一九九五年四月からスタートした「大阪の部落史」編纂事業は、二〇〇三年度に『大阪の部落史』第六巻(史料編 近代3)を発刊し、これまでに史料編として近代(全三巻)、現代(全二巻)を刊行してきました。
さらに二〇〇四年度は史料編の前近代の編纂に取り組み、今般、『大阪の部落史』第一巻(史料編 考古、古代・中世、近世1)を刊行いたします。今号は編纂の中心となりました積山 洋(考古)、井上満郎(古代)、布引敏雄(中世)、寺木伸明(近世)の各委員による、紹介の特集号としました(事務局)。
考古編 |
飛鳥時代の斃牛馬処理
―第一巻の刊行によせて―
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『大阪の部落史』第一巻の刊行に際し、本稿では、考古編の収録に間に合わなかった大阪市内の資料を補遺として紹介し、あわせて若干の考察を試みることとしたい。なお、文中の( )内の数字は第一巻のCDに収録した資料番号である。
一 考古編の補遺
(一)大坂城下町跡・大坂城跡
近世船場のなかでも薬種問屋が軒を並べていたOJ九四―一六次(大阪市中央区道修町二丁目)調査地点では、ウシ・ウマも散発的に出土しているが、豊臣後期(一五九八-一六一五年)から江戸時代前半期(一八世紀前半以前)までにネコの骨の出土が一七二点と目立っている。三味線に張る皮として、または痰積・喘息への薬種的な用途の肉としての需要などが想定されている。また、考古編で触れたOJ九二―二四次・同三三次(いずれも大阪市中央区瓦町二丁目)出土のウシ・ウマの骨細工資料は、下記報告書にてその部位、加工の様相などが詳しく報告されている。
このほか、豊臣氏大坂城跡に位置し、江戸時代には城下町であったOS〇二―八次(大阪市中央区和泉町一丁目)調査地では、一七世紀末以後の土坑からウシ中手骨の骨端部が一〇一点出土した。骨端除去という骨細工の最初の工程に関わる資料である。
(文献 大阪市文化財協会『大坂城下町跡』úK、二〇〇四年 及び同書所収、宮路淳子・松井章「大坂城下町跡出土の動物遺存体の分析」)
(二)難波宮跡
NW九〇―七次調査(大阪市中央区内久宝寺町二丁目)では、前期難波宮(難波長柄豊碕宮)の西限ラインのすぐ西に隣接して、西へ落ち込む自然の谷SX九〇一がみつかっている。この谷を埋める整地は七世紀中ごろ(難波úL中段階)に行なわれており、孝徳朝の長柄豊碕宮造営によるものである。
整地層とその下面から二〇三点に及ぶ多量の獣骨が出土し、その内訳はウシ八三点、ウマ三一点、ウシ又はウマ七八点、その他は不明であった。通常、古代の遺跡から出土する獣骨にはウマが多く、ウシはかなり少数派であるのに対し、ここでは逆に、ほぼ八対三の比率でウシが多数を占めている。難波宮造営に際してウマはもとよりウシが多く集められたものと考えられる。ウマは体高一三〇‡p前後と大型で、奈良時代の平城京で出土するウマに匹敵するという。ウシ・ウマともに出土した骨にはあらゆる部位のものがあること、またウシの一三点、ウマの二点の骨に刃物傷があることから、ウシ・ウマが解体され、その骨がSX九〇一にまとめて捨てられたことが明らかである。ここから北西約七〇mの地点でもSX九〇一に連続する谷がみつかり、七世紀のウシ・ウマ・イノシシなどの骨が出土している(18)。またその北東約四〇〇mでも、難波宮造営時のごみ捨て穴からウシ・ウマの歯がみつかっている(14)。
なお『日本書紀』は、早くも安閑二年(六世紀前半)に難波大隅嶋、媛嶋松原に牛を放ったと伝え、倭王権が牛牧を設置したことが知られる。
(文献 大阪市文化財協会『難波宮址の研究』第一二、二〇〇四年 及び同書所収、宮路淳子・松井章「NW九〇―七次調査地から出土した動物遺存体」)
二 前期難波宮と斃牛馬処理
ウマの日本への本格的な移入は古墳時代中期の五世紀である。以来、ウマは主に儀式や軍事で重用された。古墳出土の馬形埴輪、騎馬戦に適応した甲冑(挂甲)や馬具などがそれを物語る。四條畷市蔀屋北遺跡では埋葬土坑がみつかった(165)ように、ウマは非常に大切にされていた。一方、ウシの移入はやや遅れ、おおむね古墳時代後期の六世紀であるが、これも後期前半には守口市梶二号墳や、大王墓である高槻市今城塚古墳などで牛形埴輪が出土したように、当初は大王墓をはじめ古墳の葬送儀礼に組み込まれるほど重要な存在であった。要するに、古墳時代の牛馬は一種の威信財だったのである。
