はじめに―資料の消失について
本巻の資料収集は、戦前の一九二八年から一九四五年を対象に行われた。この時期は戦災で多くの民間・行政の資料が焼失をみたとはいえ残存があると思われた。しかし、作業をつづけてみると、もっと大きな喪失原因があった。それは「高度経済成長」である。民間や行政をとわず建築の新・改築化がその直接原因である。恐らく多くの貴重な資料は廃棄焼却処理されてしまったであろう。
このことを念頭において収録しえたデータの紹介を分野ごと年代順にのべていきたい。
一 恐慌・戦争と行政の対応
まず、昭和初期の恐慌期に大阪も、貧困と失業に直面した。対応された法的措置は前期につづいて方面委員制度の法制化とその拡充である。「制度」は都市から郡部にまで拡大された。これまでの個人の善意や私的出費の時代から公費の時代へと交代していくのである。
ところで西浜の沼田嘉一郎の個人的尽力は全国へむけられ、帝国議会へも失業対策の実施をつよくせまる運動となり、全国的な成果として法律の実現(一九二九年、救護法公布)をみた。方面事業・救済事業にはたした沼田の役割はこれまではあまり評価されなかった。しかし、西浜土地建物株式会社の社長としての地盤もあり、さらに融和事業との関係性などの整合的理解をもとめるものとなっている。この点は時期・地盤は異なるが、いま一人の部落出身議員である森秀次との比較が興味ぶかい。
一方府内での被差別部落の町村合併については近世以来の被差別部落としては独自性をもち、草履表製造で著名な南王子村の合併行動があった。しかし隣村の伯太村の不同意のため失敗した。背景には町村財政の経済危機と教育費などの行政負担の増加があった。他に池田市が誕生、周辺の部落を含む村も編入された。麻田村は豊中市へ、北中通村と佐野町が合併して佐野町に、また長瀬村・意部岐村は布施市へ、岸部村は吹田市へとそれぞれ編入された。
都市圏の拡大は都市の衛生機能の拡充でもあった。まず部落の生業とつながった職種をみると、「魚獣腸骨取締規則」をきめ魚介・獣類飼料・肥料・脂肪・膠製造の規則強化があった。塵芥・汚泥・屎尿には「汚物掃除法施行細則」で対処された。屠畜業者には「屠場法」や「施行細則」の改正など、ここでも規制を強化した。
ついで戦時下に入ると生活物資不足などもあり、製造地域指定と統制?
網の設定がはじまる。中心は皮革・靴・屠肉であった。皮革関連職種は軍事的にも重要とされたのである。また、融和団体や産業団体の戦争協力ももとめられた。
二 恐慌下の部落産業と戦時経済統制
府の農村地域は、被差別部落の産業構造によってわけると、一、農村(自小作・兼業の農家)、二、皮革・食肉加工業などの関連産業、三、履物や籠・ブラシ・青物・古物行商の雑業に従事した地域、四は人造真珠・植木業などの新興産業で、これら二〜四の業種について産・職業紹介や調査が残されている。
都市周辺では、皮革、靴製造や屠場従業者が中心で関西一円から労働力を集めた。他に、都市発展とともに近世期以来の「力役・雑業」層が拡大しており建設・運輸に従事していた。一九三九年には需要拡大に対応して大阪市内に市立屠場が開場したのもこの頃である。
一方、皮革は全国の一〜二位をしめ、原材料調達では朝鮮市場と深くつながっていた。業者の経営資料と労働関係のつながりなどは究明がまたれる。
一九三〇年代は貧困者についてのルポも多く都市部落の状況も報道された。
他方、市の都市計画で浪速の皮革産業地区の業者は反対運動を展開したが、やがて戦時下の統制経済下のなか、商品需給の制限、企業統合、組会化がはかられているのである。
三 朝鮮人と部落との競合・共生
ところで、一九三〇〜四〇年代にかけて特筆すべきは在日朝鮮人の流入増加である。二八年から四五年にかけて五・五万人から三三万人へと増加した。一九二九年の内鮮協和会は、二九年の場合、市内居住約七万人に対応すべく港区の市立屠場隣接地区(七五〇坪)に七四戸(一戸約五・五坪)建設を計画していた。しかし、住宅難は解消されず、家主の不正や忌避もあり紛糾も重なっていた。そのため、周辺のスラムや河川敷へ流入・占拠の事件があった。「密住地区」の形成である。なお、一九二九年の教育程度別の統計では「文盲者」五四・三パーセント、日本語を「全く解せざるもの」は三七・八パーセントにのぼっていた。
