調査研究

各種部会・研究会の活動内容や部落問題・人権問題に関する最新の調査データ、研究論文などを紹介します。

Home > 調査・研究 > 大阪の部落史委員会 > 各号
2007.06.11
前に戻る
大阪の部落史通信・39号(2006.11
 

舳松人権歴史館がリニューアルオープン

舳松人権歴史館

一 舳松人権歴史館について

舳松人権歴史館は、二〇〇六(平成一八)年四月、前身の舳松歴史資料館を名称変更し、リニューアルオープンしました。舳松歴史資料館の設立については、一九七六(昭和五一)年以来、部落解放堺地区舳松歴史・文化を守る会をはじめ地元より強い要望がありました。市としても同和対策の進捗によって一定の成果を見ましたが、厳しい部落差別を物語る住居をはじめ資料がなくなってきており、これらの資料を後世に残すことによって、部落差別と闘ってきた人びとの生きざまと差別に対する憤りを知ってもらい、部落差別を完全撤廃したいという主旨から一九八八(昭和六三)年に開館されました。

それから一八年たった二〇〇六(平成一八)年四月、本館は、堺の被差別部落の歴史を通して、部落問題を自分の問題として学び、「差別をなくそう」「自分は差別をしない」と決意していただくための施設として展示物も一新し、リニューアルオープンしました。

二 各コーナーの説明

展示場内は、阪田三吉記念室と展示室で構成されています。そして、展示室は「くらし」「しごと」「歴史」「特別展示」「啓発」の各コーナーに分かれ、大型グラフィック、音声ガイド、コンピューターによる情報検索などでわかりやすい展示になっています。

【阪田三吉記念室】

「反骨の棋士」として広く知られる阪田三吉は、一八七〇(明治三)年六月に大鳥郡舳松村(現堺区協和町)で生まれました。師匠にはつかず実戦で鍛えました。宿敵関根金次郎との名勝負は有名です。没後の一九五五(昭和三〇)年に功績が認められ、日本将棋連盟から名人位・王将位が追贈されました。

阪田三吉記念室は、舳松出身の将棋名人・阪田三吉を芝居や映画で描かれた奇人・変人の阪田三吉ではなく、お洒落で律儀な阪田三吉の実像を紹介しています。

そして、阪田三吉の幼少時代のくらしや棋士への歩みを描いた「さんきい物語」の映像や阪田三吉のゆかりの品をご覧頂けます。

また、昔の遊びや将棋も楽しめる、来館者が気軽に語り合える交流の場となっています。

※阪田三吉のゆかりの品

現在、阪田三吉が書いたと判明している文字は「馬」と「三」の二種類だけで、将棋盤の蓋、色紙、焼き物などに直筆を残しています。この残された直筆の「馬」は、それぞれに個性的で、勢いのある馬、すましている馬、笑っている馬などに見えて、まさに芸術的な「馬」の文字となっています。なおこの文字は、名人就位後、書家中村眉山から習い覚えました。舳松人権歴史館では、阪田三吉の直筆の文字が書かれてある「将棋盤」及び「焼き物」を所蔵・展示しています。

【くらし】

同和対策事業が行なわれる前の舳松の劣悪な住環境、盆踊りの「どんでんかっか」や阪田三吉を生んだ「縁台将棋」に見られる独自の文化、共有浴場「布袋湯」の運営など、厳しさの中でもたくましく生き抜いてきた人びとのくらしを紹介しています。また、一九五〇年代の舳松の平均的な民家(四畳半)や「はんらく」とよばれる狭い路地を再現しています。

<1>どんでんかっか

盆踊りの夜、太鼓のリズムにのって仮装した老若男女が、一年間の憂さを吹き飛ばそうと汗を流して夜通し踊り続けました。

<2>一九五〇年代の舳松の平均的な民家

一九五〇年代の舳松の住宅は、古い家を取り壊した時の古材木で建てられたものがほとんどでした。部屋の間取りも四畳半一間か六畳一間がほとんどで、そこに家族五、六人が暮らすのが普通でした。雨が降れば雨漏りがひどく、洗面器やバケツでしのいでいました。また、屋内に台所はなく、炊事は軒下のカマドや七輪で行なわれました。

<3>はんらく

家と家の間の狭い通路のことを、当時は「はんらく」といいました。細い路地が、密集した家並みの間をぬうようにして入り組んで通っていました。傘をさして歩けないような細い所もあり、日常の生活において、たいへん不便なものでした。また、火災などの緊急時には、十分な消火活動もできず、防災の点からも大きな問題を抱えていました。

そして、ここには、共同の井戸や水道があり、雨の日も寒い冬の日も食事の用意や洗い物、洗濯などが屋外で行なわれていました。便所も共同で、朝などは列をつくって順番を待たなければなりませんでした。しかも、汲み取り式の便所のすぐ近くに井戸があり、不衛生な環境でトラコーマが多く発生しました。

【しごと】

舳松の人びとは、「貧しいくらしを強いられ、十分な教育を受けられず、就職差別を受ける……」。そうした悪循環の中で、限られた不安定なしごとにしか就くことができませんでした。

当時の舳松の主なしごとである、靴なおしや下駄なおし、雪踏の表づくり、牛や豚の解体処理を行なう「と畜業」、屑物行商(現在の廃品回収)を紹介するとともに、「なぜ人々が不安定なしごとにしか就けなかったのか」また、不安定なしごとながら専門的な技術を磨き、社会に貢献してきたことを紹介しています。

<1>下駄なおし・靴なおし

村の中で店を構えて商売するのではなく、村を出て他人の家の軒下などを借りてするしごとなので、雨が降ればしごとにならず、雨の日が続こうものなら食事代にも困る状態でした。