このような傾向に変化がみられるのは飛鳥時代である。大阪市平野区の長原遺跡では七世紀前半のくぼ地から二二九点という大量のウシ・ウマの骨が出土(体格の大きいウマの骨を含む)し、刃物傷もみられたので、その地で解体処理され、骨が捨てられたことが判明した。しかも獣骨群には複数の集中部分があり、何度かにわたって投棄された集積とみられた(72)。けがや病気などで死んだウシ・ウマをその都度ここで解体したのであろう。このような斃牛馬の処理による大量の骨の出土は飛鳥時代からのことであり、古墳時代のようにわざわざ墓に葬るという牛馬観は、もうない。
考古編の解説でも述べたように、長原遺跡での牛馬骨の出土は他の遺跡に比べて異常に多く、突出しており、しかもかなり体格の大きい個体を含んでいる。斃牛馬がまとめて解体処理されるということは、その背後にかなり大量の牛馬の存在が想定され、この地にも早くから、王権の牛馬飼養施設として牧が置かれていた可能性は大であろう。
難波宮下層遺跡でも古墳時代後期から牛馬が存在した(19)が、先述のように、難波宮の造営ではかなり多数の牛馬が使役されたことが明確になった。『続日本紀』によると霊亀二年(七一六)まで存続した大隅嶋、媛嶋の牧や、長原からも徴発されたことであろう。このような大事業では、当然、病気のみならず事故、きつい荷役による衰弱などで死んだ牛馬も多かったはずで、斃牛馬処理場も計画的に設けられたであろうし、その位置が工事の邪魔にならない宮域の外に決められていたことも容易に想像できよう。最近、難波宮の周辺には大小の開析谷が埋没し、旧地形はかなり起伏に富んでいたことが判ってきた(前掲『難波宮址の研究』第一二)。そのなかで、「龍造寺谷」と仮称される谷の支谷をなすSX九〇一は宮域の西隣という、もっとも斃牛馬処理にふさわしい位置なのである。
養老厩牧令の官馬牛条には「凡そ官の馬牛死なば、おのおの皮、脳、角、胆を収れ」とあり、同因公事条には皮宍(皮と肉)を売る規定もあるように、大型獣である牛馬は死んでも皮や肉、毛や角など資源価値が高く、律令政府はそれらの再利用を図った。同じことは難波宮の造営でも措置されたと私は考える。ただし、脳髄の摘出は七世紀後半の大阪市中央区森の宮遺跡(24)が確実な初例であり、これは遅れるとしても、基本的には、孝徳朝でも死牛馬は資源として再利用されたであろう。近年、難波宮北方の谷から出土した「宍」の荷札木簡が示すように、肉は大王家や難波宮の官人、造営工人たちの食料であったし、皮は宮殿に供された様々な工芸品の素材になったとみられるのである。
難波宮で出土する牛馬骨は、律令制的祭祀の成立問題でも極めて重要な論点を提供しているが、すでに紙数を越えているので、他日を期したい。また、註は大幅に割愛した。ご寛恕を乞う。
最後になったが、考古編の編集は宮崎泰史・別所秀高両氏との共同作業であった。考古編にいささかでも今後に資するところがあるとすれば、それはひとえに両氏の献身的なご努力に負うものである。
古代・中世編 |
初めての史料集成
井上満郎(京都産業大学)
布引敏雄(大阪明浄大学)
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一 古代編について
大阪の部落史をつらぬく特徴はいくつかある。それらの特徴を、文献史料を通じていかに読み解くか、そのためにはどういう史料が掲載されるのが適当か、という点に重きをおいて古代史料の収集と編集にあたった。史料集であることの性格上すべてが生の史料だから、編集者の主観を差し挟まないためにもできるだけ史料原文のままの掲載をこころがけたが、『日本書紀』や『万葉集』などは読者の便宜を考えて読み下し文、仮名交じり文とすることにした。この場合、句読点や返り点をどう振るかという編集者の主観が入ってしまうわけではあるが、古代編をみていただく読者により身近に史料を感じ取ってもらうための措置として理解していただきたく思っている。
古代編の取り上げた地域的な範囲ということでは、現在の大阪府の範囲である摂津・河内・和泉の三国が対象となる。そのうち摂津は兵庫県にもまたがるが、古代史料においては当該史料が大阪府側の摂津かそれとも兵庫県側の摂津かは判断不能の場合が多く、大阪府側をも含むということで収載することにした。
