調査研究

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2008.05.27
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大阪の部落史通信・42号(2008.03
 

『大阪の部落史』第九巻(史料編 補遺)刊行
-史料編の全九巻が完結-

近 世 第九巻収録
近世前期の死牛馬割帳について

寺木 伸明(桃山学院大学大学教授・大阪の部落史委員会企画委員)


はじめに

 本巻の近世分に収録された史料は、主としてこれまで大部なため掲載を見合わせてきた簿冊史料と当道座・盲人関係史料である。時期的には、江戸前期から幕末にいたるまでのものが収められている。近世分は、史料を内容別に九章に編成した。

 ここでは、その章題と史料編集・解説執筆担当者を紹介するにとどめて(詳しい内容については、本巻冒頭にそれぞれ担当者による解説が付されているので、それをご参照いただきたい)、近世前期の死牛馬割帳の分析結果を中心に叙述したい。

一 行刑 (担当者:藤原有和)
二 河内国石川郡新堂皮多村の草場制(担当者:臼井寿光)
三 土地所持と検地(担当者:寺木伸明)
四 村と寺の記録(担当者:村―寺木伸明)(担当者:寺―左右田昌幸)
五 皮革業と渡辺村(担当者:臼井寿光)
六 縁起・由緒書(担当者:悲田院―寺木伸明)(担当者:三昧聖―森田康夫)
七 和泉国三昧聖仲間の記録(担当者:森田康夫)
八 大坂の当道座と盲人(担当者:臼井寿光)
九 被差別民の生活と生業(担当者:臼井寿光)

一 死牛場割帳の概要

 天和三年一月『牛 大福帳』(史料9)と貞享三年一二月『馬 大福帳』(史料10)の二つの史料は、旧河内国石川郡新堂村枝郷富田村(皮多村)で代々年寄を勤めてきた竹田家の所蔵文書である。竹田家文書は、富田林市史編纂過程で収集され、その主要な史料はマイクロ撮影されたのであるが、今回、大阪の部落史の編纂作業において、竹田家から市史未撮影分の近世の新出史料一三〇点余(近代六〇〇点余)をお借りして整理を行なった。これら二つの史料は、そのなかに含まれていたものである。

 史料9は、天和三年(一六八三)四月二五日から貞享三年(一六八六)三月二五日までの約三年間にわたる死牛の割帳である。死牛を取得した月日・草場のなかの、さらに細分された「場」(後述)での死牛の順番・牛が死んだところの村名・死牛の取得者などが克明に記されている。史料10は、貞享三年一二月一六日から元禄一〇年(一六九七)までの約一〇年間の死馬の割帳で、記載様式は前者のものと同じである。

二 死牛場割帳についての「解説」(臼井寿光執筆)の要約

(1)史料の読み解き方

 史料は、日付順に記載されている。その日付の左横に「一つ目」とか「九つ目」とか記されているが、必ずしも順番どおり並んでいるわけではない。それではどういう順番かというと、富田村の草場のなかにさらに地域ブロック(以後、場と表記する)があって、史料9では、六つの場、史料10では七つの場(「上の三人場」が新たに出てくる)があり、それぞれの場で出た死牛・死馬の順番なのである。ただし、その順番も、場によって一〇で一巡したり、八つ目で一巡したりと、さまざまである。こういう方式になっていることを理解するヒントを与えてくれたのが、九〇年ほど後に作成された安永三年(一七七四)八月「草場米割之日記」(史料12)である。そこに各場ごとに割数(番廻し。一巡する数)が記され、どういう順で誰が死牛馬を取得していくかが、示されていたのである。なお、それによって、死牛馬取得権者(株所持者)の配分率も判明したのである。

(2)草場の範囲と地域ブロック(=場)・固有の割数(=番廻し)

 それらの記録をもとに富田村の草場全体および各場を示した図が、本巻七頁に掲載されている。その図によれば、草場は、河内国錦部郡全体・石川郡全体および古市郡と丹南郡の、それぞれごく一部に及んでいる。「元禄郷帳」をもとに作成された、『大阪府史』第七巻付図(元禄一一~一二年ごろの状況を示している)によって村数を数えると、この二つの史料には出てこない円光寺場一一ヵ村を除いて八四ヵ村となる。それら場の名称と内訳および割数を示すと、喜志場は三四ヵ村・割数一〇、長野場は二九ヵ村・割数八、私里場は九ヵ村・割数六、山田場は四ヵ村・割数五、板持場は二ヵ村・割数四、平尾場は一ヵ村・割数三、上の三人場は五ヵ村・割数二である。

