調査研究

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2005.12.14
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大阪の部落史通信・37号(2005.11
 

クローズアップ

第一巻所収の別添絵図からわかること

大阪の部落史委員会事務局


 『大阪の部落史』第一巻は今年一月に刊行されました。考古/古代・中世/近世1の史料編ということで広い範囲をカバーしています。収録されている史料のなかから、絵図について触れてみたいと思います。

 この絵図は今回初めて公刊されることになりましたが、既に三〇年以上前に、朝尾直弘さん(京都大学名誉教授)がこの絵図を使って論文を書いておられます(『近世封建社会の基礎構造』御茶の水書房、一九六七年)。しかし、当時は絵図から歴史を読み取るという発想は、研究者に薄く、長く「知られてはいるが注目はされていない」という状況にありました。

 今回の刊行により、この絵図から「研究のヒント」がいくつも得られることとなり、部落史の発展に大きく寄与できるのではないかと思います。以下、この絵図がいかに重要な絵図であるかを簡単に述べたいと思います。



 この絵図は、延宝四(一六七六)年一一月に作られたものであることは、絵図の裏の更池村庄屋であった治兵衛らが署名している文章でわかります。

 この直後に行なわれた検地(延宝検地と呼んでいます)をスムーズに実施するために、村の土地所有関係などを絵図としてまとめておこうとしたのではないでしょうか。村の現状を絵図にしようとした時、利用されたのが文禄三(一五九四)年に実施された検地(秀吉によって行なわれ文禄検地といわれています)の際のデータでした。その時点で、一番基礎となるデータだったからです。

 具体的にみていきます。この絵図が作られる三年前に文禄検地帳が書き写されていますが、その際に耕地の区画ごとに番号が打たれています。その通し番号が、絵図に打たれた朱色の通し番号と一致します。そして検地帳には、<1>地字(申上とか)、<2>土地の種類と等級(上と書かれていると上田を意味します。畑の場合は上畠という表記になります。)、<3>耕地面積(二畝十歩とか)、<4>名請人(しみつ助左衛門=この場合は近村の清水村の助左衛門が更池村の土地を耕作しに来ているということを意味します。)が書かれているのですが、検地帳のこうしたデータが、絵図に墨で細かく書き込まれている文言と一致します。

 その結果、検地帳では数字としてしかわからないデータ(もちろん大切なデータですし表にしたりして整理分析されますが)が、どこに、誰が、どのように住み、土地を耕作していたのかを示す絵図として浮かんできます。



 そこからは、本村と皮多村の関係を単なる位置関係だけでなく読み解くことができます。例えば、絵図では屋敷地をピンクで表示していますが、皮多村と更池の百姓村とでは微妙に色合が異なっていますし、凡例でも区別しています。絵図の作成者が同じ屋敷地であっても「ちがったものである」と意識していたと考えられます。

 そして、その皮多の居住地が広がっていっていることもわかります。ピンクに塗られていて「屋敷地」を示しているはずなのに、そこに墨で書かれている文字は、「上(田)」「上畑」とあり、「耕地」であることを示している区画があります。これは、文禄の検地帳では田畑とされていた土地が、この絵図が作成された時点では屋敷地になってしまっているため、ピンクで塗られたと解釈できます。

 一番象徴的なのは、皮多の屋敷地を示すピンクで塗られながら「更池村与三兵衛」の名前で「上」と書かれている「一〇六番」です。「一〇六番」は、文禄検地時に百姓与三兵衛の耕地でしたが、今は皮多身分の屋敷地になっているということになります。絵図作成の翌年に作成された検地帳(既刊の『河内国更池文書』第三巻、八〇頁参照)には、この土地が皮多角右衛門ほか六名の屋敷と書かれています。このことから、この絵図が文禄のデータをもとにしながら、変化した現状をも描いていることがわかります。また、この皮多の屋敷地を示すピンクに塗られたブロックの上の方に、「かきそい」という地字がみえます。この地字は、皮多の居住地が突然、竹垣で囲まれたという元禄八(一六九五)年の話につながる素地が生まれていたことを連想させます。つまり、既に文禄のころに本村と皮多村の間に垣根が存在していたのではないかと思われます。広がる皮多村居住地を押し込める意図が、竹垣で囲む発想につながっていったのではないでしょうか。

 もう一つ絵図からわかる具体例をあげれば、南東隅にブルーに塗られた地域についてです。絵図の凡例では、この色は池・水道を表しますが、この区画には「上」「中」「下」と田地であると書き込まれています。つまり、文禄には耕地であったものがこの時点では池になっていることを示しています。そして、耕地が池になったのは延宝五年の「覚書」(『河内国更池村文書』第三巻、八四頁)の記載から慶長一三(一六〇八)年頃と推測できます。

 以上のようなことからわかるように、この絵図を他の文書と照らし合わせてみていくと文禄三(一五九四)年から延宝四(一六七六)年までの八〇余年にわたる村の景観の変化を知ることができます。



 最後に、部落史を考える上で重要なキーワードとなる「骨原」の地字についてふれます。

 文禄検地帳にはない「河田墓」「河田骨塚」がこの絵図にはあります。他の記載からして、この二つが文禄時点に既にあったと考えるのが自然でしょう。同様に、「骨原」という地字も文禄検地帳にはありませんが、絵図には四区画あります(うち二区画は皮多の所持ではありません)。この「骨塚」に隣接してつけられている「骨原」という地字は、皮多集落の耕地を示す地字であったと言えます。

 そのことを具体的に見てみます。絵図作成の一〇年前に皮多分の耕地・屋敷地だけを書き上げた帳面が作られています(寛文六〈一六六六〉年「河田村名寄帳」『河内国更池村文書』第三巻、三一頁参照)。これをみると、皮多の所持する「一〇六〜一五六番」の区画がすべて「骨原」と書かれています。「骨原」と書かれていないのは、虫食いで字が読めない区画を含めて四区画です。少なくとも、寛文六年の時点では、「骨原」=「皮多の耕地」であったと言えます。ちなみに、この帳面では先にあげた「一〇六番」は「ほねはら」にある「更池村与三兵衛」の耕地として書き上げられたうえで、「河田久右衛門・河田新右衛門の土地になった」という付箋が貼られています。そして、この「一〇六番」が絵図作成の翌年の検地帳には六名の皮多の居住地とあることは先に書いたとおりです。骨塚、骨原という言葉は、斃牛馬処理や皮革業を連想させますが、このように他の史料を参考にすると「骨原」の地字の広がりもわかります。

 こうして、この絵図からわかることに、他の文書史料を補っていくと、更池村のなかでの皮多身分の人びとの当時の生活を具体的に描く手がかりが得られていくと思います。右頁に第一巻収録の解読図を転載しましたが、別添しましたカラーの絵図をご覧下されば、書き述べてきましたことが、よりお解りいただけると思います。

 なお、絵図の解説の詳細については、第一巻の五五八〜五五三頁をご覧ください。