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2009.04.21
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大阪の部落史通信・44号(2009.03
 

辛未戸籍の編成と戸籍改め


北崎豊二(大阪の部落史委員会企画委員・近代担当)


はじめに

 第十巻の近代は、一八六八年の明治政府の成立から一九四五年八月の敗戦までを叙述の対象とする時期としている。章としては、「十 明治維新と部落」(担当北崎豊二)、「十一 大正デモクラシーの時代と部落」(担当吉村智博)、「十二 恐慌から戦時体制へ」(担当吉村智博)の三章である。

 私の担当した十章では、辛未戸籍が重要なテーマのひとつであるが、紙幅の関係で詳述することができなかった。そこで、以下、辛未戸籍について少し述べることにしたい。

 堺県は明治四(一八七一)年三月、管下の町村に戸籍編製規則と戸籍の雛形を布達し、戸籍の編成を命じた。兵庫県も時期は若干ずれるが、堺県とほとんど同じ内容の戸籍編製法と雛形を布達し、戸籍を編成させた。他の多くの県(藩)でも明治四年に戸籍を編成しているが、その年の干支をとって、これを辛未戸籍という。

 辛未戸籍には、各戸の家族構成だけでなく、資産・産業(職業)・身分・嫁ぎ先や娶(めと)った妻の出身地なども記されており、明治初年の貴重な史料である。その反面、悪用されると部落差別に利用される恐れもあるが、『大阪の部落史』第四巻には、堺県の戸籍編製規則と非人番戸籍・穢多戸籍・小屋住非人戸籍の雛形を掲載した。同第九巻には、明治四年四月の「和泉国南郡池尻村戸籍」にある非人番戸籍を紹介した。同第十巻本文編でも、簡単ではあるが辛未戸籍について触れた。また、『部落解放研究』二〇〇九年四月号(第一八五号)の「堺県の辛未戸籍と三昧聖-明治四年五月の三昧聖仲間の嘆願書を中心に-」において、三昧聖だけでなく、非人や非人番が辛未戸籍でどのように取り扱われているか明らかにした。

 その他、研究する上で欠くことのできない被差別部落の辛未戸籍そのものが、三十年以上もまえに刊行された『大阪府南王子村文書』第一巻に収録されており、利用が可能となっている。

 このようなことから、大阪府内の辛未戸籍については、しだいに研究がすすみつつあるが、兵庫県については安達五男氏が「明治初年の戸籍についての研究-『辛未戸籍』と『壬申戸籍』の分析を中心に-」において多くの事例を紹介し、「解放令」発布前と発布後に編成されたものを比較し、検討することを提唱している(1)。

 奈良県内の辛未戸籍については、井岡康時氏が「大和国における辛未戸籍の編成について」において、高取県・郡山県などの事例を紹介するだけでなく、奈良県・五条県の戸籍編成の動きを明らかにしている。その上で、井岡氏は「一口に辛未戸籍といっても地域によって状況は実に多様であることがわかる。さらにこれら辛未戸籍と壬申戸籍との連続・不連続についてもていねいに検証し、論じていかなければならないだろう(2)」と、今後の辛未戸籍研究の課題について述べている。

 ここにきて畿内の辛未戸籍については、ようやく本格的研究の緒についたといえるが、まだまだ他の分野とくらべ研究が遅れている。そこで、今まであまり取りあげられていない辛未戸籍の戸籍改めについて少し述べることにしたい。

一 泉郡南王子村の辛未戸籍

 『大阪府南王子村文書』第一巻に収録されている南王子村の辛未戸籍をみると、その表紙と末尾に「明治四辛未年四月」と記されており、「解放令」発布前に編成されたものとみられる。ところが、堺県の穢多戸籍の雛形では、「穢多伍長」「穢多伍長誰組」「穢多何某女」「穢多誰ヘ嫁ス」などと、各所に賤称を記すことにしていたが、これにはそのような記載がない。私はこの点に疑問をいだき、『新修大阪の部落史』において「南王子村の辛未戸籍は、『解放令』が発布されるまえに編成されたと思われるが、賤称が記載されず、平民として取扱っている。南王子村の場合、どうしてこのようにしたのか。他の被差別部落はどうしたのか。今後、明らかにしなければならない問題である(3)」と述べた。

 この点について安達五男氏は、戸籍の「日付が明治四年四月となっていても、四年十月二日生まれの者が追記ではなく、はじめから記載されており、解放令発布の八月二十八日より後に編成されたと推定され(4)」るとし、「解放令」発布後に壬申戸籍に近い形で編成されたものとみている。

 しかし、堺県の諸法令によって明らかなように、南王子村を含む在方の戸籍の編成は、明治四年七月一〇日の時点で五、六ヵ村を残すだけであった。遅れていた堺市中でさえ、七月にはいると惣年寄がしばしば町々に戸籍帳の提出を督促し、七月二七日には残りの分を今明日中に提出するよう命じている(5)。したがって堺県の辛未戸籍の編成は、「解放令」発布前の七月末までに終わったとみるべきであろう。では、なぜ南王子村の辛未戸籍に賤称の記載がなかったり、四年一〇月生まれの者が記載されたりしているのだろうか。

