ここでは、史料3を取り上げる。
摂津国渡辺村の利右衛門(二二歳)は、宝暦六(一七五六)年四月二八日、道頓堀千日において「獄門」に処せられた罪人・庄兵衛の首を、庄兵衛の主人である京町堀一丁目備前屋佐兵衛方へ持参、銭を脅し取った。利右衛門は六月一八日、佐兵衛方へ同行した同じ村の源兵衛(三〇歳)・半兵衛(二五歳)とともに逮捕される。取り調べの結果、利右衛門は「軽追放」、源兵衛・半兵衛は「摂河両国払」として、刑罰の伺いが大坂町奉行から大坂城代に出された。
一般に「軽追放」とは、江戸十里四方・京・大坂・東海道筋・日光・日光道中、それに居住している国(ここでは摂津国)と罪を犯した国(摂津国)に立ち寄ることができない追放刑をいう。また、「摂河両国払」は、摂津・河内の二国に立ち寄ることが禁止される。
さて、大坂城代は将軍に直属しており、大坂町奉行・堺町奉行を監督する立場にある。宝暦六年当時は、井上河内守正賢であった。たいていの場合、大坂町奉行からの伺いは、そのまま承認されるようだが、くつがえされるときがある。利右衛門の場合がそうだった。
裁決は、翌年六月一五日に言い渡され、利右衛門は「死罪」、源兵?衛・半兵衛は「遠島」となった。「仕置伺」と比べても、信じられない重罪に問われている。
おそらく、「役人村」として町奉行の下働きを担っていたことが、その背景にあるのだろう。この章を担当した藤原有和氏は、その「解説」で「見せしめのため重罰を科したと思われる」と記しているが、確かに「役人村」から派遣され、役人足を担う人びとに対する「見せしめ」としての効果をねらった措置であったと考えられる。
二 皮多村と農地の利用(担当 中尾健次)
ここでは、一連のつながった史料が多く、一点だけ選ぶことは容易ではない。つまり、数点の史料を通して分析する必要がある。
そうした中では、大和川の付替えによって新たに生まれた富田新田と、皮多村との関連が注目される。これに関する史料は、一三八〜一八三頁に掲載されている。史料数は一一点だが、そのうち六点が絵図であり、付替え後の複雑な土地利用と、皮多村の微妙な位置関係を再現しうる貴重な史料となっている。細かい紹介は、かなり紙数を要するので、今後の研究課題のみ記しておきたい。
「富田新田」は、新大和川の沿岸から北へ伸び、現在の大阪市東住吉区に位置する桑津まで続いている。また、面積は小さいが、大和川を越えた南にも「富田新田」の耕地がある。そうした広い範囲の「富田新田」の中に「皮多村」がある。延享元(一七四四)年の絵図(史料47)によれば、新大和川のすぐ北に「穢多村」の記載があり、家数四七軒・人数一三六人と記されている。さて、その土地所有の実態については、少し時間をかけて分析する必要がある。
史料46の絵図は、一七四〜一七九頁に掲載されているが、そこには「富田新田」の田畑一筆ごとに面積・石高・耕作者が記されている。この記載内容は、宝永五(一七〇八)年に作成され、その後の移動に伴って貼紙がなされた「富田新田検地帳写」の、貼紙の表記と多くが一致している。残念ながら、この「検地帳写」は、紙数の関係で「補遺編」に掲載の予定であるため、くわしい分析は「補遺編」の発刊を待って行なわなければならないが、これと「えた」表記のある「城連寺村御田地名前切替連判帳」(史料45)を比較検討すれば、「皮多村」の土地所有の実態が明らかになる。しかし、実際の作業は、「補遺編」の刊行を待ちたいと思う。
三 皮多村と旦那場制(担当 中尾健次)
ここでは史料72を取り上げよう。
これは、享保五(一七二〇)年七月の史料で、死牛馬の取り扱いについての江戸表の見解を、五条役所が大和国・摂津国の村々へ順達したものである。そこには、死牛馬が出た場合、村内の草むらや河原に捨てるのはともかく、埋めたり川へ流したりしてはいけないこと、また百姓の身分で皮を?いではいけないことが明記されている。さらに、捨てた後は「えた」が勝手に処理するものと心得よ、とも記されている。
