一 本稿の成立事情と意図
「大阪の部落史」の近世編がいよいよ史料編から本格化する。調査した文書群から収集した史料は、カウントの仕方にもよるが七〇を越す所蔵者・数万を数える文書点数になる。その内から史料編収録予定史料として近世委員が選定したいわば第一次候補史料は四千点に近づいている。これはどういうことかといえば、たとえば西本願寺が現地の寺院との往復書簡を旧国ごとに書留めた『諸国記』とよばれる記録が西本願寺に所蔵されている。厚いものになると三〇センチにもなる書冊が大阪関係で二〇〇冊を越える。受入れ先の関係もあって一度に四人以上は調査に入れない。委員はそれぞれ本務を持っているため月に一-二回が限度である。そのため中断もあって三年越しの調査になった。マイクロのコマ数は二二〇〇コマになるが、近世前期分はないため、第二・三巻の各一章分、史料数にして最大でも三-四〇点程度が実際に使用される、という比率になる。
当然史料の精選が、しかも今後の研究方向を見越しての先見的な見地からの選択が要請される。悩ましいのは、それは史料そのものに沈潜して可能になるとは限らないということである。史料の読み込みはもとより分野ごとの総括や新しい分野・領域の設定、あるいは視角の見直しと接合することによって実現する。収集史料にして選定史料の中核になる分野の総括や一定の見通しが求められるのである。本稿を草したなによりの理由である。
それにしてもその第一号がなぜ摂津渡辺村なのか。有り体にいえば〇三年に入って渡辺村=浪速の新しい史料集編纂が始まったこと、そのため研究史の整理が必要になり草稿となるべき試案を報告したこと、それを土台にして改めて考えてみようとしたことがある。けれども大阪の部落史に引き直して考えた場合、大阪三郷との関わり、摂河泉皮田仲間の中での特別な位置、皮革を軸にした西日本・関西の物流・経済圏での求心力、どれをとっても渡辺村抜きには十全な大阪の部落史の理解には達しない。
その渡辺村研究は一九八〇年代までの総括的な物言いをすれば<1>異本も含めて二つの『由来記』の枠を大きくは出られなかったこと(注1)、<2>中心となる皮革業について半世紀前の中西義雄が参照されるようにその後の見通しが得られなかったこと(注2)、<3>盛田嘉徳編『摂津役人村文書』のほかにまとまった関係史料を発見できなかったこと、があげられる。その事情が大阪の部落史編纂事業によって大きく変わった(注3)。少なくとも新しい兆候が開けた。この一〇年の格闘を新しい視角から整理する。
二 難波村時代の渡辺村
部落成立論は下火になったが、起源や形成が研究課題でなくなることはないであろう。渡辺村についていえば依然として元禄の木津村移転以前の渡辺村、あるいは市中「かわた」については久しく『由来記』の枠を出られなかった。けれどもごく最近になって変化をみた。新しい動きは拙稿の他に、<1>難波村庄屋であった成舞家文書による寺木伸明、<2>道頓堀開削に功のあった安井家文書を用いての八木滋、<3>大量の三郷考証絵図を素材に考察した中尾健次らによってもたらされた。またこれらの論考後、重要な史料の存在が明らかとなり、所蔵者の関西大学の目録にも掲載された(注4)。
(端裏書)
「摂州欠郡之内村名出候古文書写」
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以上
急度申遣候其庄葭之事、為其村々如去年買取之、御年貢運上可申候、不可油断候、然ハよし濫妨苅仕候共、理申一切からせ申間敷候也
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慶長五 |
小
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播磨 |
霜月十日
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名乗書印 |
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片