一九三一年、一五年戦争に入ると大阪市の工業地域に就労する人々が増加、日雇の「土工」から工場の職工・雑業や、商業の分野にも就業した。このとき、部落産業への参入もみられるのである。
生活の周辺での共生(伝染病・祭礼など)もあり、労働運動の参加や協和・融和事業への参画もみられた。
このなかで周辺の偏見や差別もつづき、官憲も治安的警戒もしていた。
一九四二年の地方議会選挙では、全国二二人の候補者のうち大阪府内では一〇人も当選していた。
ところで、本史料として、戦前の活動家二人の聞き取りを収録した。文献史料としては、不明のところを補充した形となっている。
四 融和運動から同和奉公会運動へ
一九二八年、大阪府公道会が組織され、府内全域にわたる融和運動を統一する方向をめざした。「設立趣意書」では、人権を重視する福祉的尊重と国家主義的内容が共存していた。その目的達成をめざして講演や諸事業や組織の拡充をうたっていた。注目すべきは会費の公的補助、会員の「人口数割当て」などで、上からの組織化といえた。会の動向は中央の中央融和事業協会の影響が決定的で独自の色彩は少なかった。
ところで、一九二八年の全国融和団体連合大会では大阪府公道会の会員からは学校や社会融和教育や経済生活の充足をはかることを提案していた。また、他の会員からは地区からの転出も戸籍が障害になり、差別的に措置されるため戸籍法の改訂が望まれていた。
一九三一年には、恐慌を背景に近畿融和連盟が結成され、中央融和事業協会の主唱する産業経済施設の整備が注視された。さらなる事業者増額の要求がはじまった。水平社左派からする革命的打開(全国水平社解消論)に対抗するものであった。
この頃、泉南や豊能の支部では講習会や映画利用の啓発講演会があった。さらに四〇年代に入ると師範学校での融和教育や融和教育研究指定校二二校の状況などその活動などが報告されている。
一九四〇年に紀元二千六百年奉祝の全国融和団体連合大会があり、水平社との合流機運が提唱される一方、差別意識の存続が報告された。また、戦時体制下に入り隣組や常会などの組織化がはじまるなかで回覧板・リーフレット配布・マスコミ宣伝への依頼などに努めるのである。
そして、『同和奉公会要覧』によれば、大阪府本部の会員は個々の会員組織から府内全域の協議会組織にかわっていき、その名簿は融和運動に参加した人々の社会的地位を示すものになるのである。
戦時下、労働力や軍事力不足のなかで改善事業実施をめぐるさまざまな流れと対抗があったことがのべられている。
また、一九四三年、府は同和教育を全教員にまで拡大していくこと、「地区外」の学校にまで及ぼすことなどが決定された。重要なことであるが大政翼賛会体制から同和奉公会がはずされたことに対して大阪府本部は翼賛会内部へ同和促進部の設置を要請、他府県の同調を求めていた。一般寺院へも同和運動参加をもとめ、靴修理業者の重要時局産業への転換について賛成していた。同和奉公会はこのことなど、当時の社会・経済状況に対応した行動を示していたのである。
五 水平運動と社会運動の交叉と転回
一九二八年、日本共産党検挙があり、大阪府水平社の関係者も検束された。さらに翌年も他の非合法組織の党関係者とならんで検挙された。この時期、下阪正英は運動費を着服したとして除名されたが、関連してこの地方の全国水平社芸術連盟など着実な演劇活動を行っていた団体も除名されており、その内容究明はまつところが多い。富田林、尼崎などで声をあげていた荊冠旗社は、一九二九年、水平社の無政府主義派の解体のあと結成されており、その後に組織された啓明協会との経緯など解明をまつところが多い。
また、兵庫県水平社の前田平一から泉野利喜蔵や栗須七郎との三人の論争には不明のところが多い。さらに共産党系の赤根岩松から総本部書記の草香一介スパイ論が出て、大阪府連は調査の結果を無実として対立した事情など、水平社内解消派と非解消派の整理が必要である。
ところで三三年の高松地方裁判所をめぐって司法省と全水の対立は激しく、折からの社会運動沈滞期のなかで全水の活力ある運動が突出した。大阪では、北井正一、松田喜一の労働・社会運動を背景にした闘争の寄与は大きかった。
