調査研究

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2006.04.06
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大阪の部落史通信・38号(2006.03
 

世界考古学会議中間会議大阪大会2006参加記

別所 秀高(財団法人東大阪市文化財協会)
松井 章(奈良文化財研究所)

  去る一月一二日〜一五日に大阪歴史博物館にて「世界考古学会議中間会議大阪大会2006」が開催された。統一テーマは「共生の考古学―過去との対話、遺産の継承」である。大規模な考古学の国際会議が日本国内で開かれるのは非常に稀なことだ。われわれは本大会の中で「部落史」に関する研究発表セッションを立ち上げた。本稿ではわれわれが組織した「部落史」セッションを中心に大会の様子をレポートする。

  本セッションの正式名称は「考古学から探る疎外、差別、身分―動物利用を中心に(Alienation, discrimination and social position in historical archaeology: a history of animal utilization by a discriminated people)」である。主に考古遺跡の事例から被差別民の活動および被差別部落の起源や変容を追究することを目的とした。

  承知の通り、近年、考古遺跡では被差別民との関わりから牛馬解体遺構や職能集団の集落が注目されるようになった。当初、セッションの趣旨に快く賛同いただき、発表の意思表示をしてくれたのは積山洋氏(財団法人大阪市文化財協会)と前川浩一氏(貝塚市教育委員会)である。さっそく、大会のホームページ上で発表者を募ったが、全く反応がない。実はこのような研究テーマは考古学の中でもまだまだ認知されていないことを思い知らされた。焦りつつも一二月になって、塩卓悟氏(関西大学)、パトリック・スキナー氏(ケンブリッジ大学・英国)から発表の申し出があった。独立したセッションとしては充分な内容とは言い難いが、とりあえず体裁を整えることができた。

  セッションの発表日は一五日午前であった。大会最終日ということもあり、家路につく人が多い中、約四〇名の聴衆があった。発表演題は以下の通りで、各自一八分の持ち時間が与えられた。発表言語はすべて英語である。

松井 章「斃牛馬をめぐる生産活動」
積山 洋「日本古代における牛馬観の変化」
別所秀高「大阪府西ノ辻遺跡にみられた中世供御人の多様な活動」
前川浩一「東遺跡の中世集落―動物を扱う集団の存在」
塩 卓悟「唐宋代中国における肉食禁忌と社会階層」
パトリック・スキナー「中世ブリテンにおける差別のよりよい解釈:動物の行動を題材に」



  松井は、考古学的な調査成果から平城京や平安京では、生活排水による汚濁が著しい京域南辺に斃牛馬処理工房が存在していたが、一〇世紀になると埋め立てられて宅地化し、そうした工人たちが鴨川のほとりに移住し、河原者と呼ばれるようになったことを指摘した。また、脳漿鞣しのための脳髄を取り出した馬の頭蓋が、五世紀の新羅の首都・慶州、七世紀の森の宮遺跡、八世紀の城山遺跡に出土例があり、これまで『日本書紀』仁賢紀にみえる、高句麗から新しい皮鞣しの技法を伝えた工人が、脳漿鞣しを伝え、その子孫らが奈良時代に「額田邑熟皮高麗(かわおしのこま)」として皮鞣しを行なっていたとされるが、新羅からも脳漿鞣しが伝播した可能性を示唆した。一方、斃牛馬処理や皮鞣しは必然的に水や空気の汚染を引き起こすことから、このような場所やそこで働く人びとがケガレと結びつけられるようになり、やがて差別が増長し、身分制の中で支配機構に組み込まれたと主張した。

  積山氏は、『日本書紀』などの文献史料を援用しつつ、遺跡の実例を検討し、古墳時代には威信財であった牛馬が、七世紀から役畜化が進むとともに、律令祭祀や農耕祭祀に用いられるようになること、律令制が変容する一〇世紀には平安京から死牛馬が排除されたことを明らかにした。『延喜式』「臨時祭鴨四至外条」にみられる屠者の排除は、九世紀後半以降、平安京の農耕祭祀が、王権に直結する神泉苑での祈雨祭祀によって代表されたことと表裏の関係にあり、王権=天皇と屠者、つまり聖と賤の二極対立の具現化であることを指摘した。

