十三章 戦後改革と部落問題
本章では、第七巻(史料編の現代1)の時期区分と同じ、一九四五年の日本の敗戦以後、一九六〇年までを扱った。戦後の民主的諸改革、例えば農地改革によって部落においても小作農の自作農化が進んだが、依然として差別意識が厳しいなか、部落解放大阪青年同盟や部落解放委員会・部落解放同盟などによる解放運動、同和事業促進協議会や行政担当者、教育現場による努力、部落内外での文化の取組みがあったことを述べた。
現代の叙述を一九四五年からとしたことについては、近年の歴史研究の傾向、すなわち戦前と戦後を輪切りにするのではなく継続した一つの時代として把握する流れからすれば、異論があるかもしれない。
しかし、『大阪の部落史』史料編の編纂が始まったのは一〇年以上前であり、しかも戦後を対象とする第七巻から発刊が始まったわけで、その時点ではそれ以外の時期区分の可能性を近代担当の企画委員の皆さんと議論・協議することもできなかった。私も、戦後の民主的改革によってすべてが一変したと、以前のようには考えているわけではない。部落の実態についても、差別意識にしても、運動や行政にしても、資料で読取れる範囲ではあるが、できるだけ戦前・戦時下との連続・継承性を意識して執筆したつもりである。
たとえば部落解放をめざした運動について言えば、初めに解放委員会や解放同盟ありきでその他の「遅れた」人びとがそれに付いていったのではない。戦前から続く強い共同体が残存するという現実のなかで、多くの人びとはまず考え運動を始めたのである。そうした努力は「解放運動」と謳ってもいないし当事者も意識していなかったかもしれないが、大きな意味を持っていた。だからこそ、ムラの中では少数派であったに違いない活動家たちが解放委員会や解放同盟に結集したことが、光を放っているのでもある。
ところで私が初めて部落を見た記憶は、今も鮮明に生きている。一九五〇年代の末、一〇歳のころであろう。その時は、そこが被差別部落だとは知らなかったし、そう意識したわけではない。東京で生まれ育った私は、被差別部落という地域も部落差別という社会問題も知らなかったが、ある機会にある国鉄の駅に降りると目の前に大きな池があり、その向こうの小高い丘の中腹に大きなお寺の屋根がそびえ、それを取囲むように屋根のみが密集してみえる集落が、周辺の地域の家並とは隔絶して見えた。
それが、私にとっての部落の原風景とでも言うべきものである。そうした景観はかろうじて何枚かの写真に記録されてはいるが、多くの人には具体的にはイメージしにくいかもしれない。
本章を執筆するにあたって、部落問題とそれなりに長い時間かかわってきた人間として、こうした私の実感というか皮膚感覚というか、そうしたものを読者にも伝えておかなければならないと考えた。失業対策事業を「ニコヨン」と呼び、それに就労したことを、赤飯を炊いて祝ったなどということを、根拠となる資料を明示せずに書いたのは、そうした意図による。おそらく通常の歴史叙述、部落史の本文編の記述としては異例なことだが、お許しいただきたい。
十四章 高度経済成長と部落の変化
現代部分の後半は、一九六一年から七四年までを対象としている。これも、第八巻(史料編の現代2)の時期区分に対応している。高度経済成長というこれまでに経験したことのない新しい状況のもとで部落が大きな影響を受け、運動体が新しい方向を模索し、国の同和対策審議会答申を経て運動・行政・教育の取組みが花開く。
国の同和対策審議会の答申がでた一九六五年が部落問題を考える際の大きな区切りになるという意見は、通説としては理解できる。同対審答申によって、それまで知られていなかった部落問題が広く知られるようになり、部落差別をなくす取組みも広がり、部落解放運動はすっかりメジャーなものになった。亡くなられた盛田嘉徳先生であったか、以前は「どうわ」教育といえば「童話ですか。グリムですか、アンデルセンですか?」と聞き返されることがよくあったと聞かされたことがある。
しかしそれでも、日本の社会で部落が占める位置、部落問題が持つ意味が変わったのは同対審答申や同和対策事業特別措置法ではなく、一九六〇年以降に本格的に始まる高度経済成長による日本の社会の構造的な変化によると考える。だからこそ、解放運動や行政の変化を示す際の次の節目は、特別措置法が失効した二〇〇二年ではなく、石油危機によって高度経済成長が終えんする一九七三年ないし七四年だ、というのが今の見解である。その後、今日に至る年月を数えると三〇年以上になる。「その時期こそ、知りたい!」というのが多くの人びとの期待でもあろうが、私の能力が足りずそこまで至らなかった。
実は、一九六一年から七四年までに限定しても、これを歴史として叙述することは、私の力を超えている。ひとつは、現代史の研究が近年進んできたとはいえ、一九六〇年以降を対象とする研究は始まったばかりであり、部落史について言えば皆無に近い。通史の叙述は、実は広範な資料の探索と紹介、綿密な資料批判に基づく研究なしには難しい。
また、『大阪の部落史』の編纂事業が大阪府と大阪市の財政的な支援があって可能になったことから、記述にあたっては政治的にデリケートな問題については言葉を慎重に選んだり、参考文献を示すにとどまった場合もある。「階級闘争を強調するグループ」などという表現は、その例である。
そして確かに、この時期の広い意味での部落解放の取組みは、「どうわ」は童話ではなく部落問題のことであり、「じんけん」は人造絹糸ではなく人権問題のことなのだと多くの人びとに当たり前のように受止められる状況を作りだした重要な時期であるが、同時に、部落解放運動と同和事業のかつてない進展にあわせて、この数年来多くの人びとから指摘されているようなさまざまな問題を生みだす要素あるいは要因を抱え始めていた時期でもあった。
もちろん、そのことをもって過去の歴史を全否定するつもりはないが、この現実を無視して今に生きる私が歴史を語ることも許されないだろう。十四章は、そんな思いのなかで揺れている私自身の「自画像」とも言える。
それにしても、本文編の現代部分の叙述が短く、しかも不十分なものになったことをお詫びする。差別事件の個々の内容について触れられず、関係する史料番号を示すにとどまったことも多々あった。
執筆と編纂を終えて
ともあれ、本文編として『大阪の部落史』第十巻を刊行し、大きな荷物を下ろす時が来た。委員長の上田正昭先生が「刊行にあたって」と「完結にあたって」でも強調されているように、『大阪の部落史』の編纂は直接には一九九五年から始まったが、その前段として「大阪の部落史」編纂委員会が発足したのは一九九二年であり、それから数えると一七年を数える。
私事を述べて恐縮だが、一九九二年といえば私が部落解放研究所の職員を辞した年である。それはいろいろと事情があってのことだったが、その後、研究所の仕事をお手伝いしながら、また途中いろいろ各方面にご迷惑をお掛けしつつも、幸い今日に至る。
『大阪の部落史』は史料編のうち現代部分から刊行が始まったから、現代部分二冊の史料編を編集すればお役御免になる積りだったが、実際にはそうはいかなかった。以後、今日まで、私は現代担当の企画委員といういわば執筆者・研究者の立場と、事務局として他の時代の史料編および本文編の編集をお手伝いする立場と、この二つの立場の間で揺れ動くことになった。ここ数年はほとんど事務局としての動きしかできなかったのが現実である。そのシガラミからようやく解放されることが、今はなんとも嬉しい。
最後に、この間にお世話になった企画委員の皆さん、史料編の編集や本文編の執筆に協力していただいた皆さん、史料調査や史料の翻刻・整理などにアルバイトなどの形で協力してくださった皆さんに、改めてお礼を申上げる。