その後、運動は経済的要求も重視、折からの融和運動の「改善費拡大、経済更生運動」に対応する。戦時下、経済更生運動における松田の活動、栗須喜一郎の融和施設費の一般費での充当要求や朝鮮人の民族協和施設の要請など新しい方向での予算拡大要求がなされるのである。
一方、松田を中心に軍国主義体制への接近もみられ、部落厚生皇民運動へと分裂、泉野らの大和報国運動派と対立した。また、合法社民派の北井も労働団体を背景に社会大衆党のもとで活動しており、大阪の全水幹部は分裂したまま戦時下の同和奉公会体制に入ることになる。
六 融和事業から同和事業へ
大阪府は一二九〇年代の初めから融和事業を開始していた。南王子村での託児所・悪水路改修や共同浴場建設であった。大阪市は、住吉区平野浜町の道路改修を目的とする宅地建物の買収、西成区での製靴の共同作業場、北区、旭区、住吉区の部落での共同浴場、託児所建設(行政負担)をみている。浴場と託児所設置がつながっており、労働者・市民の要望に応えたものであった。
一九三二年に入ると、地方改善応急施設事業の実施があり、その費用の使途についての条件が提示されている。その他、特筆すべきは、浪速市民館での製靴の授産事業計画で、地元業者との利害競合のなか実現できたのか運営など不明である。
一方、地方では東能勢村が経済更生事業の指定地区となり、特産の林産・寒天などの事業報告があり、経済更生村のモデルケースとなっている。
つづいて市内での地方改善応急施設事業では、その財源が府で、その一〇パーセントが大阪市であったこと、主として労力費として投入されたことが記されている。浪速区での婦人内職指導への労力費適用については地元の代議士沼田嘉一郎の尽力があったことが記されている。
三六〜七年にかけて市内各地では託児所建設があいついだ。人口五〇〇〜七六〇人の三地区で建坪四〇坪前後、収容児童六〇〜七〇人が受託された。また市内各地で失業救済の土木事業がみられた。
一方、南王子村の屠場設置計画は村民みずから反対していた。一般社会からの差別観念を気にしての行動であった。水本村では台所改善が生活改善、トラホーム予防とかねて行われた。共同作業所の設置申請もなされていた。
済生会西浜診療所の設立は、その資本投入額なども注目されるものであった。他の改善事業史料とならんで、市の市民館の役割や社会事業との関連の言及も示されていた。府会での戦時下の部落分離論とならんで注目すべきであろう。
七 融和教育と同和教育の本格化
一九二八年、大阪府公道会の設立以降、同和教育についての状況は、一、部落に対する忌避行動に対する社会同和教育、二、就学保障、ついで三、戦時下では「児童融和教育」の体制的措置であった。まず一については越境通学の問題である。堺市内の舳松地域や南王子村などでは越境問題だけでなく貧困(学費・欠食児童)問題もあった。
その象徴的な学校は、有隣・徳風、豊崎などで二二年〜二五年に市に移管された「勤労学校」であった。府は二四年に「児童就学奨励規程」を施行、三二年からは給食施設も実施された。
一方、三については教員に対する融和教育研修が三六年・三七年からはじまった。いずれも以前から融和事業に熱心であった豊能・泉南郡から開始されている。このなかで文部大臣の「国民融和に関する訓令」があり、府はこれに対応して三八年、融和教育委員会を設置、「教育指針」や融和教育担当教員の優遇、所管部署も社会課から学務課と社会教育課へ拡張した。
このような新体制下のもと研究会や、全教員の同和研修が実施されていくのである。注目すべきは部落のない学校こそ同和教育が必要とされ、また、教職員の部落問題認識の量質が問われていくが、これらの課題は戦後にもちこされた。
八 融和と解放の思想・文化
大阪府の融和と解放の思想をとりあげる際、まず忘れられていた人物に注目したい。それは、沼田嘉一郎の存在である。沼田は、水平社の栗須七郎から水平運動への参加を拒否したことから批判をうけてきた。しかし、沼田は地元の西浜、大阪市、大阪府の住民利害に密着した行動を行っていたのである。その足跡は地元の方面・救護法実施への深い関与で全国的にも著名である。今後の課題としては、同和事業との関与の少なさが究明をまつもので、本史料集ではその一部が入っている。
