調査研究

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2007.06.11
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大阪の部落史通信・40号(2007.03

『大阪の部落史』普及版プロジェクト編著

(A5判・194頁、(社)部落解放・人権研究所発行、2100円(税込)、2006年3月刊)

八箇 亮仁(京都学園大学)

 本書は、史料集『大阪の部落史』を前提に編纂された小冊子であるが、「I近代社会と部落差別」、「II 解放と融和の道」、「III 継承と発展と」の三章立てに各一〇の小テーマ、計三〇テーマが配され、執筆陣は一三人におよんでいる。この点で本書は、史料集への手引書であると同時にそこから浮かびあがる部落の諸相を概観した小作品集である。

 このような書物のメリットは読み手が自分の興味に沿って小テーマを読み飛ばすことができ、史料にあたることができる点であろう。史料集に目を通すことはかなりの忍耐が必要だが、「侠客」小林佐兵衛の一文を読んで関連史料をさがすことは楽しいだろう。そのような小テーマとして私には、芸能を担う人びと、部落と堂班、名望家沼田嘉一郎、朝鮮皮革株式会社などのテーマが刺激的であった。

 ところで、この書物をあますところなく書評することは不可能である。そこで失礼ではあるが、各テーマを適宜簡略化しながら本書の特色や読みとれる課題を紹介し、最後に本書の「隠しテーマ」、つまり「自覚と誇り」の世界について考えてみたい。

 <生活共同体を軸とした部落史像>

 本書を通読してあらためて印象づけられたのは、広がりをもち矛盾を内包した生活・生業空間としての近代部落像が描かれている点である。この部落像は解放運動の路線問題にも関わるだけに、渡辺俊雄もIIIの「身分と階級」の中で「問われる部落像」として問題提起しているが、この点に関して本書では、近代化に翻弄されつつも自律性を保持した生活・生業空間としての部落が基点に位置づけられ、しかもそれが近隣社会・産業・社会運動・国政などの多重的空間につながり、まさしく生きのびてきたことを明らかにしている。とくに、「森秀次」(北崎I )・「名望家沼田嘉一郎」(吉村II)は、改善・融和の用語を残しつつも運動論的裁断をさけ、国政レベルでの取り組みを実証的にとりあげた点で、また「部落の生業の変化」(秋定I )・「朝鮮皮革株式会社」(横山II )は、部落産業が軍需を介してアジア社会にもつながった空間であることをあらためて示した点で貴重である。

 もちろんこの生活共同体としての部落は、理念として夢みられるようなそれではなかった。「朝鮮人と部落の住民」(横山II )が描くように、他者への排除を同居させ、しかも他者の死を受けとめる面をも持った、矛盾の多い地域でもあった。「多様な大阪府水平社」(久保II )は、女性活動家の登場と活動舞台からの退場にふれているが、水平社の活動基盤が部落にあったことを前提すれば、その記述は日常生活における男・女のあり方へのとらえ返しの必要性にもむけられているといえよう。従来の水平運動史も矛盾を潜ませた視点からとらえ直されようとしている。

 これに対して端的に部落の共同性に踏み込んだテーマも多い。「学校教育への欲求」(吉村I )、「民権運動家森清五郎」(北崎I )、「堂班への思い」(藤本I )、「部落と町村合併」(北崎II )などは、差別撤廃を希求して地域的結束力を保持してきた様子を描いているし、「芸能を担った人びと」(中島I )は、日清・日露戦後に変転をとげた大衆芸能の一翼を担う共同体でもあったことを明らかにしている。さらに、この共同体の成員が近代資本制社会のなかでどう生き抜いたかも、「部落の生業の変化」(秋定I )、「激しく闘われた争議」(久保II )、「就労の変化」(石元III )などから浮かんでくる。部落が生活共同体の諸側面の説明によって全体像を結びつつある、そんな印象が強い。「変化する自己意識」で渡辺が、生活と密接に結びついた「部落の文化への誇り」に注目しているのは、以上のような本書の特色を強調しているのであろう。

 <資本制社会・天皇制社会と拮抗する部落民>

 本書の特徴として次に指摘したいのは、本書から逆照射される課題である。

 まず第一に、戦前日本における西浜を中心とした部落産業の発展とそれに翻弄された部落民をどう考えるかという点である。すでにふれたように西浜を中心とした皮革産業は日清・日露の産業革命期に基盤を固めて戦前期部落産業の牽引力となり、大阪を中心に奈良・兵庫・京都・和歌山の近県だけでなく、東は東京、西は広島・福岡・鹿児島、さらに朝鮮・中国ともネットワーク網を形成していた。

 この西浜を中心とした皮革産業構造は日中戦争期の停滞と太平洋戦争下の空襲で戦後期には復活しなかったが、近世以来の西浜の地位が戦後まで継続していたこと、皮革産業はスラム化する名護町や草履表製造の南王子などとともに府下人口流入の渦を形成しながらも、内部に劣悪な労働条件を生み出していたこと、そして西浜の繁栄と同時期、多くの部落が半失業者層を抱える地域へと陥って行ったことなどは疑えないであろう。これに対する部落労働者の対応、その一端が「激しく闘われた争議」(久保II )や「同和奉公会と水平社」(秋定II )に登場する松田喜一の生き方に示されているのだが、闘争の局面同様、部落や農村共同体からはじき出されて時代の渦に翻弄される部落民や失業者たちへの生活空間作りがどうであったかを検討することも重要であろう。この点、久保や秋定がふれている無政府主義派の解放運動については今後さらに光をあてる必要があるだろう。