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市正 |
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名乗書印
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闕郡
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百姓中
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右廻状之写上申候
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解釈が難しいが葭小物成運上をこれらの村々に課す代わりに刈取りの権利を認める許状であろう。そしてこれが「わたなべ村」の初見史料である。これに続くものは慶長一〇年(一六〇五)摂津国絵図に見える「下難波ノ内皮多」であるが「わたなべ」表示ではない。西宮市が所蔵する慶長絵図については戦乱激しかった大阪城周辺について正保期の後筆が指摘されている。先の三氏の研究をこの史料も入れて組立直すとどうなるか。八木が明らかにした安井家文書の「かわた古町」は付近各所に分散していたかわた屋敷が集住されたこと、しかしそれは寄せ集めではなく核となる「古町」に合併する形で進行したこと、都市化によって在方へ押しのけるように移転していくにも関わらず中核は町と呼ばれていたこと、このことは先稿1で木津村移転後も六町の共同体は解体しなかったことを指摘したが、共同体は個別町を単位としてそれを集めて渡辺村と呼んだことを示している(注5)。
寺木は延宝検地帳から免除地四町の他にかなりまとまった宅地・土地を所持していることを明らかにした。それはなにを意味するのか。徳浄寺は年貢地である十軒町にあり、それが検地帳に上げられていることから、宅地は残る二町分とすれば当初から家ごとの坪数が大きく異なっているのが不審である。木津村定着時から遡及して演繹的にみれば元来この部分も均等割りで土地割りがなされたと考えられる。そうだとすれば売買による分解が起こったのである。事実最大の豊後屋喜左衛門は自身は除地に住みながら四筆の年貢地を所持する。続く五筆を所持する岸部屋三右衛門も同様である。宅地の他の土地はその飛び抜けた筆頭が河内屋吉兵衛であり、宅地・畑地所持の上位が皮革業者である事実は、かなり以前から道頓堀・難波村周辺での土地獲得が激しく進行したことを示している。
慶長五年の葭役はこの村が葭の多い湿地にあったこと、あるいは川原地に皮干しその他権益をもったことを示すとともに村々の順位が現実の位置関係を示しているとすれば高津と木津の間で、下難波でない位置にあったことになる。それが大川の北か南かは確かとしない。
渡辺村の歴史にとって座摩神社との関わりは鍵になっている。六月の祭礼には渡辺村の各町から立派な布団太鼓が出た。近代には神社まで繰り出したが近世では十三間川の川端にこれを並べて打つのみで「我所より外へ出可き事無可なりといゝつべし」(『近来年代記』弘化四)、とあり正式の氏子とは認められていなかった。そのため明治三年、村は氏子要求を行うが氏子中は難色を示す(西本願寺文書)。これを「神人」つまり氏子一般とは別の特別役を負ったゆえとみるか、氏子否定とみるか。
三 皮の重層圏と渡辺村「特権」革問屋
関西ならびに西日本、さらには海外の原皮が渡辺村に集中する仕組みになっていたこと、近世の全期間を通して鞣革、高級革製品が渡辺村から諸国へ流通していったこと、渡辺村の大規模金融が西日本全域に及んだこと等は、それがどの程度の広がりと深さを持ったか、皮田仲間のみならず社会的影響を与えたかは未解明ながら知られた事柄に属する。これを皮革の重層構造と渡辺村皮問屋の視点でみてみたい。けれども肝心の渡辺村そのものの皮革業さえ概観出来る程度に明らかではないのである。しかし近年阿南重幸による長崎貿易の再検討、皮問屋に焦点を合わせた勝男義行の研究によって若干の展望が開けつつある。〇三年の勝男論文は渡辺村の皮革業を正面に据えた力作である。これに刺激をうけて近世前期の見通しを先稿2で述べたが、さらに進んで問題提起として若干の事実と論点を出す。
