調査研究

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2006.04.06
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大阪の部落史通信・38号(2006.03
 

『大阪の部落史』第二巻の刊行によせて

中尾健次(大阪教育大学教授)

はじめに

  「近世2」は、宝永元(一七〇四)年から寛政一二(一八〇〇)年までを対象とする。全国的に見るならば、近世社会の充実期であり、一方では早くも崩壊の兆候が見られる時代である。「大阪の部落史」に限定すれば、杉本新田や富田新田の成立につながる大和川の付替え工事がまさに宝永元年であり、渡辺村の木津村への移転完了が宝永三(一七〇六)年である。「近世2」はそこからスタートしている。

  掲載した史料は、「近世1」と同様、初出の史料に限定し、さらに精選して二八七点を選んだ。頁数の関係で割愛した史料が多いのは残念だが、「補遺編」でかなりの史料が復活することを期待している。

  本巻は、九つの章から成っており、各章の判読や解説の執筆は、それぞれの担当者が行なった。各章の担当者については、順次紹介するのでご参照願いたい。

  なお、編集の実務や連絡・調整など全体的な編集作業は、大阪の部落史委員会事務局の崎谷裕樹氏が担当した。また、校正その他の仕事を、事務局の横山芳子氏、渡辺俊雄氏が担当した。事務局のこうした働きがなければ、本巻の完成はなかった。

  以下、「近世2」で掲載された史料の中から、筆者が独断で選んだものを、章ごとに紹介していきたい。

第二編(近世中期の被差別民)

一 支配と規制(担当 藤原有和)

  ここでは、史料3を取り上げる。

  摂津国渡辺村の利右衛門(二二歳)は、宝暦六(一七五六)年四月二八日、道頓堀千日において「獄門」に処せられた罪人・庄兵衛の首を、庄兵衛の主人である京町堀一丁目備前屋佐兵衛方へ持参、銭を脅し取った。利右衛門は六月一八日、佐兵衛方へ同行した同じ村の源兵衛(三〇歳)・半兵衛(二五歳)とともに逮捕される。取り調べの結果、利右衛門は「軽追放」、源兵衛・半兵衛は「摂河両国払」として、刑罰の伺いが大坂町奉行から大坂城代に出された。

  一般に「軽追放」とは、江戸十里四方・京・大坂・東海道筋・日光・日光道中、それに居住している国(ここでは摂津国)と罪を犯した国(摂津国)に立ち寄ることができない追放刑をいう。また、「摂河両国払」は、摂津・河内の二国に立ち寄ることが禁止される。

  さて、大坂城代は将軍に直属しており、大坂町奉行・堺町奉行を監督する立場にある。宝暦六年当時は、井上河内守正賢であった。たいていの場合、大坂町奉行からの伺いは、そのまま承認されるようだが、くつがえされるときがある。利右衛門の場合がそうだった。

  裁決は、翌年六月一五日に言い渡され、利右衛門は「死罪」、源兵?衛・半兵衛は「遠島」となった。「仕置伺」と比べても、信じられない重罪に問われている。

  おそらく、「役人村」として町奉行の下働きを担っていたことが、その背景にあるのだろう。この章を担当した藤原有和氏は、その「解説」で「見せしめのため重罰を科したと思われる」と記しているが、確かに「役人村」から派遣され、役人足を担う人びとに対する「見せしめ」としての効果をねらった措置であったと考えられる。

二 皮多村と農地の利用(担当 中尾健次)

  ここでは、一連のつながった史料が多く、一点だけ選ぶことは容易ではない。つまり、数点の史料を通して分析する必要がある。

  そうした中では、大和川の付替えによって新たに生まれた富田新田と、皮多村との関連が注目される。これに関する史料は、一三八〜一八三頁に掲載されている。史料数は一一点だが、そのうち六点が絵図であり、付替え後の複雑な土地利用と、皮多村の微妙な位置関係を再現しうる貴重な史料となっている。細かい紹介は、かなり紙数を要するので、今後の研究課題のみ記しておきたい。

