調査研究

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2009.04.21
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大阪の部落史通信・44号(2009.03
 

商業流通の要としての中世大阪と部落史


布引 敏雄(大阪の部落史委員会企画委員・中世担当)


中世大阪の「部落史」

 中世の大阪という、時代と地域を限定しての「部落史」。そういうものが在り得るとすれば、それはどういうものなのだろうか。

 まず中世の大阪という地域の特性は、この地域が商業・流通の地ということだ。中世という時代は、網野善彦氏などの諸研究によって明らかになったように、全国的流通網が成立しており、大阪はその要の位置にあったのである。

 しかし、いうまでもなく中世社会は領主が農民を支配するいわゆる領主制の社会だったから、商業・流通の新たな隆起は波紋を生んだ。なぜなら商業・流通の下における人間関係は金銭を媒介とするものであり、領主制支配とは異質だったからである。

 こうしてみると、中世大阪という時代と地域を限定しての「部落史」は、例えていえば、商業・流通を縦軸に、領主制を横軸として図解すべきものだと思われる。

中世前期の非人

 中世前期、早くもこの地域には商業が芽生え、非農業民たちが姿をみせている。そのうちに「非人」とよばれた人びとがいた。たとえば、勧進聖・重源によってなされた狭山池の改修工事には「道俗男女沙弥少児乞丐非人」が従事している。ここの非人とは「人」(支配階級)ともいえないような人びとといった程度の言葉で、非人とは、雑多な底辺の人々の総称であった。その非人のうち、宿場や港などの商業・流通の場で土木業や交通業、あるいは乞食などによって命をつないだ人びとを救済する活動が、律僧・叡尊や忍性によってなされたことはよく知られている。

地主制の展開

 中世前期にあって散所とよばれた地域は、馬借・車借や海賊など、物資輸送やその周辺に関わる人びとが居住した地域であった。中世後期にあっては現泉佐野市域における中世賤民もやはり商業・流通と深い関係にあった。中世の泉佐野周辺は、九条政基の日記『政基公旅引付』や「九条家文書」、さらに熊取谷の地侍・中家に伝存する土地売券などによって具体的中世史像を再現しうる稀有な地域である。

 地侍・中家は商業によって蓄えた財力により、周辺の田畑を買い集め、地主経営を行なったが、その中には中世賤民の所有する田畑もふくまれていた。中家はそれらを忌避していない。

 領主制にあっては開発領主への全人格的従属が基本であるが、地主制とは金銭を媒介とする人間関係であり、領主制の下での人間関係とは異質であったろう。そのことは当然ながら中世賤民への対応や視線にも違いを生じさせるはずである。結論的に見通しを言えば、賤民への対応や視線は領主制の下でのそれよりも、地主制の下でのそれの方が弱くなる可能性があろう。

斃牛馬処理権の再検討

 中家に集められた田畑の売券中には、中世賤民による斃牛馬の処理に関する文言が記入されていて、かつて三浦圭一氏の研究によって注目を集めた。しかし、この文言は藤田達生氏の研究によって近世初頭に書き込まれたものと判明した。それゆえ、無批判に中家文書を根拠に中世後期に斃牛馬処理権が成立しているとの立論には慎重であらねばなるまい。本文編では、「スヽメノハ(勧めの場)」など、三浦氏が斃牛馬処理権の範囲を示すとした文言を、熊野参詣の顧客に関するものとの推論を提示しておいた。

中世の終焉

 一向一揆も堺の町の繁栄も、ともに商業・流通の観点からいえば、泉佐野周辺についてのべたことと同質の事態が進行していた。

 中世の終焉とは領主制再編の完成であり、地主制発展の抑圧開始を意味する。このことが近世部落の出発点である。