近年の阿南の研究によって鹿皮を最大とする海外原皮は寛永後期から衰退に向かい享保期には途絶すること、「大坂かわや」「大坂・長崎穢多」には牛皮の特権的先買いが許されており、それは途絶後も仕組みとして温存されていたことが明らかにされている。史料的にこれが「由来記」のいう一二軒の「和漢革問屋」であるかは詰めきれていないが、渡辺村の特権的革商人(皮問屋)が軍用品であった皮革を奉納する義務を負うと同時に御用商人としてこうした特権を得ていたことは明らかであろう。しかし、それは個別の藩で見られた皮役のあり方とは異なるし、諸国から大坂へ原皮を積み登らせることが義務化され渡辺村に集積の権限が与えられたという史料的裏づけも未だ得られていない。但し傍証は可能である。長崎貿易の事実のほか、一つは大坂に積み登った各藩の原皮は渡辺村以外に売ることは禁じられていたこと(筑前国革座記録)、二つは姫路藩が革会所を設立して流通する皮革に運上を課した時も渡辺村の「押印」のある皮には課税できなかったからである(姫路高田家文書)。
渡辺村革問屋の広域支配を支えていた第一のものは、御用商人制として「和漢革問屋」が設定されたことである。先稿2では、それによる西国各地からの原皮流通の原型を示した。周知のようにそれは近世中期までには形骸化するが、全期を通して生き続け、幕末に再び意味をもつ。第二には畿内の有力皮田村・革問屋とのネットワークのかなめを掌握していたことである。京都天部村年寄橋村利兵衛と渡辺村年寄豊後屋とは婚姻を通して、大和東之坂松屋甚右衛門と渡辺岸部屋九兵衛とは度重なる婚姻によって、また甚右衛門と渡辺村播磨屋五兵衛とは息子の奉公によって深い結びつきをもっていた。それがため諸国皮船が入津して入札になっても所詮は談合で値が決められてしまう。
西摂住吉村・風呂ノ谷には奉公と派遣を通して皮加工「下職人」が大量に生まれた。第三に元禄期以降、皮革の需要が軍需から民需へと移行していく動きへの対応に成功したことが挙げられる。天部村利兵衛が主導した陣太鼓の高度の技術は祭礼・寺社太鼓へ転用されていくが、その過程で渡辺村に有力太鼓屋が誕生する。あるいは鹿皮白皮は皮田身分の扱えない皮種であったが、実際にはこれに進出して京都町奉行をして「皮田製品の方が出来が上」と言わしめている。
民需転換のもう一つの鍵は鞣しにあった。鞍や甲冑(民需といってよい皮籠を含む)の制作にあたっては、板目皮・漆皮作りが主要技能であったが、民需では板目皮を使う雪踏底皮をのぞき、袋物・紙入れ・キセル筒あるいは綱貫などに使用される皮については柔軟化が命である。高木での越鞣し、火打村での明礬鞣しが相次いで成功する。それは皮革の高価格を保証した。したがって西国現地で取引し、これを運送しても大坂での売買は高利潤を生み、大坂優位を維持したのである。
当然渡辺村や畿内の仲買人、さらには現地仲買人の跋扈を生みだす。さらに市場価格をつり上げることにもなった。第四に渡辺村皮問屋・仲買人による原皮買占めの前貸し金、あるいは高利貸し金融などを通しての原皮確保がなされたことである。それは時に現地仲買人を軸とした村内・地域紛争を生んだ。
皮を通しての広域経済支配にとって注意すべき点の第一は、畿内と西日本とは同質ではなかったことである。その典型が畿内では前貸し金による集積は見られず、反対に西日本では皮の絡まない金融は少なかったことである。もう一つは渡辺皮問屋の支配は皮田身分に限定されたものではないことである。一九世紀には現地仲買人あるいは藩専売制で平人の関わりも大きくなる。さらにはここでは牛皮を念頭においているが、牡皮と牝皮では流通の様子がまったく異なること、また、渡辺村扱い皮には小動物から牛骨まで含めてのネットワークが結ばれており、その取扱金額は牛皮取引に等しかったことなどがあげられる。
四 畿内皮田仲間「筆頭」としての渡辺村