  「富田新田」は、新大和川の沿岸から北へ伸び、現在の大阪市東住吉区に位置する桑津まで続いている。また、面積は小さいが、大和川を越えた南にも「富田新田」の耕地がある。そうした広い範囲の「富田新田」の中に「皮多村」がある。延享元(一七四四)年の絵図(史料47)によれば、新大和川のすぐ北に「穢多村」の記載があり、家数四七軒・人数一三六人と記されている。さて、その土地所有の実態については、少し時間をかけて分析する必要がある。

  史料46の絵図は、一七四〜一七九頁に掲載されているが、そこには「富田新田」の田畑一筆ごとに面積・石高・耕作者が記されている。この記載内容は、宝永五(一七〇八)年に作成され、その後の移動に伴って貼紙がなされた「富田新田検地帳写」の、貼紙の表記と多くが一致している。残念ながら、この「検地帳写」は、紙数の関係で「補遺編」に掲載の予定であるため、くわしい分析は「補遺編」の発刊を待って行なわなければならないが、これと「えた」表記のある「城連寺村御田地名前切替連判帳」(史料45)を比較検討すれば、「皮多村」の土地所有の実態が明らかになる。しかし、実際の作業は、「補遺編」の刊行を待ちたいと思う。

三 皮多村と旦那場制(担当 中尾健次)

  ここでは史料72を取り上げよう。

  これは、享保五(一七二〇)年七月の史料で、死牛馬の取り扱いについての江戸表の見解を、五条役所が大和国・摂津国の村々へ順達したものである。そこには、死牛馬が出た場合、村内の草むらや河原に捨てるのはともかく、埋めたり川へ流したりしてはいけないこと、また百姓の身分で皮を?いではいけないことが明記されている。さらに、捨てた後は「えた」が勝手に処理するものと心得よ、とも記されている。

  江戸表へ伺ったところ、こういう回答があったというもので、一般論として幕府の方針を聞いたものか、何か事例があって、その正否を問いただしたものか、伺いの内容はわからない。たとえば、百姓が死牛馬の皮を?いだりした事例がもしあったとすれば、じつに興味深いのだが、はっきりしないのである。

  ただ、享保五年段階の幕府の方針として、皮?などの死牛馬処理は、百姓がするのでなく「えた」がするものだ、という基本理念のあったことがわかる。死牛馬処理は、ケガレ意識を背景に、社会的分業によって成立したと考えられるが、その分業を固定するために政治権力の果たした役割も、けっして小さくはないということなのだろう。

四 皮革業の発展(担当 中尾健次)

  ここでは、史料96を取り上げる。

  天明三(一七八三)年九月、渡辺村の太鼓屋金兵衛が発行した、太鼓の三〇年間保証書である。宛先は、摂津国嶋下郡内瀬村であり、寺院の太鼓を張り替えたものである。保証書には、「この度、あなたの村の太鼓を修理いたしましたが、三〇年間保証いたしますこと、まちがいございません。この上は、この年季の間に破れた場合は、(無償で)張り替えます。ただし、相応でないバチで叩いたり、(無理に)突き破ったりした場合は、この限りではありません」と記されている。

  「太鼓づくりは皮づくり」といわれ、まずキズのない皮を見つけることが先決とされる。渡辺村には、年間一〇万枚を越える牛馬皮が集められ、結果的に太鼓皮に適した皮を見つけることが可能であった。また、キズのない皮で、いろんな大きさの皮を型に張り、それを一〜二年寝かせておく「仮張り工法」によって、いつでも注文に応じられる方法を編み出し、全国的な太鼓づくりの中心地となった。この三〇年間の保証書には、そうした技術に裏打ちされた自信と誇りが息づいている。

五 皮多村の生活と周辺(担当 寺木伸明)