取り上げた史料の語る時代は、古墳時代からはじまる。日本歴史に関する文献史料は『漢書』『後漢書』など紀元前後ころから存在するが、それらは大阪という地域に関連するものではなく、結局は『日本書紀』からはじめることになった。古代史料の通有として当然のことながら政治に関わる史料が多く、『日本書紀』からはじまる六国史、またそれに準じる『延喜式』『類聚三代格』など、支配者階級によって記されたものがどうしても中心となる。民衆的というか、庶民の目から記された史料はきわめて少ないのだが、かろうじて『万葉集』などに庶民の目線を見いだすことができるし、また支配者階級の記した史料においても、可能なかぎり庶民の視点をとって編集にあたったつもりである。
内容についていえば、まず現在も府庁所在地である大阪の起源ともいうべき、「津」のことが注目される。摂津という呼称はこの「津」を「摂べる」ところから発したものであり、ここは古代日本の外交の窓口であった。国際的環境のもとにあったのであり、多くの渡来人や渡来文化がこの津を経て日本に流入してきたはずである。古代の河内が渡来人の里ともいうべき様相を呈するのは、この津の存在によることころが大きい。帰化人と呼ばれた渡来人についてはかつて‡被差別部落帰化人起源説‡≠ェ唱えられたが、すでにこの説は学問的に否定・克服されていると考え、したがって被差別という現象と直接に関わるものではないとして、紙数との関係もあって膨大な摂津・河内・和泉の渡来人に関する記載を持つ『新撰姓氏録』などは収載から除外した。渡来人・渡来文化については被差別史の周縁をなす古代大阪の大きな特徴であるし、本文編で関説を行なうつもりである。
古代大阪の被差別民として、まず律令制度に規定された五賤について取り上げねばならない。陵戸・官戸・家人・公奴婢・私奴婢をいうが、早く「陵守」の名がみえるように王の清浄性を保守するために設置されていたらしい。巨大古墳が多くみられるように河内は特に王陵の多い地域であり、したがって王陵の清浄性を維持するための部民が置かれ、白鳥陵に「陵守」がいたという記録などは(『日本書紀』)、それを示す。まだ賤身分ではなかったが、これが律令制の陵戸の源流であることはまず確実であろう。事実、陵戸とそれに類するものが河内に九四戸、摂津に五戸置かれていたという史料もある。
また五賤の上に品部・雑戸があり賤身分ではなかったが良と賤の中間に置かれた。品部・雑戸は国家・朝廷に属して手工業生産などの専門的技術・職務にたずさわるから、多くは宮都の地の近くに居住することになる。大阪では平安時代に木工寮に属したもと雑戸の「鍛冶戸」があり、河内に四六烟、摂津に五八烟とかなりの数の居住があった。いつから河内・摂津の雑戸が始まるかは確定できないが、おそらくは奈良時代より以前に、先進的な渡来文化の厚い分布とも関わって、すでに大阪には鍛冶技術にすぐれた工人たちがいたのである。
動物利用との関係では、文字どおりに馬の飼養・調教にあたる馬飼の存在が注目される。早く継体天皇の時代に「河内馬飼」の名があり(『日本書紀』)、河内に馬が飼われていた。他にも「娑羅々馬飼」・「菟野馬飼」などがみえていて、娑羅々・菟野ともに河内の地名だから、かなり広範囲に馬が飼養されていたことがうかがえる。
触れねばならないことは多いが、あとは書物をご覧いただくとして、この文献史料部分と合わせて、考古資料をあつかったという本書の特徴がある。おそらくは部落史関係の史料・資料集で考古学の成果を本格的に取り上げた最初の書物が『大阪の部落史』であり、それが成功しているかどうかは読者の判断に委ねるほかないが、文字だけでは分からない多くの被差別に関わる事象を今回新たに提示できたと確信している。
(井上満郎)
二 中世編について
近年、網野善彦氏とその周辺によるいわゆる「職能民」研究によって、日本の中世史像は大きく変貌をとげた。それらによれば中世社会は日本各地域間の、あるいは海外との商業流通が進展した社会であり、閉鎖的な領主制社会ではなかったとされ、その活動主体として多種多様の職能民に注目が集まっている。それら職能民のなかの多くが非農業民であり、その実態を明らかにすることを通じて結果として中世部落史研究も大幅な前進をみた。
