和泉国日根郡熊取谷大浦村で代々三昧聖職を続けてきた家に伝来した文書で、一部婚姻関係にあった林家(信達庄岡田村)文書が含まれる。1992年9月に蔵の解体によって存在が知られることになり2003年貝塚市教育委員会に寄贈された。総点数は947点でそのうち前近代文書は約3割である。『貝塚市古文書目録』1に経過と全点の詳細目録が収められている。
和泉国三昧聖は、上・中・下組の3組(当初は上・下の2組)の仲間からなり、熊取谷は中組に属した。近世後期では上組24・中組13・下組18の集落(数戸の場合も含む)からなる。おおむね大鳥・泉郡は上、南郡は中、日根郡は下組に対応するが、熊取谷が日根郡にありながら中組に属したように厳密には出入りがある。熊取谷は「公にては八ヶ村、私にては十五ヶ村」(『拾遺泉州志』)という表現のごとく、高をもつ村としては8ヵ村、けれども住民の帰属意識としては15ヵ村からなる。別の史料には聖は大浦村に居住し、墓郷は大浦村を含めて宮・下野田3村で構成され、これとは別に「出勤墓」として8ヵ所があったとある。
『大阪の部落史』第一巻近世1の第一編八章には由緒書類と折紙類、及び検地に際して聖たちが由緒・先例を申し立てて広域にわたる訴願を展開した貴重な記録を採った。厳密な史料批判が望まれるが、重要なことは、聖武・行基から始まる彼らの権威づけが、何時からか先例として時の権力者から認知され、少なくとも岸和田藩にあっては墨付が出されていること、正真正銘の折紙を獲得するに至っている点である。