 この疑問を活字化された南王子村の戸籍で解くことは困難である。戸籍編製規則や雛形と共に、現存する他の村々の辛未戸籍の記述内容を検討することにより、はじめてそれが可能であると思う。今回、複写したものではあるが、現存する辛未戸籍をみる機会が得られたので、その幾つかを事例としてここに紹介し、辛未戸籍の戸籍改めについて考察することにしたい。

二 戸籍編製規則と戸籍改め

 辛未戸籍は二部作成して一部を官庁に提出し、一部を各町村の「役座」に置くことになっていた。かつて堺県や兵庫県などの管轄下にあった町村に残っている辛未戸籍は、「役座」に置くことにしていた戸籍である。戸籍は一部を官庁に提出し、一部を「役座」にそのまま保管したのではない。戸籍編製規則には「戸籍ハ二通仕立一部ハ官庁江差出へし壱部は町村方役座に差置へし総て戸籍の上に出入生死の増減あらハ役座の分速に改め尤町場等増減多き土地は毎月晦日限届出官の籍を改其余之在村は三月六月十二月四季ニ届出相改べし」と記されている。したがって、出入や生死による増減があると、「役座」の戸籍は書き改められたのである。また、戸籍編製規則によると、出稼や奉公稼に出るものには附紙でその旨記すが、別家の場合は「新たに一家分の紙を綴入る」ことにしていた。代替りの節は「一家分新に惣張紙致し」書き改めることになっていた。辛未戸籍は編成直後から、加筆したり、削除したりするだけでなく、附紙したり、附紙を取り除いたり、新たに紙を綴り込んだり、総張紙したりしているのである。

 たとえば、「明治四辛未年六月 河内国若江郡□□村之内穢多戸籍(6)」では、戸主にも苗字が記されておらず、「穢多伍長」「穢多伍長誰組」などと記されており、雛形通りである。文政二(一八一九)年二月に嫁いだ叔母も名前へ墨点をかけて記すなど、明治四(一八七一)年までに縁づいたものや死亡したものも名前に墨点をかけて記している。その一方、忰・二男・厄介を記した後に「当未八月十四日出生」の娘を同じ筆跡で記しているが、二男の後でなく厄介の後であるから後筆のものであろう。その寺院僧戸籍では、四年六月のものとは別に「明治五壬申二月」と日付のある僧侶の戸籍も綴り込まれている。

 次に「河内国若江郡□□村戸籍(7)」をみると、各所に附紙をしたりして訂正したり、書き加えたりしているが、末尾の「明治四辛未年六月」のところに「明治四辛未年十月御改メ」と記した附紙があり、一〇月に戸籍改めをしたことが分かる。

 また、当時兵庫県に属した島上郡の被差別部落の「明治四辛未年六月」と日付を記している戸籍(8)をみると、すべての戸主に苗字を記しているが、その下に「穢多伍長誰」「穢多伍長誰組誰」というように記したものが透けてみえる。妻の名前の上にも、「同国島下郡□村穢多惣右衛門娘明治三午年娶ル」などと、兵庫県の「穢多戸籍」雛形の通りに記されたままになっており、「右寄」には「未十月改」から「申五月改」まで、毎月の戸籍改めの附紙がある。この戸籍でも、加筆したり、削除したり、総張紙したり、記載内容を編成後に大きく変えている。

むすび

 紙数の関係で具体例を多く紹介し得ず残念ではあるが、以上によって明らかなように、辛未戸籍も編成されてからしばらく、戸籍として町や村で活用されていた。それゆえ、辛未戸籍は戸籍を編成した時の状態で現存しているわけではない。しばしばどの戸籍も書き改めているのである。それも官庁の指示だけでなく、戸籍担当者の判断で取り扱いに差があり、現存する辛未戸籍は同じ府県の同じ日付のものであっても、記載内容が一様ではない。また、戸籍として活用したのが短期間であったから、戸籍編成の担当者と書き改めの担当者とが同一人物であったりするので、筆跡だけで後筆のものであるかどうか判断することはできない。南王子村の辛未戸籍も、「解放令」発布後にも書き改めが行なわれ、『大阪府南王子村文書』に掲載されているような記載内容になったと思われる。

 辛未戸籍は明治初年の貴重な史料であるが、一般の史料とは異なり、問題の多い史料である。この戸籍の特性、つまり戸籍編成後に書き改めているということを十分理解した上で、辛未戸籍を史料として利用しなければならないのである。

(1) 安達五男「明治初年の戸籍についての研究」(その1は『ひょうご部落解放』七九号、一九九八年、その2は同誌八六号、一九九九年、その3は同誌九二号、二〇〇〇年)参照。

(2) 井岡康時「大和国における辛未戸籍の編成について」(北崎編著『明治維新と被差別民』二〇〇七年)一四〇頁。

(3) 「大阪の部落史」編纂委員会編『新修大阪の部落史』下巻、一九九六年、五八頁。

(4) 安達前掲論文(その1)、七五-七六頁。

(5) この点、詳しくは拙稿「堺県の辛未戸籍と壬申戸籍」(『堺研究』二〇号、一九八九年)一六-一七頁を参照されたい。

(6)(7)(8) いずれも個人蔵。