調査研究

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2009.04.21
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大阪の部落史通信・44号(2009.03
 

牛馬の出現に関する覚書き
-『大阪の部落史』の完結によせて-

積山洋(大阪の部落史委員会委員・考古担当)


一 はじめに

 一九九六年、『大阪の部落史』のプロジェクトに、私も誘われて参加させていただいた。考古学にとって前例のない共同研究であったが、このたび、ついに全巻完結の運びとなった。だが実は、第一巻・第十巻では紙幅のこともあり、きちんと書けなかったことがいくつかある。本稿では牛馬の出現についてあらためて検討し、以て補遺としたい。

 朝鮮半島から日本列島への馬の渡来は古墳時代中期になってからであることを明らかにしたのは松井章である。確かに、中国史書『三国志』のいわゆる「魏志倭人伝」は、三世紀の倭には「牛馬虎豹鵲がいない」と伝えている。今回の研究でもその点は変わらず、ウマの骨がまとまって出土するのは、古墳時代中期の中でも、須恵器という日本最古の陶器が出現する五世紀初頭(四世紀末の可能性もある)ごろからであること、そのもっとも初期のまとまった出土例は四条畷周辺の北河内と大阪市平野区周辺の中河内に集中していることなどが明らかになった。これに対して牛の導入は遅れ、大量渡来の開始は古墳時代後期の六世紀前半に降ることが判っている。

 さて、問題となるのは、牛も馬もそれぞれにもっと古い出土例が少しあることである。そのことは松井氏も認めており、第十巻(本文編)では、大量渡来に先立つ牛馬の散発的な渡来を示す資料と解釈してみた次第である。

二 馬の大量渡来前史

 あらためて第一巻所収のCD-ROM「大阪府域の牛馬骨出土遺跡一覧」(以下ではこの一覧表の資料番号を「一覧○」と示す)をみると、東大阪市西岩田(一覧二四五)、八尾市佐堂(一覧二五〇)、美園(一覧二五八)、亀井(一覧二五五)などの遺跡で古い例が報じられている。西岩田や佐堂、美園遺跡では詳細な報告がなく、後世の混入の可能性もあるが、西岩田遺跡では須恵器直前とされる布留式土器とともにウマ左上顎歯が河川から出土し、亀井遺跡でみつかった自然流路では、布留式土器が出土した下層からウマの上顎歯が出土している。また馬形埴輪では、藤井寺市野中宮山古墳で出土した例[藤井寺市教育委員会一九九三『新版古市古墳群』。]がもっとも古く、須恵器の出現する直前である。

 他地域をみると、紀伊では、和歌山市鳴神遺跡で布留式の段階に埋まった溝SD二〇四からウマ臼歯が出土した例がある[松井章一九八四「鳴神地区遺跡出土の動物遺存体」『鳴神地区遺跡発掘調査報告書』和歌山県教育委員会。]。一方、馬具では、大和の箸墓古墳周濠出土の木製輪鐙が古い例である[橋本輝彦二〇〇二「纏向遺跡第一〇九次出土の木製輪鐙」『古代武器研究』三、古代武器研究会。]。

 これらの例のすべてが報告どおりの時期であるかどうか、異論もあるのが現状である。ただ、西岩田や野中宮山古墳などの例から、遅くとも須恵器直前の古墳時代中期前半に馬が日本列島にいたことは確かであろう。問題はどこまで遡るかである。

 摂河泉で最古とされる亀井遺跡の例は出土遺構・層位が明確であり、信頼度が高いようである。ここでは流路SD〇一のⅣ層で古墳時代前期(布留一式)の土器が数個体出土しており、その下のⅤ層(流路の最下層)からウマの臼歯が出土している。Ⅴ層では二重口縁の壺二点と、弥生土器の伝統を残す平底の小型壺が出土している。これらはやや古そうな傾向を示すが、確実とまではいえず、土器様式の下限をⅣ層の布留一式に置くのが安全であろう。また、紀伊の鳴神遺跡の例も、庄内-布留式と報告されるほど古く、やはり布留一式が下限とみられる。そうだとすれば、布留式土器の年代からみて、遅くとも四世紀の倭人社会には馬がいたことになる。時あたかも古墳時代が始まったばかりのころである。

 古墳時代を象徴する前方後円墳の発祥の地は大和である。その中でも桜井市纏向遺跡の一帯は纏向古墳群(墳丘は全長一〇〇m前後)や、最古の巨大前方後円墳である箸墓古墳(全長二八五m)が造営された王権のお膝元であった。その箸墓古墳の周濠から馬具が出土したことははなはだ興味深い。それは、馬上で人の両足を乗せる鐙であり、実用的な木製品であった。古墳築造後、周濠で下層の土が堆積したのちの上層から出土したが、その土器はここでも布留一式である。だが、なぜかこれだけを古すぎるとして、疑う向きは多い。