三 死牛馬割帳から見えてきた死牛馬取得の実相

 大阪府域では、草場の範囲が判明しているのは、和泉国南郡島村(藤本清二郎『近世賤民制と地域社会』清文堂、一九九七年、第八章第二節参照)、同国泉郡南王子村(畑中敏之『「かわた」と平人―近世身分社会論』かもがわ出版、一九九七年、第四章参照)および河内国讃良郡北条村内皮多(大東市北条部落史研究会編『被差別部落・北条の歴史 大東市史追録』大東市教育委員会、一九七五年、第四章第二節参照)の三つの皮多村ぐらいであって、その他の皮多村草場については、草場の売券や草場をめぐる境争論関係史料によって、部分的にしか知られていなかった。また、先の三つの皮多村の草場においても、誰が、いつ、どのように死牛馬を取得したか、年間どれぐらいの死牛馬が取得できたのかは、具体的には分かっていなかったので、それらのことが克明に記載されている死牛割帳(史料9)・死馬割帳(史料10)は、大阪府域では稀有な史料と言えるだろう。

(1)死牛馬の頭数

 史料9によれば天和三年(一六八三)四月二五日~貞享三年(一六八六)三月二五日までの約三年間の死牛の頭数は、二四一疋であった。年間平均約八〇疋という勘定になる。

 また、史料10によると貞享三年(一六八六)一二月一六日~元禄一〇年(一六九七)二月一二日までの約一〇年間の死馬の頭数は、一五三疋で、年間平均約一五疋ということになる。関西は、近世では一般に馬が少なく牛が圧倒的に多いと言われてきたが、死牛と死馬の比率からみて、富田村草場内の村々も同じような傾向にあったとみられる。

(2)場別死牛馬頭数

 史料9によって場別の死牛頭数を示すと表1のようになる。また、史料10によって場別の死馬頭数を示すと表2のようになる。

表1 場別死牛頭数
(天和3年4月25日~貞享3年3月25日)

 場名
頭数(疋)
比率(%)
 喜志場
152
63.1
 長野場
63
26.1
 山田場
12
5.0
 私里場
12
5.0
 板持場
1
0.4
 平尾場
1
0.4
 合計(6場)
241
100.0


表2 場別死馬頭数
(貞享3年12月16日~元禄10年2月12日)

 場名
頭数(疋)
比率(%)
 喜志場
36
23.5
 長野場
55
35.9
 山田場
36
23.5
 私里場
11
7.2
 板持場
11
7.2
 平尾場
0
0.0
 上の三人場
4
2.6
 合計(7場)
153
99.9

 場に含まれる村数が多い喜志場(三四ヵ村)と長野場(二九ヵ村)に牛馬とも集中している。ただし、喜志場には死牛が特に多く(全頭数の六三・一%)、二位の長野場(同二六・一%)を大きく離しているのは、喜志場に山間部(東部は、金剛山地で、大和国に接する)も含まれるものの、田畑が比較的多いのに対して、長野場に山間部が多く(南部は、和泉山脈となり、紀伊国に接する)、比較的田畑が少なかったことに関係していると考えられる。牛は、近世にあってはもっぱら農耕用に使役されたから。

 逆に死馬になると、長野場が一位を占め(全頭数の三五・九%)、喜志場は二位となる(同二三・五%)。前述の地勢的相違が一つの要因で、山仕事には牛ではなく馬の方が向いていたのと(木材の切り出しなど)、馬での運搬が多かった高野街道(東高野街道と西高野街道があり、両街道は長野場に属する三日市の少し北側で合流し、紀見峠を越えて紀伊国に通じていた)が走っていたことも、長野場に死馬が多かった一因であろう。また、村数が四ヵ村と少ない山田場に死馬が喜志場と同数(三六疋、二三・五%)と、多かったのは、山麓という地勢的特徴および河内国と大和国を結ぶ主要街道であった竹之内街道が通っていたからであろう。今後、さらに各場の地勢的特徴や街道の様子、実際の牛馬の数の分布などを調査して、各場での死牛馬の数の違いの背景などを究明していきたい。

(3)草場株所持者ごとの取得数

 牛について草場株所持者ごとの死牛取得数を示したものが、表3である。

表3 草場株所持者ごとの死牛取得数
(天和3年4月25日~貞享3年3月25日)