一方、大阪の中世部落史研究に限定していえば、三浦圭一氏による泉州地域に関する研究が基盤となり、その上に職能民研究が重なるという構図が成立しているとみてよいだろう。しかし、網野氏の研究も三浦氏の研究も、こと実証という面に関しては、まだ完全ではないといってよいのではなかろうか。したがって、各種史料を博捜して関係史料の収集に努め、それを基盤として実証的研究を進めることが現状の課題となっているといえる。
従来からの大阪地域の中世部落史研究は、他地域に比して進展していると胸を張るほどのものではなかった。その意味では今回『大阪の部落史』第一巻に「中世編」として初めて関係史料を集成できたのは、これからの大阪中世部落史研究の出発点となる意義を有するものといえる。
だが、その集成に際しては各種の理由で職能民に関する史料は割愛した。主に取り上げたのは、近世部落の前身ともいえる人びと、また、近世部落を出現させる因子となった諸種の制度や意識である。
取り立てていうほどの新史料の発見はなかったにしても、これまで研究者たちが見落としたり重要視していなかった史料が、今回の集成作業によって広く世に紹介されることとなった例もある。たとえば、『勘仲記』に、住吉神社の境内に発生した穢物を取り除ける職掌の人びとを「清目之輩」と表現していることなど、従来の研究ではほとんど使用されることのなかった記事である。
この『勘仲記』の記事はいわゆる「触穢」に関連するものであるが、近世部落成立の因子の一つとして「触穢」関係史料は、本書では意識して取り上げている。生魚の穢、淫事の穢などに関する史料も掲載している。「穢」の一種とされた皮については、有名な堺の茶人・武野紹?が皮屋であったと『実隆公記』にみえ、彼の父親もまた皮屋であったことが『堺数寄物語』にみえている。皮を扱う商人に対する「穢」視は存在しなかったのかどうか、さらに追究を要する課題であろう。
一向宗と中世被差別民の関連については従来より注目されているところだが、本書では石山の本願寺に、正月、宿の者が弓弦を献上したり、河原者が箒を献上したり、千秋万歳、久世舞、猿楽、松囃子、猿まわしなどの芸能者が訪れて得意の芸を披露した事実、また、本願寺に関係する人物の葬式に、聖や坂の者が深く関係していない事実など、数点を取り上げるにとどめた。
(布引敏雄)
はじめに
近世1が対象とする時期は、畿内の一向一揆が鎮圧されて豊臣政権が確立する天正一三(一五八五)年から元禄一七(一七〇四)年までである(ただし、序編については近世全期を含んでいる)。引き続き刊行される第二巻(史料編 近世2)は、それ以降、寛政一二(一八〇〇)年まで、第三巻(史料編 近世3)は、それ以降、慶応四(一八六八)年までを対象とする予定である。
収録対象とした史料は、皮多(「穢多」)身分関係を中心として「非人」、非人番、三昧聖(隠亡)、夙、陰陽師などの被差別民関係であった。
序編には、近世大阪の被差別民の概況を示す史料を収め、第一巻は内容によって九章に分類し、必要に応じて節を設けた。そのなかで年代順に配列した。
大阪府域では既に『奥田家文書』(全一五巻)、『河内国更池村文書』(全三巻)、近年では『和泉国かわた村支配文書』(全二巻)など、数多くの史料集の刊行がなされている。そのため、近世の編集にあたっては、それらとの重複を避け、できるだけ新出史料を多く収録すべく、基本的に既刊・既出史料を用いずに編集した。
地名・人名は、原則としてすべてそのまま掲載することにしたが、地名についてのみ例外的に一部伏字にしたところもある。
近世1の概要を目次によって示すと次のとおりである。
序編(近世被差別民の概況)
一 支配と所領
- 高槻藩
- 岸和田藩
- 諸藩・諸領
二 大坂・堺・在郷町と被差別民
- 大坂・堺と被差別民
- 摂津国住吉郡平野郷の被差別民
- 摂津国島上郡富田郷の被差別民
第一編(近世社会の成立と被差別民)
一 土地支配と被差別民
- 慶長・寛永検地
- 延宝検地
- その他の土地関係
二 宗門人別改
三 居住地の移転
- 渡辺村の状況と移転
- 和泉国泉郡南王子村の移転
四 役負担と生業
- 役負担
- 農業
- 太鼓業
五 斃牛馬等をめぐる状況
- 生類憐みの令発布期の状況
- 皮場をめぐる状況