<2>おもてづくり

おもてづくりは分業のしごとで、畳一枚ほどのスペースがあれば、道具を置いてできるしごとです。主に女性の内職として江戸時代から続けられてきました。

<3>と畜業

明治の文明開化とともに広まった肉食の文化を支えたのが、と畜業に従事した人びとでした。動物の命をいただくというしごとを通じて、牛や豚への感謝を忘れることなく、解体の技術を磨き、豊かな食生活を支える力になりました。

<4>屑物行商

リヤカーで出かけてするしごとは、雨が降ればできない不安定なしごとでした。ガラス瓶や、あか(銅)などの金属類、布や紙などが集められました。再生資源の利用は、環境にも重要なしごととなっています。

【歴史】

「舳松の歴史」では、一六世紀、ポルトガルの宣教師ルイス・フロイスが見た堺の被差別民の記述に始まり、同和対策総合計画の実施、そして現在へと続く長く厳しい差別の歴史を紹介しています。「舳松の部落解放運動」では、共有浴場「布袋湯」の設立から始まった部落解放運動の歴史を紹介しています。また、泉野利喜蔵や部落解放運動を支えた人びとの活動についても紹介しています。

「舳松の歴史」

<1>一六世紀、フロイスが見た被差別民

一六世紀、ポルトガルの宣教師ルイス・フロイスが書いた『日本史』の中に、社会の最下層に疎外されている、堺の被差別民が描かれています。

<2>一九七二(昭和四七)年、堺市同和対策事業総合計画の策定

面積八万二千坪、計画人口七千五百人の生活環境を改善するために、「堺市同和対策事業総合計画」がつくられました。不衛生で劣悪な古い住宅が壊され、新しい団地が造られました。

<3>二一世紀、絶えない差別事件

現在、住環境の面では大きく改善されましたが、差別事件はあとを絶ちません。近年はインターネットを利用した差別通信もおこなわれています。差別を「しない・させない・ゆるさない」ということをもう一度考える必要があります。

「舳松の部落解放運動」

<4>布袋湯の設立

明治末期に舳松の人びとは、部落解放運動の最初の形態としての「部落改善運動」を起こしました。部落改善運動は、当時、世間一般から部落の「欠陥」として指摘されていた「生活環境の劣悪、教育の不足、衛生思想の欠如、言語行動の粗野」などを「改善」することによって、差別の解消をはかろうとするものでした。したがって、部落改善運動は、差別の結果である被差別部落の「欠陥」を「差別の原因」と誤解するものであり、差別をしていた人びと及び差別の真の原因を追求する姿勢が弱いものでした。

舳松村の部落改善運動は、一九〇三(明治三六)年頃、設立された泉北郡舳松村の共有浴場「布袋湯」にみることができます。それは「風呂に入りきれいにして、世間から差別されないように。不衛生が元で差別がくり返されないように」という考え方があったからでした。

<5>泉野利喜蔵

一九〇二(明治三五)年、泉北郡郡舳松村(現堺区協和町)に生まれ、一九四四(昭和一九)年に亡くなっています。一九二〇(大正九)年に地元の青年団有志で一誠会を組織し、西光万吉・阪本清一郎らと出会い、全国水平社創立に向けて活動し、一九二二(大正一一)年に全国水平社を創立したひとりです。

地元では、一九二二(大正一一)年に舳松水平社を仲間と創立し、差別糾弾闘争にあたる一方、一九二四(大正一三)年から翌年にかけての舳松村の堺市編入反対闘争では、部落ぐるみで水平社運動へと引きつける指導力を発揮しました。

一九二九(昭和四)年、最年少で堺市会議員に当選し、耳原町(旧舳松村)の改善事業・差別越境問題のほか、在日朝鮮人の住宅闘争や堺労農学校の設立に活躍しました。

【啓発】

同和問題を解決するための特別措置を定めた法律は、二〇〇二(平成一四)年三月末で失効しました。しかし、法律がなくなったからといって同和問題が解決したわけではありません。今なお結婚や就職などに関する差別事件や、近年では特にインターネット上での差別落書きによる人権侵害が行なわれています。

また、二〇〇六(平成一八)年二月には、部落の人とわかれば採用しないようにすすめる差別図書「部落地名総鑑」の新たな存在が明らかにされるなど、解決すべき課題が残されています。

このコーナーでは、パネルや情報検索装置を通して差別の現状と人権の尊さについて学習します。

最後に、本館は、館内の案内及びフィールドワークの案内を無料で行なっております。ぜひ、ご利用ください。

利用案内

<所在地>堺市堺区協和町二丁六一番地 堺市立人権ふれあいセンター七階
TEL 〇七二―二四五―二五三六
FAX 〇七二―二四五―二五三五
http://www.city.sakai.osaka.jp/fureai/henomatsu/index.html

<交通>南海バス堺東駅(九番乗場)から旭ヶ丘北町下車、西へ約六〇〇メートル。堺駅(二番乗場)または堺東駅(二番・四番乗場)から大仙西町団地前下車、南へ約二〇〇メートル。御陵通三丁下車、南西へ約四〇〇メートル。堺駅(七番乗場)または堺東駅(一三番乗場)から協和町下車、北西へ約五〇〇メートル。阪堺線御陵前下車、南東へ約八〇〇メートル。

<休館日>日曜日、祝日、年末年始
<開館時間>午前九時~午後五時一五分
<入館料>無料

※阪田三吉のきちという字は、本来は士に口ではなく、土に口のきちですが、表示できないため、吉をあてています。