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2004.02.05
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大阪の部落史通信・34号(2004.1
 

視 点

紀州吹上非人村初代長吏・転びキリシタン久三郎について

藤原 有和(関西大学人権問題研究室委嘱研究員)


はじめに

 道頓堀垣外非人のなかに転びキリシタン及びその類族が含まれていることをどのように考えるかをめぐって、学説上の対立がある。すなわち、転びキリシタンが非人身分に落とされたと解釈する説(藤木喜一郎・石尾芳久)と非人のなかにキリスト教徒がいたと解釈する説(岡本良一・塚田孝)がある(注1)。転びキリシタンが非人集団の支配層である長吏・組頭・二老になっていること―非人集団の中核として編成されていることに注目すべきである。権力による近世賤民制の構想をどのように考えるかという問題である。

 本稿では、「摂州東成郡天王寺村転切支丹類族生死改帳(注2)」、紀州藩牢番頭家文書(注3)及び悲田院長吏文書(注4)を吟味することにより、転びキリシタンが紀州吹上村、大坂悲田院・鳶田の非人集団の中核になっていることを明らかにしたい。

 元文二年(一七三七)和歌山城下における贋金事件の捜査活動において、紀州藩牢番頭は大坂へ逃亡した犯人を召捕るために、「所縁の者」である鳶田長吏に捜査の協力を依頼している(注5)。「所縁の者」の意味については、牢番頭配下の「紀州吹上久三郎一家」と鳶田長吏の関係、すなわち、後述するように「転久三郎」(「摂州東成郡天王寺村転切支丹類族生死改帳」)が、吹上非人村初代長吏久三郎(道斎)であり、その類族が鳶田長吏であると考えられることに注目すべきである。


一 道頓堀非人と転びキリシタン

 道頓堀非人関係文書によれば、寛永二一年(一六四四)一二月一一日下難波村庄屋は、「道頓堀乞食合八拾人、其外おんぼう七人」について、長吏にキリシタン転びの者の吟味をさせることなどを西田猪兵衛・古屋新十郎に誓っている(注6)

 また、その翌日、転切支丹本人一〇名、すなわち久右衛門、道味(長吏)妻之母、道味妻、道真後家、孫作(非人年寄)妻、六兵衛妻、甚九郎妻、孫七、孫七妻妙珍、新左衛門妻きくが、大坂町奉行より下難波村へ預けられている―正保元年甲申一二月一二日大坂町奉行による宗門改め―(注7)。乞食八〇名のうち一〇名が転びキリシタン本人ということになる。いずれも、寛永八年(一六三一)大坂市中でキリシタンの弾圧が行われた際の転宗者であり、その子孫は転びキリシタン類族として監視・調査の対象とされている。一〇名の生国は、摂津、紀伊、淡路、播磨、山城、伊勢、三河である。なお、孫作、六兵衛、甚九郎の三名は、「切支丹宗門ニ而無之相究」とされている。

 下難波村領乞食在所に居たところ、大坂町奉行の詮議を受けたことになっている。各地からやって来た乞食の境遇にあった人々のなかにキリスト教の信仰を保持する人がいたとしても、寛永八年のキリシタンの取締り以前は、まだ決定的に非人身分として把握されていたわけではないと考えられる。


二 転びキリシタン久三郎とその類族について

 まず、「摂州東成郡天王寺村転切支丹類族生死改帳」より転びキリシタン久三郎の類族に関する箇所を一部抜粋する。

 なお、この改帳には、正徳六年(一七一六)から享保一九年(一七三四)までの「転切支丹類族生死之覚」が綴じ合わされている。毎年二度(七月と一二月)天王寺村庄屋が、天王寺村領両垣外(悲田院・鳶田垣外)に居住する転びキリシタン類族の「出生之者」及び「病死之者」について、その旦那寺を含めて調査し、代官に報告した書付覚(村側の控)である。