  別所は、中世の『水走文書』と西ノ辻遺跡でみつかった牛馬処理遺構や漁網錘などの考古学的な資料から、中世西ノ辻の住人が多様な職能集団としての供御人であったことを明らかにした。また、供御人は天皇家から庇護を受けた排他的な特権集団であり、さまざまな生業活動を通じて天皇家の経済を支えていたことを指摘した。また、供御人の経済的な優位性が「被差別民」の起源のひとつであること主張した。近年、中・近世の職能民に関係する遺跡が注目されているが、さらなる文献史料との対比や他遺跡の例での検証が必要となるだろう。

  前川氏は、江戸時代の皮多村であり、かつて「嶋村」と呼ばれていた地域にある貝塚市東遺跡の調査成果について報告した。東遺跡では牛馬骨を多数廃棄した一五世紀の土坑がみつかっていること、同時期の輸入磁器が周辺の遺跡に比べて多数出土していることが指摘された。近世の皮多村の起源が室町時代中頃にまで遡る可能性があるという点が注目される。同遺跡で出土した牛馬骨は保存状態が悪いという点については、日本独特の酸性土壌によって、埋没過程で化学的に風化していったことが補足説明された。日本国内のほとんどの遺跡について言えることであり、とくに出土した動物骨の多寡の扱いについては注意することが必要である。

  塩氏は中国の文献史料を手掛かりに、唐宋代では食する動物の種類によって社会的階層分化があることを指摘した。つまり、上層階級は羊肉、中層階級は豚・鶏肉、下層階級は犬・牛・蛙・蛇肉に分化していたことを報告し、とくに下層階級の犬・牛・蛙・蛇肉食に対する差別的な表現があることを指摘した。また、魏晋南北朝時代以降、屠者に対する否定的な表現があらわれたことにも触れた。このような食肉種の階層分化や屠者への卑賤観は、自己(上層階級)の食肉観を絶対的なものとする排他的な思想、当時の支配的な仏教思想にもとづく殺生禁忌に起因することを主張した。質疑にもあったように、食肉種による階層分化を裏付ける考古学的な事例については未確認とのことであるが、考古学研究者は、今後このような視点にも注意を払う必要があるだろう。

  スキナー氏の発表は、中世ブリテンの家畜、とくに犬やその飼い主が排除されていく過程について、当時の法律や条例を引き合いに出し、その背景となる社会的および政治的な思考から追究したものである。人工交配によって生産された犬の種類(例えば、シェパード犬、コリー犬、ダックスフンドなど)や役割(例えば狩猟用、羊牧用、愛玩具など)に対する人間のふるまいの差異を明らかにしているが、このことが考古学の遺跡にいかに反映されるのかということが今後の課題となるだろう。どちらかと言えば、「疎外」に焦点を絞った研究である。考古学的な資料に依拠せず、人間の思考をより重視した研究手法は、日本考古学ではこれまで馴染みがなく、やや難解に感じた。

  セッションの最後に聴衆を含めたディスカッションの時間を設けていたが、各自の発表時間を延長してしまったために、充分な時間をとることができなかった。ただ、聴衆の一人であった縄文研究者のサイモン・ケーナー氏(セインズベリー日本藝術研究所・英国)からは、同一地域で等質にみえる相互の遺跡から社会的な差別を明らかにするには従来の日本考古学の研究法では不充分で、その理論的枠組みを構築するためには、文献史学や民俗学、社会学を援用すべきだとのコメントを頂戴した。なるほど、氏はたびたび日本を訪れているだけあって、日本考古学の事情をよくご存じのようだ。別所や松井、積山氏、前川氏の発表では、考古学的な資料だけではなく、文献史料や絵画資料を多分に援用したはずではあるが、外国人に日本の歴史的な被差別民を理解してもらうことは容易でないようだ。

  とはいうものの、発表だけではなく、大会の発表要旨集を通じて、考古学的な被差別民研究や東アジアの歴史的賤民観を世界に向けてアピールすることができたと思う。今後、一人でも多くの考古学研究者が被差別民研究に関心をもってくれること、さらに海を渡って発表してくれることを切に願う。蛇足ではあるが、考古学ではその出土遺物の華美さ故に、歴史的な権力者を対象にした研究が社会的に注目されている。積山氏が言うように「聖」と「賤」が対極にあり、それらが同時に進行してきた歴史を忘れてはならない。