江戸表へ伺ったところ、こういう回答があったというもので、一般論として幕府の方針を聞いたものか、何か事例があって、その正否を問いただしたものか、伺いの内容はわからない。たとえば、百姓が死牛馬の皮を?いだりした事例がもしあったとすれば、じつに興味深いのだが、はっきりしないのである。
ただ、享保五年段階の幕府の方針として、皮?などの死牛馬処理は、百姓がするのでなく「えた」がするものだ、という基本理念のあったことがわかる。死牛馬処理は、ケガレ意識を背景に、社会的分業によって成立したと考えられるが、その分業を固定するために政治権力の果たした役割も、けっして小さくはないということなのだろう。
四 皮革業の発展(担当 中尾健次)
ここでは、史料96を取り上げる。
天明三(一七八三)年九月、渡辺村の太鼓屋金兵衛が発行した、太鼓の三〇年間保証書である。宛先は、摂津国嶋下郡内瀬村であり、寺院の太鼓を張り替えたものである。保証書には、「この度、あなたの村の太鼓を修理いたしましたが、三〇年間保証いたしますこと、まちがいございません。この上は、この年季の間に破れた場合は、(無償で)張り替えます。ただし、相応でないバチで叩いたり、(無理に)突き破ったりした場合は、この限りではありません」と記されている。
「太鼓づくりは皮づくり」といわれ、まずキズのない皮を見つけることが先決とされる。渡辺村には、年間一〇万枚を越える牛馬皮が集められ、結果的に太鼓皮に適した皮を見つけることが可能であった。また、キズのない皮で、いろんな大きさの皮を型に張り、それを一〜二年寝かせておく「仮張り工法」によって、いつでも注文に応じられる方法を編み出し、全国的な太鼓づくりの中心地となった。この三〇年間の保証書には、そうした技術に裏打ちされた自信と誇りが息づいている。
五 皮多村の生活と周辺(担当 寺木伸明)
ここでは、史料122と123を取り上げよう。
史料122は、明和三(一七六六)年九月の史料で、岸和田藩の郡代から和泉国南郡福田村の庄屋へ、取り調べの依頼があった。島村皮多村の甚兵衛という人物が、岸和田藩の城内で商いをしているが、その由来を取り調べよ、というのである。こうした例は、島村では甚兵衛一人だけで、その由来について島村の庄屋・藤九郎もわからない。甚兵衛の親権者に当たる権兵衛に聞いたところ、次のような話がわかった。古くは岸和田城に(誰彼となく)入っていたが、何か不都合があって、出入り差し止めとなった、しかし、一人も入らないというのは、差し障りがあるため、甚兵衛が一人、城内へ入ることになったという。
島村は、掃除役や仕置下役(番人など)、岸和田城の役儀を務めている。しかし、商いのため城内に入る者が一人いるというのは興味深い。問題は商いの中身だが、これについては「御城中へ商ニ参候」とあるだけで、詳細は不明である。
史料123は、翌明和四(一七六七)年九月の史料で、当の甚兵衛に「不埒な行ない」があったとして、出入り差し止めとなるべきところ、今回に限り許すというものである。「不埒之義」が「数度」に及んだというが、どんな内容か具体的にはわからない。ただ、この史料には、「御城中細工仕」とあり、商いの内容が、何かの細工であるらしいことがわかる。考えられるのは、雪踏や履き物の修理とか皮革製品の修理だが、前者の可能性が高いだろう。「一人も行かないのは差し障りがある」というのは、日常的に必要とされ、しかもいちいち城下へ出るわけにもいかないからだろうし、甚兵衛が城内で「直し」の仕事などをしていたことは、十分に考えられる。
ただ、明和六(一七六九)年には、甚兵衛の後継者と思われる甚七が、不埒な行ないがあったとして、ついに出入り差し止めとなっている(史料124)。この甚七は、これ以後も再度城中に入り込んだとして罪に問われ、明和七(一七七〇)年には、島村の牢に入れられている(史料125・126)。
六 信仰と寺院(担当 左右田昌幸)
ここでは史料155を取り上げよう。
天明三(一七八三)年二月の史料で、その前年に本願寺で「御凶事」があり、入用金が必要になったとして、冥加金を求めてきた。渡辺村の正宣寺では、門徒から一五〇両を徴収し、本願寺へ上納している。その返礼として、二〇〇枚入りの「松風」(お菓子の名前)一箱が‡下された‡=B史料には、同じ渡辺村の徳浄寺へは「松風」五〇〇枚を‡下して‡≠「るが、正宣寺には二〇〇枚でいいだろう、などと記されている。