 草場株所持者
取得数(疋)
比率(%)
 仁右衛門
89.0
37.1
 忠兵衛
48.0
19.9
 孫七
26.3
10.9
 太郎八
16.3
6.8
 次郎兵衛
14.0
5.8
 市兵衛
14.0
5.8
 こりん
10.0
4.1
 半兵衛
10.0
4.1
 喜平(次)
8.0
3.3
 権太郎
5.0
2.1
 合計(10人)
241.0
99.9

 株所持者一〇人のうち、仁右衛門が約九〇疋と断然多い(全頭数の三七・一%)。二位の忠兵衛(四八疋、一九・九%)を大きく引き離している。当時の家数は今のところ不明である。享保一〇年(一七二五)で一一〇軒であったから(同年「宗門改帳」竹田家文書)、当時数十軒は存在していたと推定される。したがって、草場株所持者は富田村住民のほんの一部の人々にすぎなかったといえよう。

 次に馬について草場株所持者ごとの死馬取得数を示したものが、表4である。

表4 草場株所持者ごとの死馬取得数
(貞享3年12月16日~元禄10年2月12日)

 草場株所持者
取得数(疋)
比率(%)
 仁右衛門
59.5
38.9
 忠兵衛
22.0
14.4
 治右衛門
15.0
9.8
 勘兵衛
9.5
5.9
 こりん
9.0
5.9
 半兵衛
9.0
5.9
 次郎兵衛
7.0
4.6
 権太郎
5.0
3.3
 了意
5.0
3.3
 与惣(三)兵衛
4.0
2.6
 市兵衛
3.0
2.0
 喜平
2.0
1.3
 太郎兵衛
2.0
1.3
 権右衛門
1.0
0.7
 合計(14人)
153.0
99.9

 死馬については、株所持者一四人のうち、やはり仁右衛門が約六〇疋(三八・九%)と、断然多く、次いで忠兵衛が二二疋(一四・四%)である。株所持者が増えたのは、株が分割され譲与されたか一部売却されたからであろう。

 ここで参考までに、前記安永(一七七四)八月「草場米割之日記」(史料12)によって株所持者八人の配分率を見てみよう(表5)。

表5 安永3年(1774)草場株所持者8人の配分率

 草場株所持者
配分率
 仁右衛門
2
7
4
6
4
39.2%
 嘉了
1
1
1
8
4
16.0%
 四郎兵衛
1

4
3

14.9%
 八右衛門

6
6
9
5
9.6%
 林助

4
5
9
2
6.6%
 次郎兵衛

4
1
6
2
5.9%
 六右衛門

2
7
9
6
4.0%
 次郎兵衛

2
7

3
3.9%
 合計(8人)
7


2
6
100.1%

(4)死牛馬の取得方式

 関西では死牛馬は、所持者の居住地ではなく牛馬が死んだ場所を草場にしている皮多村の株持ちが取得することになっていたことは、周知のことである。では、死牛馬をどういう方式で株所持者が取得していたのであろうか。まず、死牛の取得方式を見てみる。紙幅の関係で、六つの場のうち喜志場と長野場および私里場に限って整理して以下に示す。

a 喜志場:割数10

番   廻   し 1つ目 にしい方(=私里場)
2つ目 市兵衛/孫七/次郎兵衛/仁右衛門/太郎八(ただし順番に規則性見つからず)
3つ目 孫七/仁右衛門/市兵衛/太郎八/次郎兵衛(ただし順番に規則性見つからず
4つ目 仁右衛門/太郎八/孫七/次郎兵衛/市兵衛(ただし順番に規則性見つからず)
5つ目 忠兵衛/仁右衛門/孫七(忠兵衛→忠兵衛→忠兵衛→仁右衛門→忠兵衛→孫七の繰り返し)
6つ目 忠兵衛
7つ目 忠兵衛/孫七/仁右衛門/半兵衛/権太郎/権太郎・仁右衛門(ただし順番に規則性見つからず)
8つ目 仁右衛門/次郎兵衛/太郎八/市兵衛/孫七/権太郎(ただし順番に規則性見つからず)
9つ目 忠兵衛/太郎八/仁右衛門/市兵衛/孫七/次郎兵衛/権太郎
10目 次郎兵衛/太郎八/仁右衛門/孫七/市兵衛(ただし順番に規則性見つからず)


 つまり、喜志場で死牛が出た場合、上記の方式で取得していたということである。一一疋目になると、また一つ目に戻るわけである。一つ目の「にしい方」(=私里場)というのは、喜志場で出た一つ目の死牛は、かならず私里場(後述)に入り、そこの取得方式(後述)によって取得者が決まるのである。二つ目は、市兵衛・孫七・次郎兵衛・仁右衛門・八の五人がどういう順序でかは不明であるが、それぞれ取得したという意味である。七つ目は、ときには権太郎と仁右衛門が半分ずつ取った。

