼓屋
     又兵衛(花押)

  ここで『摂津役人村文書』の卜部豊次郎「大阪渡辺村」の記録から、太鼓屋が安永五年(一八五八)頃、大和から吉兵衛を招いた経緯に及び、この吉兵衛が太鼓商いから皮革の売買に事業を拡大し、皮革問屋にまで成長させた太鼓又中興の功労者として位置づけられている。

  その後、太鼓又は豪商として名声を博すも財産をめぐる本家分家の争いなどがあるなかで、四代目太鼓又になったのが、豊前北方村の有力層・武兵衛の次男武助であった。天保一三年(一八四二)、武助は太鼓又に婿養子として入るために小倉藩の皮革専売の一手買受人という手土産をもって来坂した。もっとも太鼓又もすでにその前年に一手買受人としての指定を受けていた。ともかく皮革の買付けに九州筋の事情に通じている武助は、皮革商人としての才覚を遺憾なく発揮した。そして渡辺の岸辺屋や住吉屋などを押し退ける皮革問屋として活躍した。

  かくして太鼓又は前貸し資本による旧来の流通ルートが機能を低下させるなかで、新たに現地と緊密な関係を取り結び安定的に皮革を購入した。その時、先の吉兵衛にしろ武助にしろ婿養子として迎えられることで、それまでの渡辺にない新しい知恵と行動力を呼び込んだのである。のび氏はそのような太鼓又を新興皮商人と位置づけられている。しかし太鼓又は仲買商人から皮革問屋への転換過程にある商人で、もはや新興皮革商人ではない。まさに太鼓又の商業活動は西日本を視野に入れこれからの時代を見据えた、太鼓屋らしく打てば響く情報に反応する商人としての知恵を備えていたということではないか。



  第úK部・近代編の明治中期における西浜の皮革業をあつかった吉村智博氏の論稿は、主として新田帯革の事業展開と新田長次郎の経営理念をめぐって論じられている。

  明治一〇年(一八七七)、四国から来阪した新田は近代的な皮革技術を藤田組製革所などで学びながら、西浜町に近い難波久保吉の地に新田帯革を創業した。すでに新田は当時の皮革業に対する社会の眼差しとして「日本ノ現時コソ之ヲ以テ賤業ノ如ク侮蔑」(『新田長次郎履歴書』)されていることを認識していた。しかし西浜の地が近世を通じて西日本の皮革の集散地であることを承知し、さらに西浜に近い三軒家周辺には大阪紡績などの近代企業があり、新田はそこでの伝導用の帯革の需要に着目して生産を開始した。さらに新田は夢であった先進国のロンドンやパリを視察して技術水準の向上に努めた。新田のこのような先進性が、後に新田ゼラチンに受け継がれていったといえよう。

  新田は創業以来着実に業績を伸ばし企業規模を拡大し、そのことは大阪経済への新たな社会的効果をもたらした。同時に西浜の皮革製品の社会的認知に向けて一定の社会的役割を果たしたと吉村氏は指摘している。

  このような優れた資質をもった新田長次郎とは、それではいかなる経営理念の持ち主であったのだろうか。少年期に福沢諭吉の『学問のすゝめ』などを読み、立身出世を心の糧として日々研鑽に励んだ人物と評価して、私立有隣小学校の開設はその思想的延長線にあるとされ、彼の経営理念にも勤勉・自己克己・温情など如実に現われていたと吉村氏は指摘されている。吉村氏が引用された史料を再掲しよう。

常ニ素朴ヲ旨トシテ浪費ヲ避ケ朝ハ工人ニ先チテ工場ニ入リ夜ハ工人ニ後レテ場ヲ出デ以テ間断ナク工人ヲ監督奨励ス亦寄宿人ノ如キハ出入時間ヲ守ラシメ萬一賭博或ハ賭博類似ノ所行アルモノヽ如キハ即時ニ解雇スト雖モ未タ手芸遅鈍等ノ故ヲ以テ解雇セシ事ナク仮令一日タリトモ使用セシ者ノ疾病ニ罹リ或ハ死亡スル等ノ事アル時ハ医療ヲ加エ、或ハ遺族ヲ扶助シテ方向ニ迷ワザラシムル等懇篤親切ヲ極ム是ヲ以テ傭人皆進ンデ用ヲ為スヲ娯ミ絶エテ仝盟罷工等ノ紛擾ヲ見ザルハ亦タ因ル所アルヲ信セリ(『新田長次郎履歴書』)