  ここでは、史料122と123を取り上げよう。

  史料122は、明和三(一七六六)年九月の史料で、岸和田藩の郡代から和泉国南郡福田村の庄屋へ、取り調べの依頼があった。島村皮多村の甚兵衛という人物が、岸和田藩の城内で商いをしているが、その由来を取り調べよ、というのである。こうした例は、島村では甚兵衛一人だけで、その由来について島村の庄屋・藤九郎もわからない。甚兵衛の親権者に当たる権兵衛に聞いたところ、次のような話がわかった。古くは岸和田城に(誰彼となく)入っていたが、何か不都合があって、出入り差し止めとなった、しかし、一人も入らないというのは、差し障りがあるため、甚兵衛が一人、城内へ入ることになったという。

  島村は、掃除役や仕置下役(番人など)、岸和田城の役儀を務めている。しかし、商いのため城内に入る者が一人いるというのは興味深い。問題は商いの中身だが、これについては「御城中へ商ニ参候」とあるだけで、詳細は不明である。

  史料123は、翌明和四(一七六七)年九月の史料で、当の甚兵衛に「不埒な行ない」があったとして、出入り差し止めとなるべきところ、今回に限り許すというものである。「不埒之義」が「数度」に及んだというが、どんな内容か具体的にはわからない。ただ、この史料には、「御城中細工仕」とあり、商いの内容が、何かの細工であるらしいことがわかる。考えられるのは、雪踏や履き物の修理とか皮革製品の修理だが、前者の可能性が高いだろう。「一人も行かないのは差し障りがある」というのは、日常的に必要とされ、しかもいちいち城下へ出るわけにもいかないからだろうし、甚兵衛が城内で「直し」の仕事などをしていたことは、十分に考えられる。

  ただ、明和六(一七六九)年には、甚兵衛の後継者と思われる甚七が、不埒な行ないがあったとして、ついに出入り差し止めとなっている(史料124)。この甚七は、これ以後も再度城中に入り込んだとして罪に問われ、明和七(一七七〇)年には、島村の牢に入れられている(史料125・126)。

六 信仰と寺院(担当 左右田昌幸)

  ここでは史料155を取り上げよう。

  天明三(一七八三)年二月の史料で、その前年に本願寺で「御凶事」があり、入用金が必要になったとして、冥加金を求めてきた。渡辺村の正宣寺では、門徒から一五〇両を徴収し、本願寺へ上納している。その返礼として、二〇〇枚入りの「松風」(お菓子の名前)一箱が‡€下された‡=B史料には、同じ渡辺村の徳浄寺へは「松風」五〇〇枚を‡€下して‡≠「るが、正宣寺には二〇〇枚でいいだろう、などと記されている。

  正宣寺と徳浄寺とを競わせ、冥加金をつり上げようとしているのか、その背景ははっきりしないが、二〇〇両のお返しに「松風」二〇〇枚入り一箱とは、何ともセコイ話である。

七 四ヶ所長吏制の展開と非人番統制(担当 臼井寿光)

  ここで興味深いのは、悲田院長吏・善十郎の死後、その相続をめぐる出入りに関する史料である。これは、明和六(一七六九)年七月から寛政八(一七九六)年二月にかけての史料九点で、善十郎の後に長吏となった養子の善助と、善十郎の後家さきとの間で、遺産相続をめぐる争論に発展し、その決着までが記されている。

  これについては、高久智広氏が「近世後期天王寺長吏林家における相続をめぐって」(『部落解放研究』一六八号、二〇〇六年二月)と題する論文を発表しているので、ご参照いただきたい。

八 三昧聖と東大寺龍松院(担当 森田康夫)

  ここでは、史料254を取り上げよう。

  宝永三(一七〇六)年二月、平野郷町の市町に居住する三昧聖の宗意が、郷町年寄に訴えたもので、その内容は、「近年、宗旨五人組帳で自分が別紙となり、『非人穢多と一所』になっているのは、はなはだ迷惑なので、先年の通り町人並みに取り扱っていただきたい」というものである。町年寄はその訴えを、六万寺村御役所へ提出しており、宗意の意向を反映するよう願い出ているが、その書き上げには、元禄六(一六九三)年までは町並みであったと記されている。