 長野場では、三つ目は、ときには太郎八・孫七・仁右衛門の三人が三分割して取得していた。七つ目が「にしい方」で、喜志場の一つ目と同様、かならず私里場に入り、そこの取得方式によって取得者が決められていた。

b 長野場:割数8

番  廻  し
1つ目 孫七/仁右衛門/太郎八/市兵衛/次郎兵衛(ただし順番に規則性見つからず)
2つ目 喜平
3つ目 孫七/忠兵衛/太郎八・孫七・仁右衛門/半兵衛/仁右衛門(ただし順番に規則性見つからず)
4つ目 半兵衛
5つ目 仁右衛門
6つ目 忠兵衛/仁右衛門(ただし順番に規則性見つからず)
7つ目 にしい方(=私里場)
8つ目 仁右衛門

 私里場は、前述のように九ヵ村からなるが、喜志場の一つ目、長野場の七つ目、山田場の一つ目、板持場の一つ目、平尾場の一つ目の死牛がそれぞれ入ってくるとともに、私里場内の九ヵ村内で死牛が出た場合ももちろん、この場の株所持者のものであった。順番は、どの場から死牛が入ってこようが、日付順になっていた。一つ目は、太郎八と孫七(のち権太郎)が半分ずつ取っていた。二つ目は、仁右衛門と孫七(のち権太郎)が交互に取得していた。五つ目・六つ目もそれぞれ二人が交互に取得したのである。

c 私里場(=にしい方):割数6

番 廻 し 1つ目 太郎八・孫七(→権太郎)
2つ目 仁右衛門→孫七(→権太郎)(これの繰り返し)
3つ目 仁右衛門
4つ目 こりん
5つ目 仁右衛門→孫七(これの繰り返し)
6つ目 こりん→仁右衛門(これの繰り返し)

 残る山田場は割数五で、一つ目が「にしい方」(=私里場)、板持場は割数が四。「にしい方」の記録は事例が少ないためこの史料では不明であるが、史料10によって一つ目であることが判明する。平尾場は割数三で、同じく一つ目が「にしい方」(=私里場)である。

 次に死馬の取得方式を見てみる。ここでも紙幅の関係で、七つの場のうち、長野場と私里場に限って整理して示すと次のようになる。

a 長野場:割数8

番  廻  し 1つ目 仁右衛門/治右衛門/与三兵衛(ただし事例が少ないため他の株持ち・順番は不明)
2つ目 喜平→了意
3つ目 忠兵衛/仁右衛門・治右衛門/半兵衛/仁右衛門(ただし事例が少ないため他の株持ち・順番は不明)
4つ目 半兵衛
5つ目 仁右衛門/仁右衛門・治右衛門(ただし事例が少ないため他の株持ち・順番は不明)
6つ目 忠兵衛/仁右衛門/こりん(ただし事例が少ないため他の株持ち・順番は不明)
7つ目 にしい方(=私里場)
8つ目 仁右衛門


b 私里場(=にしい方):割数6

番 廻 し 1つ目 勘兵衛・権太郎/勘兵衛・仁右衛門/勘兵衛・治右衛門(ただし事例が少ないため他の株持ち・順番は不明)
2つ目 仁右衛門/権太郎/治右衛門(ただし事例が少ないため他の株持ち・順番は不明)
3つ目 仁右衛門
4つ目 こりん
5つ目 仁右衛門/治右衛門(ただし事例が少ないため他の株持ち・順番は不明)
6つ目 仁右衛門/こりん


 残る山田場は、死牛と同じく割数五、一つ目が「にしい方」(=私里場)、板持場は、割数四、一つ目が「にしい方」(=私里場)である。平尾場は、記載がないが、史料9によって割数三、一つ目が「にしい方」であることがわかる。他に新たに「上の三人場」が出てきており、割数二で「にしい方」(=私里場)はなかった。

 以上のように、基本的には牛馬同様の方式でそれぞれ株所持者が取得していたものと考えられる。相当複雑なので、天和~元禄期においても安永三年(一七七四)八月の「草場米割之日記」のような配分表がすでにあって、それに基づいて取得したものであろう。

 以上が、近世前期の死牛馬割帳の簡単な分析結果である。今後、残されている四冊の同種の史料をあわせて分析することによって、死牛馬取得をめぐる実相がその後の変化も含めて、さらに詳細に判明してくるものと期待される。