「頭村」論といえば朝尾直弘の議論が思い出されるが、それは事実上撤回されたし、畿内に「弾左衛門」型の身分「制道」が定着しなかったことも周知のことである。しかし、改めてこの問題を取り上げる。まずそれは達成としての頭村ではなくまず渡辺村の指向であり権力側の意向でもあった。さらには畿内(正確には摂河泉播)皮田仲間の依頼と反発をみる視点でもあると考える。
この視点を設定したのは九〇年に入ってであるが、事実解明の点で左右田昌幸の一連の真宗「部落」寺院史研究から示唆を得ている。すなわち渡辺村の二つの寺、正宣寺と徳浄寺は寺格・僧格において一番を求めた。この身分の寺に本願寺規則上許されない制約に対して献金と粉骨砕身の献身とで次々に特例を作っていく。出仏壇・国絹袈裟・別院出張所等々がそれである。また、本山が更池村称名寺に国絹袈裟を許可すると、本山に対し自らの別格化を正面から要求するに至る。そこに称名寺などへの露骨な差別を内包するが、客観的にみれば渡辺村の寺が特例を作ることが、前例を重んじるこの世界では次に続く他寺の許可をスムーズにしたのである。
歴史上渡辺村が「頭村」をめざしたのは明和-安永(一七七〇-四)期である。契機は二つあった。一つは村内出入りで村追放を実行する段となって、奉行所はそれでは「平人之交わりいたし」不都合であるとしてこれを中止させた。そこで皮田仲間の内「不自由な村」へ追放することが可能なように摂河領国仲間の「触頭」の地位を求めたのである。明和七年にそのような要求を行うに至ったもう一つの契機は最近になって明らかになった。
この二年前に大坂町奉行所は、吟味御用で上坂した場合従来摂河播の被差別民であっても等しく郷宿へ止宿させてきたが、以降は身分ごとに宿を改める方式をとることを通達するのである。三昧聖大坂六坊はすぐさま受入の内規を書上げるとともに、非人番で葬送を手掛ける者は「筋違い」、仲間ではないとこれらの受け入れは拒否した(注6)。渡辺村の「摂河領国之穢多村私共触下ニ被為仰付被下候」(『摂津役人村文書』後篇四)要求とこれに対応する村法制定にはこのような背景があったのである。
だが前者の要求は訴訟日ではないと軽くいなされた。安永三年には近国近在の罪人預かりの様子を尋ねられ、村法はないこと、罪相応の村法を定めたいと願い出たがこれもうまくかわされた。盛田は「七瀬新田の係り口に年寄播磨屋善兵衛居宅がありそこに白州も村牢もあった。」という古老からの聞取りをもとに、播善の年寄就任時期から推測して、天明五年(一七八五)以降の、遅くない時期には村牢が許されたのではないかとしている。しかし他村を配下として扱う村法は認められなかったと思われる。にもかかわらず近国・近在皮多の罪人預かりは引き続いていく。
次なる刺激は寛政八年(一七九六)に起こる。天満長吏下小頭九兵衛らが組下の者に手傷を負わせ逃走した一件で、支配代官篠山重兵衛役所は、長吏は過料を役人村へ渡すこと、九兵衛らの身柄は役人村年寄に引渡し相応の咎を与えることを命令した。四ヶ所はすぐさま前例のないことであって、四ヶ所全体が四天王寺からの処罰を受けるべきことを主張し、奉行所盗賊方へ訴願した。この場合四ヶ所側の史料に渡辺村の牽制なども触れられず、史料上の制約が大きいが、渡辺村側の積極的な動向も知られない。
渡辺村の「頭村」志向を示す別の指標は行刑をテコとして「仲間式法」の論理をもっての広域支配であり、自らを「役人村」として周辺に認知させることである。その志向は長期に渡った。
五 都市大坂のなかの皮多町=渡辺村
渡辺村そのものの性格を規定する視角は先の役人村・皮革センター・筆頭意識など多様であるが、「村格」と「住民」を底で規定していたのは皮多町としての性格であろう。一般に大都市では続き村と呼ばれるベルト地帯が存在する。大坂三郷でも高表示でありながら村内が町構成、免が拾以上で多数の借家から構成される村々をもった。その意味では続き村の一環ともいえるが、同時に町奉行所支配で町役の一端を担う、坪表示で当初から一筆の田畑も含まず、年貢でありながら定額納であるなど続き村とは決定的な違いを持った。村の成り立ち、御用、三郷との関わり、それに規定される村内構造の順にみよう。