  この時期、「えた・非人」は宗旨改帳等で別帳にしていく地域が多く、その際、三昧聖をそれに準じて別帳としたものであろう。三昧聖・宗意は、東大寺龍松院から回状を受けるなど、行基以来の由緒があることを反論の根拠にしており、それなのに「えた・非人」といっしょにされては、はなはだ迷惑という論理を展開している。当時の差別構造の実態をものがたる事例である。

九 多様な被差別民の分岐(担当 臼井寿光)

  この章にも興味深い史料が散りばめられているが、多様な被差別民の概況を示した史料が268・269・270である。

  史料268は、享保一九(一七一九)年段階での堺の被差別民を書き上げたもので、えた村が四七軒(二八六人)・四ヶ所非人が三五六人、他に比丘尼一九四人・鉢坊主一二七人・願人坊主二人などが挙げられている。

  これなど、すでに知られている史料と比較することで、その変化を追うことができる。たとえば森杉夫著『近世部落の諸問題』(堺市教育委員会、一九七五年)には、元禄一四(一七〇一)年の「和泉国大鳥郡諸色覚書」が掲載されているが、そこにはえた村四八軒(二一六人)と記されている。また、同書に掲載されている延享四(一七四七)年の「御手鑑」には、えた村八九軒(四二五人)・四ヶ所非人三一二人とある。えた村の人口増が急なのに対して、非人は停滞しているらしいことがわかる。

  史料269は、寛延三(一七五〇)年段階での大坂市中の被差別民の人数を書き上げたもので、熊野比丘尼四八人・陰陽師三〇人・えた村三一五八人・鞍馬願人二〇八人・長吏(非人)一二〇〇人程と記されている。これも同様に、その他の史料と比較することで、変化を追うことができるし、たとえば堺の数値と比較すれば、地域ごとの特徴、共通点・相違点を見出すこともできるだろう。

  ちなみに、史料270には、平野郷町の人数・家数が書き上げられている。

おわりに

  「近世2」は、「近世1」に比べれば史料数も多く、かといって「近世3」のように、膨大というわけでもない。ある意味、一番作業しやすい巻を担当させていただいたともいえる。とはいえ、筆者が楽をさせていただいたのは、崎谷裕樹氏をはじめとする事務局の尽力に負うところが大きい。心より感謝したい。

  また、掲載史料の文書別一覧は、巻末の四八〇〜四八一頁を参照していただきたいが、今回も「近世1」同様、近世中期においても、相当量の史料を収集・掲載することができた。これもひとえに史料所蔵者・関係機関のご協力の賜物で、厚く感謝申し上げる次第である。

大阪の部落史 第一巻・第二巻 正誤表

  二〇〇五年度は、第八回配本として『大阪の部落史』第二巻(史料編 近世2)を刊行いたした。正誤表(第一巻含む)を掲載させていただきますので、第二巻のご利用に際してご参照いただければ幸いです。

(事務局)

『大阪の部落史』第一巻 正誤

細目次XXX 4行目 郡野々村 日根郡野々村
本文477頁 上段11行目 東坂田善兵衛殿 東坂田善兵衛殿
本文477頁 下段1行目 郡野々村 日根郡野々村
本文478頁 上段4行目
本文529頁 下段10行目 尻(遠)

  

『大阪の部落史』第二巻 正誤

細目次XúE 2行目 224 223
細目次XXX 10行目 盗品疑いの 盗品疑いの
細目次XXX 13行目 460 466
本文280頁 上段(編者注―) 史料6 史料114
本文290頁 上段(編者注―) 史料17・18 史料125・126
本文308頁 上段(編者注―) 史料41 史料149
本文386頁 下段5行目 …の小建てを …の小建てを
巻末482頁 14段目 長吏制の発展 長吏制の展開