 吉村氏はここから立身出世主義で鍛えられた新田自身の勤勉さとは裏腹に、工場経営者としての労働者への懐柔をテコとした資本主義的(搾取のための)労務管理を読み取られている。しかし私はこの評価に同意するには少し躊躇する。まず明治初年に読んだ福沢の『学問のすゝめ』を立身出世主義のバイブルと見るのは少し見当違いではなかろうか。身分や門地から解き放たれようとした一人の人間として、その再生が国民国家を下から支える生き方として語られていたことを無視してはならない。

 次に新田の陣頭指揮であるが、資本主義の形成期には技術指導と工場内点検は欠かせない。ちなみに資本主義的な過酷労働に悩む労働者の救済に先頭に立ったロバート・オーエンも工場巡回を行ない、労働用具の盗難防止に注意を払っていた。新田の行為は労働者に対して人間的に厳格な倫理を求める代わりに、経営者としての自己責任を労働法も何もない時代に実践していたことはいくら高く評価してもし過ぎることはない。

 私立有隣小学校の開設(一九一一年<明治四四>)も教育に欠ける地域社会に対して手を差し伸べた新田の幼い子どもへの思い『学問のすゝめ』であった。私にはこうした新田の姿に和製ロバート・オーエンすら彷彿とさせるがいかがであろう。

 そこで次の福原宏幸「西浜皮革業で働く人々」に移ろう。いうまでもなく近代の西浜の皮革産業は、皮革製造業と皮革製品加工業から成り立っていた。日清・日露の戦争期には軍需用として皮革の需要が伸び、職工の数も一軒当たり五〇人以上も増加したが、それ以外の時期は凡そ一〇〜一五人程度であった。革製品のうちでも工業用ベルトの生産が七割を占め、靴がそれに次いでいた。その意味でも新田帯革製造所の存在は大きかった。

 一九一七年(大正六)の職業別就業人口の割合は、皮革及びその関連職種三五・五パーセントを先頭に、履物修繕などの雑業一七・五パーセント、靴製造及び販売業一五パーセント、靴以外履物製造・販売業九・四パーセント、仲仕など力役八・八パーセントの順であった。昭和期になると地方からの流入者の増加で、力役など不安定労働にともなう低所得層を形成した。

 このなかで西浜を代表する皮革職工と靴職工の数は、それぞれ七七八人、六七九人ときわめて多かった。しかもこれらの職工と事業主・親方との関係は、少年期からの徒弟奉公として主人・親方とは従属的関係の下におかれていた。被差別部落出身者としては職業の機会に恵まれないだけに、主人・親方の恩義のもとで低賃金労働に甘んじた。

 ところで一九二六年(大正一五)の大阪府水平社大会で、新田帯革工場が部落民を採用しないのは以ての外と抗議した。なぜ新田が西浜の部落出身者を採用しなかったのであろうか。福原氏はその理由として、一つは「完全な人格を作る主義」を重視する新田の創業精神が、部落出身者をその可能性のない人々と見たこと。その二つは、西浜の閉鎖的な労働市場を相対的に労働過剰にしておくことで、西浜の皮革業者に安定的で低賃金の職工供給体制を保証することとされている。

 果してそうなのだろうか。完全な人格を作る主義はまさに融和運動に通ずるもので、部落出身の企業家としてのエトスであった。それは部落民に差別の現状から離脱するため、勤労者としての新たな自立を訴えたものであった。新田の創業の精神は部落民を排除する口実ではなかったはずである。

 西浜からの人材の引き抜きを見送ったのは近代的企業をめざす新田にとって、賃金を初めとする優遇措置が皮革の購入先である西浜の徒弟的労働環境に混乱をもたらす恐れから採用を控えたのであろう。しかし後発の新田が地域の低賃金構造をわざわざ保証する必然性はなかったのではないか。

 いま一つは皮革産業の差別性を熟知する新田にとって、世間から広く人材を求めることで部落産業としてのイメージからの脱却を図ろうとしたので、あえて西浜からの採用を控えたのであろう。しかし西浜から職工を採用しなかったからといって、西浜以外の他の被差別部落からも採用しなかったということではなかろう。この点は福原氏も述べておられるように、さらに検討を要する課題である。