 初期の馬の資料は、亀井遺跡・鳴神遺跡・箸墓古墳の三例が古墳時代前期前半の布留一式、西岩田遺跡・野中宮山古墳は須恵器出現の直前である中期前半と整理される。

三 牛の大量渡来前史

 牛の渡来においても、馬と同じように若干の前史があったようである。骨の出土例、牛形埴輪の出現などからみて、その大量渡来は古墳時代後期の六世紀前半であるが、もっと古い例をあげてみよう。

 摂津の神戸市郡家遺跡では、ウシ下顎骨が、五世紀末ごろとみられる須恵器(TK四七型式)とともに出土している。しかし、報告書によれば、これらが出土した土坑SK〇五は、六世紀前半(MT一五型式)に埋まった溝より新しいとされ、大きく矛盾しているので保留せざるをえない[郡家遺跡調査団二〇〇四『郡家遺跡第七五次発掘調査報告書』。]。一方、大和の御所市南郷大東遺跡ではいくつかの河川跡がみつかり、そのSX〇一では五世紀中ごろ以前(初期須恵器-TK二〇八型式)とみられる下層の堆積からウシ臼歯五点、また五世紀末ごろ(TK四七型式)までの土器を含む上層でも臼歯九点が出土している[松井章二〇〇三「南郷大東遺跡出土の動物遺存体」『南郷遺跡群』Ⅲ、橿原考古学研究所。]。管見の限りでは、SX〇一出土の臼歯が最古のウシの実例である。

 埴輪でみると、但馬の朝来市船宮古墳で写実的な牛形埴輪の鼻づらの部分が出土しており、円筒埴輪の特徴から、五世紀後半とされる。堺市黒姫山古墳にも、ほぼ同時期ごろの角の破片らしきものがあるという[高橋克壽二〇〇五「音乗谷古墳出土埴輪の特質」『奈良山発掘調査報告』Ⅰ、奈良文化財研究所。]。数年前、船宮古墳に五世紀の牛形埴輪があると判明した際は、周囲も懐疑的であったが、その後、南郷大東遺跡でさらに古い骨が出土したことにより、この疑問は氷解した次第である。

四 大量渡来前史の意義

 右にみたように、牛馬は大量渡来に先立って、一定の前史的渡来をみていたことが明らかである。それはどう意義づけられるのだろうか。

 馬に関しては、古墳時代前期前半に渡来の第一波、中期前半に第二波があったかにみえる。現状ではいずれも小規模であり、またその間の経緯は不明である。第二波の渡来は、その直後からの大量渡来につながるものと理解するのが自然であるが、第一波の渡来はどう考えるべきだろうか。

 近年、次第に明らかになってきたことは、古墳時代中期の渡来系文物の大量流入に先立って、やや小規模ながらも、弥生終末期から古墳時代前期にも朝鮮半島系渡来文化の流入、つまり渡来人の足跡が認められることである[大阪府立弥生文化博物館二〇〇四『大和王権と渡来人-三・四世紀の倭人社会-』(特別展図録)]。それは同時期の北部九州への朝鮮半島系文化の流入と軌を一にしたもので、亀井遺跡に近接する大阪市平野区加美遺跡・八尾市久宝寺遺跡などで出土する韓式系陶質土器・軟質土器や、箸墓古墳を含む纏向遺跡で出土する韓式系土器、金属器生産の遺物(鉄滓・ふいご羽口)などにみられる。このような古墳時代前期の渡来人たちが、馬を連れてきたのであろう。

 こうして馬は、まだかなり珍しかったにせよ、次第に倭人社会で知られた存在となりつつあったことと思われる。それが、四世紀末か五世紀初頭になって大量渡来した直接の理由に、「広開土王碑」にみる倭王による朝鮮半島への出兵、高句麗の騎馬軍団との遭遇と敗走という経緯があげられるであろう[積山洋二〇〇七「牛馬観の変遷と日本古代都城」『古代文化』第五九巻第一号、古代学協会。]。

 一方、牛の初現は初期須恵器のころであり、馬の大量渡来と近似する中期であった。それが古代氏族の雄である城氏の本拠とされる南郷遺跡群で出土したことも興味深い。さらに、中期後半に山間部の但馬・船宮古墳で牛形埴輪の初現をみる。本来、埴輪は古墳葬送儀礼の道具にすぎず、ただちに船宮古墳の周辺に牛がいたことを証明するわけではないが、鉄輪まで表現したリアルな鼻づらの造形は実物を知らずしてできるものではない。中期には予想外に牛の導入が進んでいたのだろうか。思えば、当時は巨大古墳の築造が頂点を極めた時代であった。考古資料はまだ希少だが、おとなしいわりに力が強い牛が、局部的に古墳の造営に使役されることがあったのかもしれない。この点はまだ憶測にすぎず後考に待ちたい。