          紀州吹上罷在候
<1>先転久三郎曽孫 猿松娘
一たん
  此女正徳六年申二月三日出生仕候、宗旨一向宗紀州海辺郡広瀬村道場旦那、父一所ニ罷在候
          紀州吹上罷在候
<2>転久三郎曽孫  捨松忰
一清吉
  此者正徳六年申二月十五日出生仕候、宗旨居所右同断
          紀州吹上ニ罷在候
<3>転久三郎孫   後久三郎忰
一長太
  此者正徳六年申三月廿九日四拾三歳ニ而病死仕候、宗旨旦那寺右同断、則取置手形取置申候 宗旨一向宗紀州海辺郡広瀬村道場旦那、則取置手形取置申候
<4>転久三郎嫁   後久三郎妻
一なつ
  此女享保弐年酉正月九日七拾壱歳ニ而病死仕候、宗旨一向宗紀伊国海辺郡広瀬村道場ニ而取置申候、則取置手形先達而御差上申候
<5>転久三郎孫   後久三郎娘
一しゆん
  此女享保弐年酉三月八日四拾壱歳ニ而病死仕候、宗旨一向宗紀伊国海辺郡広瀬村道場ニ而取置申候、則取置手形先達而差上申候
<6>転久三郎玄孫  徳蔵忰
一徳松
  此者享保三年戌六月十一日出生仕候、宗旨居所右同断(宗旨浄土宗道頓堀竹林寺旦那、父一所ニ罷在候)
<7>転久三郎孫   先久右衛門娘
一せん
  此女享保三年戌五月廿八日三拾六歳ニ而病死仕候、宗旨浄土宗道頓堀竹林寺ニ而取置申候、則取置手形先達而差上申候
<8>転久三郎孫   久右衛門娘
一しも
  此女享保四年亥九月十一日三拾四歳ニ而病死仕候、宗旨浄土宗道頓堀竹林寺ニ而取置
<9>転久三郎玄孫  三太郎娘
一小ちよ
  此者享保九年辰十月十六日出生仕候、宗旨浄土宗道頓堀竹林寺旦那、父一所ニ罷在候
<10>転久三郎孫   久右衛門忰
「合(朱書)」一吉左衛門
  此者享保九年辰十一月廿四日六拾歳ニ而病死仕候、宗旨浄土宗道頓堀竹林寺ニ而取置申候
<11>転先久三郎孫  久右衛門忰
「合(朱書)」一伊兵衛
  此者享保十八年丑十二月廿九日五拾七歳ニ而病死仕候、宗旨浄土宗道頓堀竹林寺旦那ニ而則取置申候、是ハ十二月書附差上申候以後、病死仕候
<12>転先久三郎孫  久右衛門忰
「合(朱書)」一甚助
  此者享保十九年寅九月二日五拾四歳ニ而病死仕候、宗旨浄土宗道頓堀竹林寺旦那ニ而則取置申候

  以上の引用により、転びキリシタン久三郎の類族は、紀州吹上非人村と天王寺村領垣外(鳶田垣外―後述)に別れて住んでいることが分かる。転びキリシタン久三郎が、紀州藩によって、大坂・鳶田垣外から紀州・吹上非人村の初代長吏として招かれたのか、或いは、久三郎の忰久右衛門が、吹上村から鳶田垣外の長吏(婿養子か)として招かれたのか。この点については検討の余地が残されている。

 おそらく初代久三郎も寛永八年、大坂町奉行による切支丹弾圧によって転宗し、身分を落とされて鳶田垣外長吏として―非人身分として―決定的に掌握されたものと考えられる。その後、吹上非人村が設置される際、紀州藩により初代長吏として招致されたのではないか。久三郎(「先久三郎」)には、少なくとも二人の忰がいた。一人は、二代目久三郎(「後久三郎」、一六四五―一七一五)である。もう一人の忰久右衛門は、所縁により鳶田長吏として迎えられたものと考えられる。


三 鳶田久三郎と紀州吹上久三郎一家

 悲田院長吏文書のなかに「紀州吹上久三郎一家」に関する文書(子ノ二月廿四日「覚」)が含まれている。その文書によれば、元禄八年(一六九五)冬鳶田久右衛門方が書上げた宗旨帳面―元禄八年一二月の「転切支丹類族生死之覚」と考えられる―の記載に関して、江戸切支丹奉行より天王寺村代官に御尋ねがあったことが分かる。すなわち、「紀州吹上久三郎一家」の旦那寺海士郡広瀬村道場本利兵衛が俗躰にて葬儀を行っていることについて御尋ねがあり、由緒書の提出を命じられている。

 さっそく鳶田から作右衛門・八兵衛の両名が紀州広瀬村へ派遣され、利兵衛の由緒を聞書きして持ち帰っている。久右衛門(鳶田長吏)は庄屋に由緒書を提出するが、「本寺紀州名賀郡伊坂村蓮乗寺手形無之、別而ハ利兵衛自判之由緒書無之、埒明不申」とされている。庄屋より書類不備の指摘を受けたのである。

 明くる正月、このことを鳶田から紀州広瀬村へ伝え、紀州町奉行並びに寺社奉行所に申し上げると、広瀬村頭(牢番頭)が大坂へ行って様子を聞いてくるよう命じられる。

 鳶田にやって来た牢番頭二名は、天王寺村庄屋に直接本件についての問い合わせを行っている。このような鳶田長吏と広瀬村牢番頭の間でのやり取りの末、久右衛門本人が紀州に行く。

 結局広瀬村道場の本寺である伊坂村蓮乗寺の由緒書、利兵衛由緒書並びに久三郎(「後久三郎」)・二老・小頭からの聞書が、天王寺村庄屋を通じて代官小野朝之丞に提出されている。