六 信仰と寺院
七 四ヶ所長吏制の形成
- 大坂と堺の四ヶ所
- 市中にあふれる乞食・「非人」
- 村方非人番の定着
八 三昧聖の近世的展開
- 綸旨と院宣
- 許状と判物
- 訴状と覚書
九 多様な被差別民とその実態
- 大坂町触にみる仕置
- 夙と陰陽師村
- その他の被差別民
以下、主として近世1の「解説」を参考にして順を追って簡単に紹介していきたい(なお、文中の括弧内の数字は、近世1の史料番号を示している)。
序編(近世被差別民の概況)
序編は、読者にまず、近世大阪の被差別民の全体状況を理解していただくために近世期全体を対象として適切と判断される史料が配列されている。
高槻藩・岸和田藩内に存在した皮多村の村高などが記されている。天保一一(一八四〇)年六月の時点において、たとえば摂津国島上郡西天川村皮多が一五〇石、同国能勢郡野間口皮多村が一一九石七斗三升三合、同下田皮多村が一〇二石一斗五升七合も所持していたことが注目される(1、2)。寛永一七(一六四〇)年の時点において和泉国日根郡樽井皮多村も五三石五斗五升七合所持していた(3)。
大坂には、慶安四(一六五一)年に辻髪結が一六〇人、大鉦叩が一一人、山伏が二九〇人、行人が九人、道心坊主が四七四人というように社会から差別のまなざしでみられた人びとが多数存在していた(8)。年欠史料で、大坂三郷人口が三七万三二七二人のとき、「穢多」人数二七〇四人とある(9)。この人数は渡辺村(皮多村)の村民の数である。一八世紀前半期のものと推測される。元禄九(一六九六)年の堺四ヶ所の所在場所・人数がわかる史料も収められている(10)。
第一編(近世社会の成立と被差別民)
一 土地支配と被差別民
豊臣政権は、天下統一の過程で検地を実施し、耕地所持の百姓を名請人として登録するとともに、年貢の負担者を確定していった。その政策を通して兵農分離(武士と百姓の分離)と町在分離(町人と百姓の分離)をはかり、身分的区別を明確にしていった。そのときに作成された検地帳には、「かわた」(皮多)、「しく」(夙)、「おんはう」(隠亡)などの肩書を付された被差別民もみられる。
慶長九(一六〇四)年八月の和泉国大鳥郡草部村指出帳に、「御はう」(隠亡)、「しく」、同年同月の同国南郡麻生郷海塚村検地帳に「かわた」の肩書をもった名請人がみられる(18、19)。これらの指出帳(検地帳)は、文禄三(一五九四)年の太閤検地帳を写したものと推定されているから、これらの地域においても、太閤検地の際に被差別身分の肩書が記され、身分的に固定されたものと考えられる。
延宝五(一六七七)年の摂津国西成郡下難波村検地帳には、同郡木津村に移転させられる前の渡辺村住民のうち、年貢地の屋敷所持者四七軒(徳浄寺も含む)の名前・屋号・屋敷地の広さが列記されている(21)。これによって初めて下難波村時代の渡辺村住民の名前・屋号などが相当数判明したのである。
寛文一〇(一六七〇)年二月、和泉国日根郡谷川村の五右衛門が屋敷地を谷川河原村の与八郎に売却したが(25)、当地域の史料としては古くて珍しいものである。
なお、元禄七(一六九四)年の摂津国能勢郡野間口皮多宛免状記載の村高(33)と同五年の野間口村免状記載の村高(32)が同じであることから、遅くとも元禄五年までに野間口皮多村が一村独立の行政村として認められていたことが推察される。
二 宗門人別改
キリシタン禁圧政策から行なわれるようになった宗門改についてみると、寛永一七(一六四〇)年から幕府では大目付井上正重が事実上の宗門改役に就き、明暦三(一六五七)年に正式に宗門改役が設置されるようになった。寛文四(一六六四)年には諸藩にも宗門改役の設置が命じられ、原則として毎年二月か三月に宗門改帳が作成されるようになった。こうして宗門改制度が整備されていったが、この制度は、時代が下るにつれてキリシタンの禁圧を目的とするだけではなく、領民の人身を把握する目的をもって行なわれるようになっていった。この制度によって近世の各身分は、さらに固定化され、近世身分制度が確立したといえよう。