正宣寺と徳浄寺とを競わせ、冥加金をつり上げようとしているのか、その背景ははっきりしないが、二〇〇両のお返しに「松風」二〇〇枚入り一箱とは、何ともセコイ話である。
七 四ヶ所長吏制の展開と非人番統制(担当 臼井寿光)
ここで興味深いのは、悲田院長吏・善十郎の死後、その相続をめぐる出入りに関する史料である。これは、明和六(一七六九)年七月から寛政八(一七九六)年二月にかけての史料九点で、善十郎の後に長吏となった養子の善助と、善十郎の後家さきとの間で、遺産相続をめぐる争論に発展し、その決着までが記されている。
これについては、高久智広氏が「近世後期天王寺長吏林家における相続をめぐって」(『部落解放研究』一六八号、二〇〇六年二月)と題する論文を発表しているので、ご参照いただきたい。
八 三昧聖と東大寺龍松院(担当 森田康夫)
ここでは、史料254を取り上げよう。
宝永三(一七〇六)年二月、平野郷町の市町に居住する三昧聖の宗意が、郷町年寄に訴えたもので、その内容は、「近年、宗旨五人組帳で自分が別紙となり、『非人穢多と一所』になっているのは、はなはだ迷惑なので、先年の通り町人並みに取り扱っていただきたい」というものである。町年寄はその訴えを、六万寺村御役所へ提出しており、宗意の意向を反映するよう願い出ているが、その書き上げには、元禄六(一六九三)年までは町並みであったと記されている。
この時期、「えた・非人」は宗旨改帳等で別帳にしていく地域が多く、その際、三昧聖をそれに準じて別帳としたものであろう。三昧聖・宗意は、東大寺龍松院から回状を受けるなど、行基以来の由緒があることを反論の根拠にしており、それなのに「えた・非人」といっしょにされては、はなはだ迷惑という論理を展開している。当時の差別構造の実態をものがたる事例である。
九 多様な被差別民の分岐(担当 臼井寿光)
この章にも興味深い史料が散りばめられているが、多様な被差別民の概況を示した史料が268・269・270である。
史料268は、享保一九(一七一九)年段階での堺の被差別民を書き上げたもので、えた村が四七軒(二八六人)・四ヶ所非人が三五六人、他に比丘尼一九四人・鉢坊主一二七人・願人坊主二人などが挙げられている。
これなど、すでに知られている史料と比較することで、その変化を追うことができる。たとえば森杉夫著『近世部落の諸問題』(堺市教育委員会、一九七五年)には、元禄一四(一七〇一)年の「和泉国大鳥郡諸色覚書」が掲載されているが、そこにはえた村四八軒(二一六人)と記されている。また、同書に掲載されている延享四(一七四七)年の「御手鑑」には、えた村八九軒(四二五人)・四ヶ所非人三一二人とある。えた村の人口増が急なのに対して、非人は停滞しているらしいことがわかる。
史料269は、寛延三(一七五〇)年段階での大坂市中の被差別民の人数を書き上げたもので、熊野比丘尼四八人・陰陽師三〇人・えた村三一五八人・鞍馬願人二〇八人・長吏(非人)一二〇〇人程と記されている。これも同様に、その他の史料と比較することで、変化を追うことができるし、たとえば堺の数値と比較すれば、地域ごとの特徴、共通点・相違点を見出すこともできるだろう。
ちなみに、史料270には、平野郷町の人数・家数が書き上げられている。
おわりに
「近世2」は、「近世1」に比べれば史料数も多く、かといって「近世3」のように、膨大というわけでもない。ある意味、一番作業しやすい巻を担当させていただいたともいえる。とはいえ、筆者が楽をさせていただいたのは、崎谷裕樹氏をはじめとする事務局の尽力に負うところが大きい。心より感謝したい。
また、掲載史料の文書別一覧は、巻末の四八〇〜四八一頁を参照していただきたいが、今回も「近世1」同様、近世中期においても、相当量の史料を収集・掲載することができた。これもひとえに史料所蔵者・関係機関のご協力の賜物で、厚く感謝申し上げる次第である。