調査研究

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2006.04.06
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大阪の部落史通信・38号(2006.03
 

書評と紹介

「浪速部落の歴史」編纂委員会編
『史料集 浪速部落の歴史』

(A5判・883ページ、「浪速部落の歴史」編纂委員会刊、15,000円+税、2005年3月刊)

藤井 寿一(社団法人和歌山人権研究所研究員)



  府県レベルの部落史編さん事業の一環として発行された前近代の史料集としては、古くは『兵庫県同和教育関係史料集』全三巻や『三重県部落史料集』(前近代篇)、『徳島県部落史関係資料集』全三巻などがある。近年では、『京都の部落史』が全一〇巻のうち前近代の史料編に三巻を充てて完結しており、現在刊行中の『大阪の部落史』も全一〇巻のなかで前近代の史料編は三巻を占めることになるようである(それぞれ補遺巻を除く)。

  一方、大阪府内では部落に残る膨大な前近代史料を編さんした『奥田家文書』全一五巻や『河内国更池村文書』全三巻などの刊行とともに、部落解放同盟の各支部を単位として個別の被差別部落の歴史が掘り起こされてきた。そのような動向のなかで、泉佐野市の『樫井部落文書』のように前近代の史料集を産み出した事例もある。

  今回刊行された『史料集 浪速部落の歴史』は、近世期には役人村とも呼ばれた、摂津国西成郡木津村領内の渡辺村にかかわる史料を集成したものである。本書の「刊行にあたって」によれば、「今なお残る部落差別に対する、啓発のための冊子づくりを計画し」て単行本を編集する過程で、新出の史料がつぎつぎと発掘されたことが史料集を編さんする契機になったという。

  『大阪の部落史』の編さん事業と並行するかたちでこのような史料集が上梓されたことは、二一世紀にふさわしい浪速部落に即した人権文化を創造する基礎となり、個別地域史の研究を深化させるものとして、たいへん喜ばしい。

  以下、<1>「木津村文書」、<2>「柏原村枝郷岩崎方茂市郎家文書」、<3>「高田家文書」、<4>「大坂革座取組銀談日記」、<5>「本願寺史料」、<6>「太鼓胴銘文」、<7>「圓光寺関係文書」、<8>「正宣寺関係文書」の八項目に分けて編集されて本書に収録された史料のうち、<1>・<2>・<4>・<5>の概要を紹介するとともに、気づいた点を若干述べてみよう。

II

<1> 元禄一四年(一七〇一)に木津村領に強制移転させられてからの渡辺村は、木津村の支配をも受けるようになる。その木津村の文書を掲載したのが<1>である。年代的には移転が始まった元禄一四年から文久元年(一八六一)まで、一二〇ページ分・八六点の史料が収録されている。

   なかでも、寛保二年(一七四二)に起きた渡辺・木津両村民の喧嘩・口論の一件は詳細である。渡辺村と同じく「皮田」身分の者で構成される摂津国川辺郡火打村の住民が、百姓身分の木津村民に打擲されたことが対立の原因となっていることや、この時期の渡辺村では「役人村惣代」九人が連署した一札を「月行司年寄」の三人が奥書していることなど、重要な事項が読み取れる。

   また、天保一〇年(一八三九)の建家員数帳によれば、渡辺村には瓦葺・藁葺・板屋根の家屋が軒を連ねており、富商として有名な太鼓屋又兵衛は二二軒も所有している。皮革の流通・加工で賑った渡辺村の姿を垣間見ることができよう。

<2> 巻末の詳細な「史料解題」によれば、先述の太鼓屋又兵衛の三代前にあたる初代の又兵衛は、大和国葛上郡柏原村枝郷岩崎(皮田村)の出身で渡辺村の太鼓屋平八に婿養子となり、家運を上昇させることに成功した。その岩崎方の茂市郎家文書のなかから太鼓屋又兵衛家の相続に関する訴訟関係の史料を収録したのが<2>である。