 以上は、悲田院長吏が自らの職務の重要事項(転びキリシタン類族の調査)と判断して記録したものと考えられる。

 この文書の端裏に「鳶田久三郎書付覚」―鳶田久三郎(「先久三郎」)に関する書付覚―と書かれていることに注目すべきである。鳶田久右衛門・吹上「後久三郎」兄弟の父「先久三郎」は、そもそもは「鳶田久三郎」であったと考えられる。

 


おわりに

 紀州吹上非人村の成立に関しては、渡辺広・藤本清二郎両氏による先行研究がある。両氏も当村の由緒を記す文書に切支丹弾圧に関する叙述があることに注目されている(注8)

 藤本氏は、吹上非人村の成立に関する記録(元文元年「覚」・文化一三年「願書」―いずれも牢番頭が和歌山町奉行所に提出した書付控)に基づき、非人村の設置と長吏役の設置を分けて考察されている。

 すなわち、「吹上非人村の形成は、浅野氏時代に遡る可能性も多分にありうるが、ともかく直接の始期は元和末年頃であり、長吏役の設置は寛永一〇年頃であったことが確かめられる」と述べられている。まず非人村が設置され、その後に長吏役が設置されたと考えられている。しかしながら、長吏役の設置と吹上が非人村として設置されることとは密接な関連があり、両者はほぼ同時であると考察すべきである。

 渡辺・藤本両氏は、賤民史としての視点から考察されているため、初代長吏久三郎(道斎)が如何なる人物か、何故非人集団を統括する棟梁になったのかということについての問題関心はないように思われる。 

 中世末期から近世初頭にかけての一向一揆・キリシタンの反乱(信教の自由を求める運動・自治闘争)と戦国大名・織豊政権の弾圧政策・粛清過程において江戸幕府の宗教思想弾圧・身分政策に注目すると、江戸幕府権力が、転びキリシタンを非人身分に落として、かつての信仰仲間の子孫を監視・調査することを命じたこと―宗教思想弾圧・身分政策の実態―は、いっそう明白となってくる。



  1. 藤木喜一郎氏は、「京阪の地は後年迄信者の多かった土地柄だけに、検挙されて転宗し、非人に身分を落とされる者も亦、可なりの数に上った筈である」と指摘されている(『江戸時代史論』七四頁)。
    石尾芳久氏は、被差別部落の起源に関して、天正八年(一五八〇)勅命講和以後の抵抗者(「末々之門徒」)に対する制裁としての賤民への身分貶下政策―天正一三年秀吉による紀州太田城の抵抗者の粛清―を考証されている。さらに同様な視点から、キリスト教徒―道頓堀非人関係文書の転びキリシタン―についても、専制主義の国家にとって都合の悪い思想の持主の身分をおとして転向を迫る、しかも警察・行刑の役負担を強要して転向の立証を迫った、と述べられている(『部落起源論』二八頁)。
     岡本良一氏は、「転宗の結果として非人におとされたのではなく、非人にはもともとキリシタンが多かったのではあるまいか。非人にキリシタンが多かったのは、キリスト教伝来当初からの布教の方針からして当然の結果であった」と述べ、さらに続けて「彼らは転宗して非人に落とされたのではなく、非人のような境遇であったからキリシタンになったのである」と述べられている(『乱・一揆・非人』五六頁以下)。
     塚田孝氏は、「転びキリシタンの者たちの中には長吏・組頭などの家系が含まれていたのであり、彼らは道頓堀垣外の中核部分を構成していたことがわかる」と指摘されているが、転宗者が非人身分に落とされたのではなく、キリスト教徒の非人が転宗したと考えられている(『都市大坂と非人』五頁以下)。
  2. 関西大学図書館所蔵。『関西大学人権問題研究室紀要』第四九号で紹介する予定である。
  3. 関西学院大学所蔵。
  4. 神戸市立博物館所蔵。
  5. 紀州藩牢番頭家文書編纂委員会編『城下町警察日記』五六四頁以下。
  6. 『道頓堀非人関係文書』上巻二頁。西田猪兵衛・古屋新十郎の両名は大坂町奉行所寺社役与力と考えられる。
  7. 『同書』上巻二九二頁以下。なお、塚田孝氏(『前掲書』七頁の「道頓堀垣外のキリシタン改宗者」表)は、久右衛門妻を転びキリシタンとしたために、寛永八年の転宗者を一一名としているが、同人は、「切支丹宗門ニ而無之ニ相究申候」と記されている。
  8. 渡辺広『未解放部落の史的研究』三一二-三一三頁、藤本清二郎「和歌山城下、吹上非人村の形成と展開」(『和歌山地方史研究』第八号)。