 朝治武氏の「西浜水平社と差別投書事件」は糺弾闘争の失敗例として、その失敗には固有の問題性があり、そこに当時の水平社運動の特質が表われていると指摘され、事件の展開が述べられている。

 ことの起こりは一九二五年(大正一四)木津第二小学校で、一年生の児童が夏休みの宿題ができていないことを担任の栗山訓導から叱責され、体罰を受けた。児童中心主義が唱えられた大正デモクラシー期に、こともあろうに一年生の児童に体罰を加えるなど栗山訓導の資質と時代感覚が疑われる。しかし日本の師範教育は国家有為の人材を育成するための使命が課され、自ら主体的にそのおかれた現状から教育を考える知性に欠けていた。栗山訓導は親と松田区会議員・常盤学務委員らの抗議に当初は謝罪の意志を示さなかったが、学校長がは今後、同種の事件の起こらないよう注意することで陳謝して体罰問題は一応解決した。

 ところが一〇月になって体罰を受けた児童の親のもとに差別投書が舞い込み、その内容から西浜地域全体の問題として区会議員に取り上げられ、学校側に再度抗議がなされた。その結果、学校内は学校長が責任をもって対処し、学校外は松田氏ら四人の区会議員で対処することになった。しかしその後、学校長は校内だけで問題解決ができないと考え警察の手に委ねることを提案したが、父兄側の交渉団はあくまで学校と区会議員が全責任をもって事件を解決するよう求めた。この間、二度目の差別投書が投函され、地域の関係団体をあげて町民大会が開催され、それに応じて全国水平社も事件を取り上げた。にもかかわらずそれを尻目に差別投書はその後も続いた。差別投書事件に対する取組みは暗礁に乗り上げてしまった。

 このような事件の経過のなかでの差別投書事件の問題点として、朝治氏は木津第二小学校のおかれた状況や学校側の体質、事件の後半にその解決を任された水平社の影響力とその中心人物の栗栖七郎の対応などが検討され、その結論として、一、事件の行為者が不透明な特異性の事件であること。二、差別投書を発生させたのが西浜部落に隣接する地域での部落民衆と一般民衆の軋轢から発生した事件であること。三、差別投書事件をめぐって様々な対抗関係が複雑に交差して問題解決を鈍らせたこと。四、当初は青年団の一部が解決に向けて立ち上がり、やがて西浜水平社の問題になったがその影響力は小さかったこと。五、差別投書の行為者を筆跡鑑定で探し、教員との非公式な接触で学校側の自主的責任で問題解決を期待した栗栖の個人的対応の限界、などが指摘されている。

 大筋としては理解できる。そして私の推測では、差別投書の実行者は恐らく日常的に西浜部落に批判的であった校区の少し学のある親の仕業か、西浜に差別的な感情を持つ大阪市内の他校の教員であろう。なぜなら学校長は司直の手に任せと言い出していたからである。これは明らかに内部調査をして関係者が学校内にいないことを表明するものであった。それ故、栗須が乗り出しても犯人は発見されないし、自主的に学校の責任で問題解決できないのは当然であった。いうなれば栗栖を含めた水平社の問題解決への見当違いであった。

 思うにこの事件からの最大の教訓は、投書事件への犯人探しではなかったはずである。なぜなら最初から行為者の特定できない不透明な事件であったからである。それ故、事件を契機に学校側に児童の人格を大切にする「児童の世紀」に相応しい、児童を大切にする教育の推進を校区に宣言させることではなかったか。犯人を見つけて謝罪させてもその時だけで、その結果、校内に残るのは水平社に対する偏見だけが言い伝えられるのが落ちであった。その点では学校の自主的責任で解決を求めた栗栖の考えは一つの対応ではあった。しかし行為者が学校ではなかったので結果を残しえなかったし、地域課題に眼をつむる戦前の学校教育は事態の責任を回避するだけで全てを不問に付した。

 最後の第úL部・現代編は人権の世紀に向けて地域再生のための文章である。読者はまずここから読まれることをお勧めしたい。

(四六判、230ページ、「浪速部落の歴史」編纂委員会編、2000円+税、2002年11月刊)