元禄一一(一六九八)年、天王寺領内の「悲田院仲間」(垣外とも称された。天王寺の「非人」身分の人びと)にも宗門改が命じられ、その年の三月に宗門改帳が作成された(38)。江戸・京都・大坂などの大都市の「非人」集団の宗門改帳は、今のところこれが唯一のものと思われる。これによって、六〇〇人に及ぶ「非人」集団が、「悲田院仲間」「手下新非人」「新屋敷手下非人」の三層から構成されていたこと、単婚小家族であったこと、その他出生地、旦那寺が判明する。また、一名の転びキリシタンの名前・年齢なども記されていて興味深い。
三 居住地の移転
渡辺村は、もともと大川(淀川)の南岸にあったとされ、豊臣秀吉の大坂築城に伴い移転させられ、天正年中(一五七三-一五九二)には市中五ヵ所にわかれて居住していたという。元和七(一六二一)年に摂津国西成郡下難波村内の道頓堀川南側の一画に再移転させられたと考えられている。この渡辺村が、元禄一一(一六九八)年一一月以降に同国同郡木津村への移住が決定されたことが、同村の年貢免状からもうかがうことができる(41、42)。つまり翌年の元禄一二年の年貢免状に記された村高が、それ以前に比して渡辺村屋敷の免租地分に相当する二四石九升一合少なくなるからである。ところが、木津村への最初の移転地は、水害にあいやすい低湿地であったようで、今度は渡辺村の方から移転を願い出て許され、元禄一四(一七〇一)年五月から同村内の字堂面・大樋口に移ったのであった。収録史料の「元禄十四年巳五月 穢多村所替屋鋪地反畝分米員数帳」によって、初めてその地の、元の所持者名・地字名・耕地の等級・面積などが判明した(45)。土地はすべて畑で、しかも下畑か下々畑であった。
和泉国泉郡南王子村が、元禄一一年にそれまで住んでいた王子村の除地(年貢免除地)から南王子村内の本田畑の一部を屋敷地(年貢地)としてそこへ移り住んで、王子村支配から離れて一村独立の皮多村となったことはよく知られている。既に『奥田家文書』第六巻、五〇六号文書、『同』第一四巻、二二八二号文書などで、その事実は明白であったのであるが、今回収録した史料により、その経緯がより詳細にわかることになった(50)。
四 役負担と生業
近世の皮多身分には、行刑役・警察役・掃除役・革の上納などが課せられていた。岸和田藩内における皮多の役務として、城中の掃除・馬の絆綱・拷問と断罪人足のあったことは、既に知られているが(藤本清二郎編『和泉国かわた村支配文書―預り庄屋の記録―』上巻、一六五号文書)、その同じ記録を含めて、役儀の種類・人足数・人足賃などが記された史料も収められている(53)。
摂津国能勢郡野間口皮多が山番を勤めていたこともわかる(52)。
大阪府域の皮多の人びとが、相当量の田畑を所持し、農業にも積極的にかかわっていたことも、既によく知られている事実であるが、先に紹介した序編の諸史料や第一編第一章の諸史料によっても、いかに皮多村が農業に深くかかわっていたかが判明する。この章に収められた、主として田畑売買に関する諸史料によっても、そのことがうらづけられよう。
皮多の生業として太鼓業も著名である。貝塚御堂(願泉寺)の太鼓の張り替えに関して慶長一六(一六一一)年以来の記録も収められている(59)。江戸中後期の分も含まれるが、渡辺村の河内屋吉兵衛、和泉国日根郡鶴原の藤右衛門、瓦屋村の源蔵の名前や嶋村という村名が記されている。近世初頭より皮多の人びとが、太鼓業に従事していたことが判明する。
五 斃牛馬等をめぐる状況
死んだ牛馬、つまり斃牛馬を処理する権利は、皮多村の権益であった。斃牛馬からは、皮・肉・角・毛・爪などが得られ、一頭捌くと、皮だけでも、江戸中期、約一両(米一石余)の値うちがあった。この皮を鞣す仕事やこの革を利用する太鼓製造業・雪踏製造業なども、皮多村の重要な生業であった。
貞享二(一六八五)年に「生類憐みの令」が発布されると、牛馬などの扱いにも大きな影響があらわれた。領主たちは犬の頭数を調べさせたり(64)、牛馬などの売買を規制したり(61、62)、牛馬を一頭ごとに人別帳に書き上げさせたりしていた(63)。元禄三(一六九〇)年には、摂津国島上郡萩庄村枝郷丹波谷村に斃牛を捨てたということで、備中国の博労が大坂町奉行所で吟味を受け、獄門に処されている(67)。
牛馬が死んだ場合、村の庄屋を通じて死亡届を領主に提出させている(72)。
死牛馬を取得できる範囲を草場(旦那場)といい、一〇-二〇ヵ村で設定される場合が多かったようであるが、南王子村のように二三八ヵ村も所持していた場合もあった。先にふれたように死牛馬取得の権益は、相当、大きかったので、草場(皮場)の境界をめぐって近隣の皮多村間でたびたび争論が起こっている(79、80)。
