米騒動後の一九一九(大正八)年一月に開かれた内務省主催の第二回細民部落改善協議会に、東西両本願寺からそれぞれ二名の委員が出席した。これに関連して『中外日報』は「全国の特種部落は殆ど両本願寺の門徒と云ふても差支なき程密接の関係を持てるものなり」と述べている(一九一九年一月九日付)。
ちなみに、宗教新聞『中外日報』は当時真宗教団に批判的な新聞で、部落問題に関心を持っていた。さてその『中外日報』は同年一月一七日付の紙上で、「部落改善と真宗」と題して次のように主張した。
「右協議会の結果が部落改善に対し幾何の効果を齎らすべきかは時節柄注目すべきこと」である。米騒動以来「細民部落」に関し朝野の注目を集めてきており、かねてから部落改善を唱えていた公道会が奮起して徳川家達公一行が部落を視察したのも、内務省が細民部落改善協議会を開催するのもそのあらわれと見ることができる。「然るに部落民との精神交通に於て昔時より親密なる関係ありと称せらるる真宗各派殊に東西両派に於て、之れが改善指導に関する施設として多く見るべきものなく、極めて緩慢に打過ぎつつあるの観あるは、真宗として社会に対し面目を失する次第にして如何に教化の弛緩せるかを察するに足らん」(原史料に圏点、以下の引用箇所についても同じ)と教団を批判し、米騒動の原因の一つは部落民の教化を怠った教団にあるとして、「精神的指導者たるべき両本願寺が、他の教徒信徒に対すると同じく彼等より志納を収むることのみを知りて、精神教化を以て彼等に酬ゆる途を閑却したる結果、部落の欠隙を拡大し社会をして戦慄せしむるが如き不祥事を見たるものとも謂ひ得べく、教化の任に在る両本願寺として社会国家に対し忸怩として顔色なき訳なり」(原史料に圏点)と難じている。
このような言説の背景に、部落民の真宗教団に対する批判、不満、反感が累積していたことが推察できる。
さて、開催された第二回細民部落改善協議会では、部落の根本的改善、部落外との融和、共同自制精神の涵養、部落婦人の自覚、「普通職業」の普及の方法などとともに、「信仰心を活用する方法如何」が議題として提出された。席上、委員から「多数の信徒を有する真宗に対し反省を促がしたしとて、布教に辞を設けて浮浪僧の部落に入り込む事、説教法話の高座の上より募金する事、普通民家に於て布教する事、真諦門の布教に偏重して俗諦門の閑却せらるゝ事、僧侶信徒が部落改善に従事する者に接近するを厭ふ傾向ある事を列挙し所轄本山に於て取締を励行せんことを望む、而して布教者と信徒の志納を募集する者と別人を以てし別の場所に於て行ふ様にし度し」と部落における真宗の実態を指摘し改善策が提案された(『中外日報』一九一九年一月二二日付)。
ついで協議会終了後、『中外日報』は「部落改善と信仰」と題する論説をかかげた(一九一九年一月二三日付)。
「吾人は同協議員の顔触れを見ては、如何に内務省が部落改善の事業に対し、宗教家の感化力に重きを置き居れるかを知り、又其協議事項を見ては、如何に同協議会が部落民の精神的宗教的開発を重要視し居れるかを知り、大体の方針に於て、大に我意を得たるものあるを思ひ、快感の湧き来るを禁ずる能はず」(原史料に圏点)と協議会に一応の賛辞を呈したのち、しかし部落改善事業と宗教とを結びつけた動機を慮ると、その口吻から何となく、宗教、信仰を部落改善のための一種の道具と見做しているのではないかと疑うという。
すなわち「是に於てか吾人は、信仰心を活用して部落民を救済する最良最善の方法は、救済の発意者・発議者及び救済の実行者が先づ以て熱烈真摯なる信仰を有し、それによりて部落民の心理上・生理上其他種々の弊習を融かし尽すにあることを確信せざるを得ず」(原史料に圏点)と述べて、内務省当局者、部落改善協議会員が自らの生活に信仰の価値を認めることなく部落(民)を改善しようとする矛盾に陥っていないか、そうであれば部落民の「偏執」をますます強めることになる、と警めている。