1 後期都市大坂・堺の賤民法制
近世後期には、博(ばく)打(ち)が横行したり、町規制や村規制を軽々と逸脱する者が続出した。領主側は、取締まりのための法規制を強化する。被差別民の取締りに関しては、大坂では文化一一(一八一四)年四月五日付の「手先の取締り」が基本的な法令とされる。四ヶ所と「穢多村」が規制対象の基本にされていた。
大坂の髪(かみ)結(ゆい)床(どこ)は、牢番を担い、近世中期までは与力・同心の供廻りにも随行していた。やがて在方髪結も仲間に入れたが、これが天保一三(一八四二)年の株仲間廃止に抵触し、解散を命じられ、牢番役も免じられた。嘉永六(一八五三)年、再興されたという。
渡辺村の御用は、断罪役が中心であった。出張仕置もあった。行(ぎょう)刑(けい)については小頭という役職を置いていた。また、皮多身分の者が追放刑以下の量刑を科された場合、量刑相当の仕置を渡辺村が独自に行なった。
2 後期地域社会のなかの被差別民
近世後期になると、雑芸能者・勧進宗教者・都市下層民の総数と境界・周辺が曖昧なまま拡大されていくという特徴がみられるという。渡辺村や河内国富田新田が、本村や近村の警戒や反対にあいながらも土地を拡大していく様子も詳述されている。
3 被差別民の多様な生業
まず被差別民集落の農業実態について、近世中後期の摂河泉一四の皮多村と一つの夙村の詳細な所持高分布一覧が示される。その特徴は、無高の比率の高さ、高持のなかでの一石以下層の多さなどである。しかし、多くの皮多が様々な不利な条件を乗り越え、努力と才覚で、農業に励んできたことを明らかにしている。たとえば農雇いと小作・又作への大規模進出である。
その他、皮革関連業として雪(せっ)駄(た)作り・綱(つな)貫(ぬき)靴(皮(かわ)沓(くつ))作り・太鼓作りなどがあった。渡辺村の牛馬骨交易(肥料として摩藩へ売っていた)・筆作り・牛(ぎゅう)?(ろう)(?(ろう)燭(そく)の原料とされた)についても触れられている。
安政五(一八五八)年には、河内国更池村内皮多村や同国向野村内皮多村は、「屠者村」と称され、同年の別の史料でも、「向野殺生方」と呼ばれていた。また、皮多博(ばく)労(ろう)(牛馬などを売買・斡旋する人)が多数存在していたことが表で詳細に示されている。
4 被差別民抑圧「国訴」体制の構築
ここでは、皮多村の既得権であった草場権に対する、百姓村による侵害行為の事例が取り上げられ、また、皮多村内で先に見た博労層が力を持ち、村支配を行なおうとする動きが、摂津国下田村を例に叙述されている。
摂河泉地域は、近世後期、経済的要求を掲げた広域運動(国(こく)訴(そ)・くにそともいう)が展開されたことで知られているが、実はこの運動に先行して被差別民を規制しようとした広域運動があって、経済要求の国訴は、この経験の上に立って行なわれたという。
最後に、近代的地域社会の形成は、同時に「国民」の形成であり、それらは皮多を含む多様な被差別民を排除することによって達成されたのではないか、と近代への見通しが述べられ、締めくくられている。