六 信仰と寺院
大阪府域の皮多村の人びとの旦那寺の宗旨は、すべて浄土真宗であった。しかも、そのほとんどが本願寺派(西本願寺派)であった。
慶長四(一五九九)年に堺の慈光寺下の「カワヤ道周」に宗主准如より「御文」が下付されている(82-84)。この「カワヤ」は「かわた」ではなく堺の皮革商人(町人)であった可能性もあるが、注目される史料である。
寛文六(一六六六)年、下田村福恩寺(部落寺院)に太子七高祖の絵像が許されている。同年、近江国栗太郡野尻村の安楽寺も同一の絵像が下付されたが、福恩寺の場合、その冥加金は安楽寺の五割増しであった(85)。江戸時代、真宗本願寺派の部落寺院は、部落以外の寺院に比べて五割増しの冥加金を上納させられていた。この史料は、現在のところ、この五割増しの初見史料とされる。
さらに注目されるのは、西本願寺宗主寂如(一六六二-一七二五年在職)から渡辺村に下したと注記されている消息(寺や講などに宛てた宗主の法語の手紙)である(88)。ただ、宛所は注記にしかなく年紀もないことなどから実際に寂如から下付されたものかどうかについては疑問なしとしない。もし、これが事実とすれば、近世本願寺宗主の消息のなかで「穢多」の往生を説いた唯一のものである。そこには「悪人摂取ノ本願ナレバ、タトヒ在家・出家ナラズトモ、穢多ハ往生スベシ」(濁点等、筆者付す)と明快に説かれている。ただし、「不浄ノ身ナリトモ心清浄ナルトキハ往生スベシ」などとも述べていて、皮多の人びとの身があたかも不浄であるかのようにとらえていたこともわかる。
七 四ヶ所長吏制の形成
大坂の四ヶ所とは、天王寺(悲田院)・鳶田・道頓堀・天満の「非人」集団 あるいはその居住地をいう。また、各集団の頭を長吏と称し、大坂の「非人」身分のことを長吏と呼ぶこともある。垣外ともいう。四ヶ所の「非人」たちは、大坂町奉行所の盗賊方与力・定廻与力のもとで配下の小頭・非人番を動員して犯罪の捜査・犯人の逮捕に従事した。
文化九(一八一二)年二月の「四ヶ所并施行院由緒書写」には、天王寺の「非人」と関係の深かった施行院の由緒などが記されている(95)。
道頓堀と天王寺の「非人」集団のなかに、かなりの転びキリシタンおよびその類族が含まれていたことは、『道頓堀非人関係文書』上巻、『悲田院文書』所収の諸史料で明らかである。第一編第二章に収録の正徳六(一七一六)年六月の『転切支丹類族生死改帳』(天王寺村)でも、そのことが確認される。また本章所載の史料によっても、その一端がうかがえる(100)。
なお、一般に「非人」身分の人びとの耕地所持は認められていなかったとされているが、天王寺の「非人」が隣村南堀越村四郎兵衛を預り主として畑地を所持していたと考えられることは、注目に値する(101)。領主側による耕地所持規制を、このような手続きをとることでまぬがれていたものと思われる。このような史料の今後の探索が待たれる。
大阪府域でも、各村に入り込む野非人の取り締まりのため非人番が村抱えという形で置かれることが多かった。その始期を示すであろう史料が、貞享四(一六八七)年八月の宗旨請状である(109)。「番非人」長次郎とその妻にかかわるもので、長次郎の旦那寺である堺の梅翁寺から和泉国大鳥郡上神谷豊田村庄屋に出されたものである。従来の研究では、在方で作成された史料に出てくる非人番の初見は、河内国では貞享五(一六八八)年、和泉国では元禄六(一六九三)年、摂津国では享保六(一七二一)年とされているので、この貞享四年の請状は、摂河泉では今のところ最も古い時期に属する史料である。なお、本巻所収の「解説」では、貞享四年のこの請状を近畿地方における非人番の初見史料としていたが、貞享二年に堺四ヶ所長吏が「泉州非人番」に出した法度書が存在しているので、在方で作成された史料に出てくる初見史料というように限定しておきたい。
八 三昧聖の近世的展開
近世社会では葬送の業務、とくに火葬をとりおこなった人びとを隠亡(隠妨)と称した。当人たちは、自らを聖(三昧聖・墓所聖)、あるいは墓守と名乗った。三昧聖が集落を形成し、国郡規模の仲間組織をもった地域は、畿内とその周辺に限られるとされている。こうした三昧聖は、室町時代には墓郷(惣墓)の成立に伴って形成されてきた。この章に収められた史料の根幹をなすものは、和泉国熊取谷旧浦田家文書である。