   又兵衛家からみれば本家にあたる茂市郎家にとって、豊前国救企郡田中村の武兵衛家から又兵衛家の女婿となって四代目の又兵衛を襲名した武助は、「家督横領人」(一六四ページ)としか映らない。一般に、近世の「家」とは家名・家業・家産の三要素から成り立っているものであるが、「血脉」(一七五ページ)の縁者を擁護しようとする茂市郎家側の主張には、「皮田」身分の者の商家においても血縁原理によって「家」の安泰を図ろうとすることが示されているのではなかろうか。

   また、相続一件とは直接かかかわることではないが、二代目又兵衛の妻の祖父・播磨屋四郎右衛門は、紀伊国名草郡岡島皮田村に居住する牢番頭仲間の一員である吉右衛門の親類にあたる(一五四ページ)。紀州藩牢番頭と渡辺村との人的交流をここにも見出すことができるのである。

<4> 文化八年(一八一一)に博多の商人・柴藤増次が筑前国革座の経営権を掌握したことにかかわって作成された「銀談日記」のなかから、渡辺村と革座との関係や大坂向きに生産される筑前の皮革生産の実態に迫る部分を抜粋したのが<4>である。

   この日記によれば、すでに宝暦九年(一七五九)時点で、筑前国那珂郡堀口村の「皮多」七人は、大坂土佐堀の商人や渡辺村の革問屋から預かった皮荷物の仕入銀二一八貫余を焦げ付かせていたという。つまり、近世中期には大坂市中や渡辺村の商業資本による前貸し支配が筑前国に及んでいたことを如実に示すものである。しかも、大坂向きの牛馬皮は筑前国内で調達するだけではなく、早良郡の熊崎皮多村の者が筑後・肥後・豊後・肥前の「旅皮」を買い出していた(三一〇ページ)。太鼓屋又兵衛家の女婿に豊前国の者が迎えられた遠因に、大坂渡辺村の皮革市場と北部九州がリンクしていたことがあるのは言うまでもなかろう。

<5> 本書の過半、四七五ページ分の史料を占めるのが<5>の本願寺史料である。渡辺村に創建された部落寺院である徳浄寺・正宣寺や門徒惣代から大坂の津村御坊へ提出された願書、本山である西本願寺の坊官から両寺や門徒あての達書など、享保一一年(一七二六)から明治四年(一八七一)までの膨大な史料が、西本願寺の長御殿と留役所で記録された「諸国記」から抜粋されている。

   とりわけ、備前・備中・美作の三か国の皮田村民の檀那寺であった真言宗寺院が真宗に改宗した一件に徳浄寺がかかわりをもったことや、西本願寺教団全体を揺るがした三業惑乱の影響を受けて渡辺村でも動揺が広がっていたことなど、本書で明らかにされた史実が近世宗教社会史研究の発展に大きく寄与することは間違いない。

III

  本書に収録された史料全体を通して指摘できることは、大阪府外に現存する史料が圧倒的多数ということである。具体的には、<1>の一部は立命館大学、<2>は神戸市立博物館、<3>は兵庫県内の個人、<4>は九州大学附属図書館、<5>は西本願寺、<7>は京都市内の寺院が、それぞれ所蔵するものである。編集担当者のご尽力と、史料を所蔵されている多くの個人・法人・団体等の理解・協力による総合的な成果であることは疑いない。

  最後に、苦言を二つ付け加える。一つは、八項目の大目次はあるものの、個別項目ごとの細目次が見当たらないことである。史料集を編集する最後の段階で手間隙のかかる作業ではあるが、読者の利便を考慮するならば、細目次を作るべきであったのではなかろうか。

  二つめは、<6>の「太鼓胴銘文」では編集担当者が銘文を筆録した日付が明記されている一方、肝心の当該太鼓の所蔵者または設置場所がまったく示されていないことである。これでは、個別の太鼓がどこにあるのかわからない。所蔵者名や設置者名が公表できないのであるならば、最低限、市町村名を出してほしかったと思うのは評者だけではなかろう。

  近世の渡辺村を多面的に理解する史料集として、多くの方が本書に接することを希望する。