まずそれは大坂三郷の中に位置していた。「かわた古町」(安井家文書)の表記がそれを示す。二で述べたように三郷の拡大に伴って幾度も明らかな政策意図をもって在方へ移転された。除地についての村自身の認識は元和の三郷一括地子免除と同時期同一理由であった。京都・堺の事例に徴すれば行刑御用に伴う措置ではないかと考えるが、村はごく小部分の除地長屋分がそれに該当するとみなし「首切り」人をそこに集住させた。
次に多様な奉行所御用を勤めた。渡辺村は三郷火消しを御用とみなし、事実瞠目すべき活躍をした。町屋大屋根端に四寸ばかりの小太鼓を釣るのは渡辺村から金を借りた証であって、火災時焼けては困ると渡辺火消しが守る目印だとの噂があるのも驚嘆すべき消火活動による。時として渡辺村民に「火消し」の肩書きが見えるのは村内で役目があったのではないかと思われるが、未考である。
町との大きな関わりでは市中全域に享保一六(一七三一)年より設置された小便桶がある。『摂陽奇観』は右の市中火消しの代償と書くが、主張では多忙な町役・御用をこなす年寄役助成だという。安永期控えめな年寄書上げで一ヵ年平均銀一七貫二〇〇目(金三〇〇両程度)となり、年寄二人への助成としては破格であろう。
処刑・獄門番、消防・小便桶何れも三郷と大きな関わりを持つが、さらには金融、皮取引、生業であった雪踏直しや綱貫製造販売、食肉などがある。労働交流や長町などとの行き来も小さくない。
村内構造では、まず村内が自立した六つの両側町から構成されていたこと、そこでは家主―借家人が基本的住民構成であり、商人(皮問屋―仲買―小売)と職人(問屋―居職―行商・直し)、奉公人・前期労働者を主たる生業内容とした。もう一つは首切り人や火消し人足など御用人足が一定の割合で存在したこと、家守や蔵管理人など家屋に関わる者の多さなどが指摘される。
論証や実証は別の機会に回して、渡辺村をどういう新しい視角から整理すればいいのか、そのことに関心を集中させて考えてみた。
[参考]
阿南重幸二〇〇一 「江戸時代の牛皮輸入」『部落解放史ふくおか』一〇〇・一〇一
勝男義行二〇〇〇 「皮商人」『シリーズ近世の身分的周縁』四
同二〇〇三 「領国を越えた関西の皮革業」『部落解放史ふくおか』一一〇
左右田昌幸一九九四 「大坂津村御坊出張所について」『国史学研究』二〇
同二〇〇二 「「渡辺村真宗史」に向けての覚書」『太鼓・皮革の町』
寺木伸明二〇〇二 「摂津西成郡下難波村時代の渡辺村と木津村への移転」『太鼓・皮革の町』
中尾健次二〇〇一 「古地図から見た渡辺村の変遷」『絵図の世界と被差別民』
八木滋二〇〇一 「安井家文書からみえる難波村時代の渡辺村」『大阪市立博物館研究紀要』三三
注
- 盛田嘉徳編『摂津役人村文書』後篇冒頭所収、もう一本は柳瀬勁介『社会外の社会穢多非人』所収のもの。
- 中西義雄「近世皮革業の生成と展開」(『部落問題研究』四、のち著作集第一巻に収録)。塚田孝・永瀬康博らは今なお依拠すべき文献とする。
- 最初の成果は三ヵ所に分散する木津村文書の収集・目録化、これを用いての共同研究として『部落解放研究』一一八の特集がある。難波村庄屋成舞家までは一部は旧知に属するが、西本願寺『諸国記』・津守新田白山家・太鼓屋又兵衛史料などはまったくの新史料である。同時期吉田徳夫によって渡辺村が作成した新屋敷町「米一件」や大阪市史編纂所『市史史料』のシリーズでは与力八田家を始めとして奉行所文書の翻刻が続いた。
- 藪田貫「津田秀夫文庫古文書目録(1)」(『関西大学博物館紀要』九、二〇〇三年)。年記割書きからも後世の写し思われる。
- 以下ここで先稿と呼ぶのは先稿1は「摂津渡辺村の空間構成」(『部落解放研究』一一八・一二四)、先稿2は「太鼓屋又兵衛伝・説」(『太鼓・皮革の町』)。
- 明和五年の規定変更は野高宏之「大坂町奉行所の組触について」(『大阪の歴史』六一)によって明らかになった。三昧聖の対応については第九回全国部落史交流集会での木下光生報告。