調査研究

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2005.12.14
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大阪の部落史通信・37号(2005.11
 

地域の取り組み

西郡部落史研究会の近況

森田康夫(樟蔭東女子短期大学名誉教授)



 東大阪市史編纂委員会が収集された武村家文書のなかに、多数の西郡村関係文書が含まれていることを大阪の部落史委員会の企画委員である北崎豊二氏からご教示をうけた。史料所蔵者である武村泰太郎氏・東大阪市史編纂委員会のご了解をいただき、大阪の部落史委員会から史料提供をうけることができた。この文書の解読を中心に二〇〇三年八月から八尾市人権西郡地区協議会(代表・森実)のご支援で西郡部落史研究会を立ち上げていただいた。以来、武村家文書の解読を軸に回を重ねること一三回の研究会をもつことができた。

 まずは私がすでに発表した「河州西郡村穢多共乱妨打毀一件」の紹介を皮切りとした。また「天保三年の穢多宗門人別帳の分析から」においては、家数一一九軒、人数五八〇人(男二八五人、女二九三人)、一戸当たり平均四・九人という家族構成が村の姿であることがわかった。さらにその内実を覗くと妻の死亡または未婚の男子が戸主の場合が一四軒、女性が戸主の場合が七軒、また夫婦関係で姉さん女房が九組、その平均結婚年齢は男二三歳、女二一歳であった。また同年度における婚姻圏は村内三例を筆頭に更池村二例、杉本新田一例、大和風根村一例がみられた。

 家族構成からみた特徴は親子同居家族の少なさ(四パーセント)で、にもかかわらず厄介人を抱える家が逆に一四軒を数えた。そのほかの特徴としては宗門改帳の筆頭者に儀兵衛などの三字以上の名前の者が五一人に対して、力蔵などの二字名前の者が六八名を数えた。これを本村などの一般村落と比べてどう分析するか、興味深い村の姿が浮かび上がってきた。

 これまで西郡では近世の村落事情はほとんどわからなかったが、武村家文書の解読で天保期を中心とした史料ではあるが、かなり鮮明に把握することができるようになった。

 研究会を始めると思わぬところから史料が出てきたり、研究に広がりをもつようになった。たとえば明治初年の土地台帳が行政のロッカーから出てきて近代西郡村の姿をとらえることができたり、明和七年(一七七〇)に上之島村の太鼓を張り替えた西郡村の重三郎の一札(大阪の部落史委員会収集文書)を発端にして、八尾市立歴史民俗資料館学芸員の小谷利明氏や大阪の部落史委員会委員の臼井寿光氏のご協力で、八尾慈願寺にある太鼓から天保七年(一八三六)に西郡村太鼓屋友新の花押や、周辺かわた村々で修理された記録が発見されるなど思わぬ展開がみられた。

 また研究会に先行して行なわれていた、解放運動が起こるまでの西郡村マップも完成され、それを手がかりに村の歴史散歩が実施されたり、西郡の代表的産業であった鼻緒作りを記録した八尾市合併当時の映像や、鼻緒の実演などもこの間に紹介された。このように研究会は地域ぐるみで取り上げていただいている。村の原点を確認することで、人権の町づくりを進める西郡の人々に歴史の真実を語りかけたいと思っている。

 今年四月に報告した「西郡村人別増減帳に見える村の状況」(天保三〜五年)は、天保飢饉のなかでの本村と対比した人口論的考察であった。この間のかわた村(東部)の動向はそれまでの別家による人口増加とはうって変わって、結婚どころではなくなり出産も抑制された。食扶持を減らすために養子に出したり、ゆとりある家に同家したり厄介になる人が増え、借銀のために身寄りを求めて住まいを移す生活防衛の行動が目立った。ちなみに天保三年(一八三二)と五年(一八三四)の東部と本村の出生死亡数の増減を比較すると、上表のようになる。

表 東部と本村の出生・死亡数

出生 死亡 増減
東部(天保3)
30
7
+23
本村(天保3)
4
3
+1
東部(天保5)
9
14
-5
本村(天保5)
12
6
+6

 天保五年の東部の人口減は平穏な年では考えられない数字であった。東部の出生率の高さを支えたのは別家による小家族制が背景にあり、それが災害年に停滞すると忽ち出生率は鈍化した。

 七月に報告した「西郡村田畑屋鋪字限反別仕訳帳から(天保六年)」で明らかになったことは、本村西郡村は大村(一八四九石四斗八升七合)でありながら戸数が少ない(一〇八軒)。それゆえに村内には綿作のために五〇石も保有する出作者もあるような出作率の極めて高い(三五・〇パーセント)不思議な村の構造であった。しかし東部(かわた高二一五石七斗五升)には二二石四斗三升五合の富農もあったが、五石以上の一五軒でかわた高の五五・五パーセントを占め、残りを六四軒の零細な貧農が耕作する村であった。かわた村は明らかに本村や出作者に労働力を提供する関係にあり、そため災害年に疲弊しやすい構造にあったということがいえる。

 九月五日には西郡村の本村を含めた宗門改帳から、地域の近世初頭の宗教事情を検討した。東部に限っても全員が京都万宣寺の旦那であることなどがわかっている。また一〇月一七日には若江城・西郡・萱振恵光寺を結ぶ中世末の原風景のなかで西郡を復原させる試みも行なった。

 このあとの西郡部落史研究会の大きな課題に、近世末以降の鼻緒産業の流通過程の解明がある。鼻緒作りに従事した方々から聞き取りを実施している。ぜひ履物関係に詳しい皆さんのご教示をお願いしたい。