 第二に、一点目と関連して、小林佐兵衛、森秀次、沼田嘉一郎など、侠客、地方名望家などの活動をどう位置づけるかという問題がある。

 たしかに小林・沼田に顕著な社会的窮迫層に対するセーフティ・ネット作りを指摘した成果は貴重であり、栗須喜一郎、松田喜一、沼田嘉一郎などを差別撤廃の糸で結びつけることも可能であろう。しかし戦前日本における国政レベルでの共同性の模索は限定的社会福祉と労働・社会運動の抹殺に行き着いたことも事実である。彼らをつなぐ糸の性質がどのようなものかについては今後さらに検討されねばならないだろう。

 ただ、それでも本書には、彼らの活動を結びつける可能性を模索する事例が示されている。それが「部落と町村合併」(北崎II )である。この問題で重要な点は、水平社の存在を前提に「編入反対」、条件提示という形で、大阪府・内務省を介したり、沼田嘉一郎、浅田義治が登場して政治決着が演じられたとはいえ、接続住民との具体的関係構築がはかられたことである。

 では、国政レベルの共同性・公共性はどう構築されるべきであろうか。この課題は、たしかに、「同和事業の展開」(里上III )、「全国の運動を先取り」(溝上瑛III )、「量的発展と質的強化」(渡辺III )などの諸テーマに想定されているようである。しかし、戦後の同和事業や解放運動と「国民」間の関係構築の過程は、同対審答申以後の成果を含めて現在あらためて見直され始めていると考えるべきであろう。

 最後に、本書が読者に問いかけている謎解き、「自覚と誇り」について考えてみたい。この難問に対する答案の一つは渡辺が指摘するように生活に密着した文化それ自身に求めることができる。この意味では、伊藤や赤塚の扱った同和教育はこの課題にどう肉薄するかの問題でもあったといえよう。しかしここでは少し違った局面からその謎解きに参加してみたい。

 「変化する自己意識」(渡辺III )によれば、戦後の意識調査で部落住民が尊敬する人物の筆頭に天皇をあげたことが示されている。もし、彼らがさらに天皇が解放令を出したことを誇りと思うと答えた場合、我々はそれを非難できるであろうか。天皇(維新政府)が解放令によって歴史の歩を進めた事実、これを無視した非難は意味をなさないであろう。おそらく、民衆と雖も自覚と誇りは日常生活空間から国家、さらに思想空間にまで及ぶ世界の中で獲得される作業でもあるといえよう。

 ではその解放令はどのような思想空間として理解され、自分のものとなったのであろうか。そのヒントは、北崎が一八六八年の五箇条の誓文にふれた点に隠されている。

 「広ク会議ヲ興シ、・・・」で有名な五箇条の誓文の四条目は、「旧来ノ陋習ヲ破リ、天地ノ公道ニ基クヘシ」とある。この文章は北崎の指摘するように、差別を含む伝統的な悪習を世界共通の正しい道に基づいて打破すると理解されるようになる。この点に注目すれば、大正期の融和団体「帝国公道会」が誓文の一文を念頭に置いていたことは直ちに理解される。とすれば一八八八年、西浜に仏教興隆を目的に設立され、民権運動をも担った「公道会」はまぎれもなく誓文の意を共有したものであったろう。

 公道会に触れた北崎は筆を控えているが、この推測が全くのまちがいでなければ、「公道会」には天地の公道、浄土真宗、天皇、国家、民権、部落民を含む国民が調和する世界が思い描かれていたことになる。それを裏付けるように、『東雲新聞』は、憲法発布を祝賀するため公道会が懇親会を催し、打ち上げる花火には「帝室万歳、国家万歳、自由万歳」の文字が現れるものもあると報じている(第四巻四七七頁)。兆民も交わったこの公道会成員の思念こそ彼らの精神的紐帯であったろう。

 では、天皇制国家に取り込まれていく思念を共有しつつ、思想的突破口を切り開こうとした人物はいなかったのであろうか。おそらくその一人こそ中江兆民であっただろう。兆民は、公道会設立に先立って、「新民世界」で「平等は天地の公道である。人事の正理である」とのべ、「習慣の束縛」である部落問題を無視した自由・平等論を否定する(中島)。兆民も文字通り誓文を敷衍しているのである。

 もちろんこの文章で、兆民は欽定憲法体制に言及することはなかった。兆民が提示したものは「同一社会中の同一人類」(第四巻四三八頁)、また「速に習慣の世界を去りて法律の境界に入り、又更に進みて理学の区域に入れ」という表現に示される「新民世界」の思想的な共同空間であった。ちなみに「天地ノ公道」は国際法と置き換えられることもある。