近世社会が成立すると、次第に墓地・三昧屋敷地にかかわる諸公事や臨時課役の免除の慣行や葬送用具の取り仕切りなど身分的権益が見直される動きが起こってきた。そのため三昧聖たちは、行基のもとで大仏造営にかかわった由緒を書き上げ、天皇・上皇らの「綸旨」や「院宣」で権威づけ、古来からの権限であるとして、自らの権益を守ろうとした。和泉国三昧聖たちは、行基の遺志を継ぐ志阿弥法師の法統を継承する集団であることを強調したのである(116-122)。
戦国時代に入ると、既得権益や慣行の承認は、戦国大名や上級武士の安堵状や下文によることとなった。そのため、こうした許状などの写が多く伝えられることになった(123-128)。
近世期になると、たとえば河内国と摂津国の一部の聖たちが、先例をあげて諸役免除を歎願したり(130)、五畿内の三昧聖が延宝検地に際して墓地と屋敷地の除地を訴えて広域運動を展開するようになる(131)。
なお、元禄五(一六九二)年、東大寺より梅田墓所三昧聖に宛てて、東大寺大仏殿修復開眼供養勧化状が出されている(133)。三昧聖が東大寺と関係を有していたことが示されている。
九 多様な被差別民とその実態
大阪府域の近世社会には、皮多・「非人」・非人番以外に夙・陰陽師・山伏など、多くの被差別民が存在していた。
貞享五(一六八八)年二月、摂津国島上郡内の夙の者たちが「氏あらそひ」を行なったことで、六人が磔に、一一人が獄門に処されている(141)。その関連文書と考えられるものが『大日本古文書 石清水文書之三』所収、一〇七七・一〇七八号文書である。今後の検討が待たれる。
寛文五(一六六五)年五月には、大念仏本尊の廻在にあたって舞々への「参銭」「参米」をめぐって争いが起こった(142)。この史料によって、「信太舞まい」「舞太夫」が陰陽師でもあったこと、法会で散銭・散米を受け取る権利があって、これをめぐって長期にわたる争いがあったことなどが知られる。また、貞享元(一六八四)年に和泉国で陰陽師の吟味が実施されている(143)。
年紀は不明であるが、和泉国熊取組大工仲間が、畿内の大工仲間の本家である京都の中井家が定めた「京都御掟目」を記したうえ、元禄八(一六九五)年に定められた熊取組大工仲間定法を守り、かつ「京都御掟目」に定められた「穢之場所」の居宅造作にはかかわらない旨、誓約している(147)。「京都御掟目」に記された「穢之筋目」には、猿楽・座頭・石切・船大工・湯屋・風呂屋・獄屋・車力・藍染屋・傾城屋・陰陽道・火屋荼毘所・「穢多」・芝居があげられている。畿内の在地社会が捉えていた不浄視の対象の概要を示していて興味深い。ここに「非人」「非人番」が記されていないことも注目される。
十 添付絵図について
なお、本巻には、別添絵図が収められている。これは、このたび初めて刊行される延宝四(一六七六)年の河内国丹北郡更池村検地現況絵図である。この絵図については、既に朝尾直弘氏によって更池村耕地の分析に使用されているものである(『近世封建社会の基礎構造』御茶の水書房、一九六七年)。しかし、当時は、古絵図を解読図として分析するという研究段階にはなかったので、絵図そのものを解読するということは行なわれなかった。
今回収録された絵図によって文禄検地時の更池村「かわた」集落の景観を、耕地・屋敷地の所持状況を含めて復元でき、近世前期の村落の実態を解明する手がかりを与えてくれるものである。その詳細な解説を臼井寿光氏が書いているので、ぜひ参照していただくとともに、この絵図の分析がさらに深く、精密に行なわれることを期待したい。
おわりに
皮多をはじめとして近世前期の被差別民にかかわる史料は、全国的にみてもきわめて少ないのが現状である。そのような状況のもとで、ここに紹介できなかった史料も含めて相当量の史料を収集・掲載できたのは、ひとえに史料所蔵者・関係機関のご協力によるもので、厚く感謝申し上げる次第である。
近世1を含む本書が活用されることによって被差別民の歴史が全社会構造のなかでさらに深く解明され、ひいてはそのことが現代日本社会に存在している差別問題の解決につながっていくことを切望して結びとしたい。