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西郡村は村高一八四九石四斗八升七合の若江郡きっての大村で、村内は天領(御料)と私領に分かれ、本村、枝郷新家、かわた村の東部から成り立っていた。村の実態は何ごとも天領・私領分を合わさないとその姿は把握できない。西郡村の兼帯庄屋であった武村家の文書には、両方の史料が短い期間であったが揃っていたので初めて村の姿を明らかにすることができた。なお宗門人別帳の考察では新家は本村に含まれる。 宗門人別帳の檀那寺はこの制度が開始されて以来、村民が恣意的に選択したものではなく、宗門改めが制度化されるまでの村民が関係した寺院との信仰関係を表わすものと解するならば、この一覧表を見る限り本村西郡村が周辺村々とは異なる信仰体験を、中世末から近世初頭にかけてたどってきたことが窺える。 河内国若江郡域の一般村では、自村内の寺院か八尾・久宝寺の東西両本願寺系の寺院ないしは平野大念仏寺とその傘下の寺院が範囲であった。かわた村でも西郡と斃牛馬の草場を分ける植松村東八尾座の場合でも、看坊を送る林村善正寺か自村内の安楽寺が檀那寺であった。 ところが西郡村の場合、本村そのものはかつて『本願寺日記』において萱振恵光寺の門徒として西郡衆と呼ばれたように、萱振恵光寺ときわめて深い関係にあった。しかし石山本願寺から顕如が退散したのを機に、萱振恵光寺がそれを不服として慶長一五年(一六一〇)に東本願寺に奔りそのために平野に転出した。この平野恵光寺が慶長一七年に准如のとりなしで再度、萱振恵光寺に復帰した。この間、恵光寺の動向に翻弄された西郡衆の信仰感情が宗門人別帳に示されていたといえよう。 宗門人別帳を見るかぎり萱振恵光寺に終始従ったのは僅かに五軒であった。それに対して平野に残ったのは村内の有力層を含めた三七軒で、西郡村での最大信仰集団であった。しかし問題はそれで納まらなかった。 東本願寺に留まりたくないもののなかに、西本願寺派の萱振恵光寺だけにはもう従いたくないとする村民感情があったようだ。これらの人々は久宝寺にあった慈願寺から出て石山本願寺建設への教線として重要な役割を果たした法円(慈願寺六世)の築いた浄照坊(現大阪市天王寺区真田山)か、久宝寺顕証寺に反旗を翻して八尾に移転した慈願寺かを檀那寺に選んだ。かつて西郡衆が法円を援助したことがこの段階で檀那寺としたのであろう。 ちなみにこの時、大坂浄照坊に属したのは二四軒、慈願寺に従ったのは一一軒あった。さらに本願寺とは縁を切って仏光寺派の平野御堂や平野大念仏寺を檀那寺とするものまでが出た。このような本村の動向に対して新家村でも萱振恵光寺を忌避して近くの若江村や志紀郡光蓮寺を選んだ。それに対して村の永宗寺(本村)・西接寺(新家)を檀那寺とするものは僅かに二軒だけで、これはきわめて特異な傾向であった。 本村の動向はそのままかわた村の檀那寺選択にも現れた。西郡東部村民すべてが村の道場(正徳二年<一七一二>に宣念寺の寺号を与えられる)を先頭に、かわた系の中本山としてあった京都万宣寺に直属していたことである。 このような動向の生まれた背景には中世末の西郡の置かれた位置に注目する必要がある。すなわち若江城という中世の世俗的軍事拠点と、萱振恵光寺という河内における浄土真宗の戦闘的聖域との中間点という、まさに戦場の村としての存在性にあった。その時の西郡門徒の萱振恵光寺への深い信仰的結合が、それに代わる由緒ある檀那寺を決定させたといえよう。そして本村同様に西郡かわたの檀那寺にも格段の配慮が示された。 おそらく西郡村の百姓とかわたは恵光寺に対して、かつて石山本願寺建設の際にみられたように、労力提供したり食料などの生活物資の調達役を担ったのであろう。それ以外に戦闘集団としての萱振恵光寺が必要とした軍事用物資としての皮革が、西郡かわたによって提供されたのであろう。西郡かわたへの破格の配慮には記録されざる歴史が垣間見られるのではないか。それ以外に村民全体を万宣寺に帰属させる理由は考えられるだろうか。 若江城と萱振恵光寺との中間点にあった西郡の地理的状況を抜きにして、中世末から近世初頭の西郡は理解できない。おしなべて摂河泉のかわた村を考えるとき、中世末の城との関係を抜きにしては考えられない。そして天保三年の西郡村宗門人別帳がはからずもそれを照射していたのである。 二 本村・枝郷新家・入作百姓の補完労働力としての東部天保六年(一八三五)の「西郡村田畑屋鋪字限高反別仕訳帳」を本村・新家・東部・入作ごとに集計すると次のようになった(表2)。
表2 西郡村・新家・東部の持高及び入作高集計
村内には本村の土地高以上の入作地がありながら、東部には入作地の三分の一程度の土地しか認められていなかった。 後発の新家では八五パーセントが五~二〇石以上の中農層層の集落であったが、それが東部では次のようである(表3)。
表3 東部持高別階層構成
東部の場合、自作農として生活の成り立つものは僅かに一四軒で、他は無高層を含めて(宗門人別帳から推定では八五軒)何らかの労働で生活を支える必要があった。しかも斃牛馬処理の草場を持つものは村内の中農以上の有力層で、その下で雪駄作りなどの皮革関連の仕事をするものもあったが、それも弘化二年(一八四五)の「河州西郡村穢多共乱妨打毀一件」などから見ても限られた人々だけであった。とすると東部の人々の重要な仕事は本村をはじめ入作者の小作や木綿織など雑用で働くことであった。 今回の調査で大変興味深いことが分かった。それは近世河内木綿の八尾組を取り仕切る東郷村の庄兵衛や西郷村の吉兵衛らが西郡村に広い入作地を所持していたことである。ちなみに庄兵衛家は四二石四斗六升八合、吉兵衛家は一六石六斗四合で、庄兵衛家では会所まで西郡村においていた。このように河内の綿作地帯にあった西郡東部村民は、本村富農層や他村の木綿問屋の下で、小作農として村高を支える補完的労働力として存在させられていたといえよう。 おわりにこのように見てくると東部は、中世末までは明らかに非農耕的職能者であったことが窺える。村内に本村だけで耕作できない耕地がありながらそれに依拠するのではなく、ひたすら斃牛馬処理から生まれる皮革の需要に生活を賭けてきた。 しかし戦乱の時代が終わり平和の時代が到来するなかで、かわたの農耕民化は必要な生活転換であった。にもかかわらず斃牛馬にかかわる穢意識から補完的役割だけを担わされた。とりわけ大和川付け替え後の米作にかわる綿作の普及は、木綿織という新たな労働力を村々に求めた。この時から穢意識は次第に空洞化されて東部村民の参入を容易にし、それがまた適齢順に分家を促し本村にまさる人口増の要因となっていった。一方、近世後期になると雪駄づくりの技術が、東部では木綿織地から下駄の鼻緒を生み出し、皮革細工に代わる鼻緒つくりがやがて村の生活の主流となっていった。 |