一方、融和運動では「内部自覚運動」が、部落民の主体的自覚とそれにもとづく社会的経済的活動の主張となって部落の経済的更生の方策とならんでいた。それに対応した地元の主張は南王子青年団からよせられていた。
この時期で注目すべきは、残存することは少ないとはいえ映画フィルムやシナリオである。雑誌などに掲載された小説、映画紹介など未発掘のものは多い。また、行政側は融和事業家の事蹟や功績の紹介をはじめている。
このような多様な映画、演劇、文芸作品、ラジオ放送などへのメディア表現のなかでの差別の拡大については水平社もその対応に迫られて「糺弾要綱」を示すことになる。そしてこのメディアへの積極的参加もうたわれ、啓発や運動への利用にもつかわれるようになった。
また、人物でも部落産業、社会・融和事業や水平社運動に尽力した人々が没した。荒木栄蔵・前田宇治郎・泉野利喜蔵らがそれである。
九 宗教団と融和運動
近代の真宗教団も強固な小組と大講を信者網とする信徒で組織されていた。まず被差別部落への差別は、これら一般信徒の組講からの排除との闘いであった。一般社会と信徒内部の教団組織の二重の機構からの差別との対応からはじまった。
信教の自由の根幹にふれる問題を一如会の存在はふれたのである。
ついでテーマは国家と(俗諦)教団、仏教信仰(真諦)の「二諦」の「二諦相資」の問題である。この国家的要請と宗教教団側の対応は、戦時下になると政治的進展をみるようになる。仏教懇談会・仏教連合会、仏教団などの各地での結成である。
三九年の泉南仏教懇談会では水平社の泉野も出席、翌年の本願寺教団との懇談会には松本治一郎も懇談し部落問題の解決に仏教のもつ役割の重要性をのべていた。
また、数少ない寺院経済の会計簿が紹介されている。南王子村では寺の基本金収支決算の報告があり、その事情の解明はこれからである。布忍村の本山上納金の場合も講運営と本願寺の関係をわずかに示すものである。
十 まとめ
本巻で、『大阪の部落史』の史料編の近代と現代(全五冊)は刊行の完了をみた。「まとめ」を書くに際してとりわけ第六巻に限定して感じたことをのべたい。
まず第一は、大阪は産業都市であり府内の市域周辺も含めて多様な産業と職業圏を構成していたということである。そのため、他府県に比して就労の機会に恵まれており、地方からの人口吸収力があったという点である。このことは差別の解消を意味するものではなく拡散化をもたらしたという特徴がある。この意味することは何なのか、現在と通底するテーマがはじまっていることでこの研究の大切さが問われている。
ついで、労働力と資本の集積は人口・生産・消費・衛生・住宅・娯楽など、いわゆる都市問題の発生をもたらしたことである。それは伝統的な被差別部落の弛緩をもたらし、水平社運動の受容とともに社会運動や社会事業の基盤形成とつながった。融和運動・融和事業は、この吸引力に弱められた側面があった。
一方、植民地朝鮮の労働力流入は一部の部落産業や居住地の競合・共生をもたらしたが、共生的関係は一部の限られた運動の部分にとどまった。この課題は戦後に引きつがれているが追究が不十分である。
戦時下の経済は部落産業にも統制化をもたらし、とりわけ都市の部落の生活は動揺を示した。他方、この経過のなかで水平社と行政・融和団体の合体化が進行、同和奉公会が成立したが、差別的状況はつづいていた。
一九三〇〜四〇年にかけての水平運動は内部の意見対立(代表的には水平社解消派と非解消派)があったが、三三年の高松地方裁判所事件で統一がはじまった。「改善費拡大・経済更生」が統一点で、次に戦時下の分裂をむかえ、やがて一九四一年、同和奉公会体制へ吸収されたのである。この戦時下「転向」ともいうべき事態の反省的整理は論争がはじまったばかりである。
同和教育の分野では、やっと一九三〇年前後から体制的措置がはじまり、全教員にも同和研修が行われるが、他府県に比して、その進行は戦後にもちこされた。
また、部落の人物像として、これまでは無視されてきた沼田嘉一郎の再評価を提示した。今後、社会事業や部落産業で果たした役割が問われてくる。宗教では真宗教団や信徒内部の差別事例の掘りおこしができたこと、その信仰のあり方を問うたことなどが今後につながる点である。
このように本編では、主として一九三〇年前後、大阪は部落問題の解決にどのような努力をし、今後の課題に何を残したかを不十分ながら示した。