河内国丹北郡城連寺村(現松原市)庄屋家に伝存する文書であり現在は松原市教育委員会に寄託されている。市史編さん室がマイクロ化に合わせて作成した文書目録では袋・包紙なども一点と数えて近世は土地・戸口などの分類で2847、近代は編年で1954点、合計4800点に上る。近代はすべて町村制以前のものである。近世は文禄検地帳を除くと寛文年間以降の文書からなる。幾度か大洪水に見舞われており文書も被害を受けている。
本文書の存在は早くから知られていた。矢田部落史研究会編『城蓮寺村文書目録』(矢田同和教育推進協議会 1974年)、同編『矢田部落の歴史』(同 1978年)で明示されていたからである。同目録では1000点余が挙げられている。興味深いのは文書そのものに皮多・穢多表記や肩書きのないものが少なくないことである。たとえば『大阪の部落史』第二巻の口絵に使用した「城連寺村御田畑大絵図」の大和川北岸の桃色部分が皮多村集落に当たるが、身分表示は見当たらない。
皮多の集落は宝永元年に付替られた大和川の新しい流路にあったため、立退きを余儀なくされて、埋立てられた旧西除川川床に、帯状に宅地と耕地の代替を得た。移転にともない枯木村支配から城連寺村支配に変わるが、一部住民は枯木村地に留まったようである。そのため皮多集落の大半は枝郷として城連寺村の支配下に置かれたが、皮多の全員が城連寺村に支配されたのではなかった。したがって宝永以前の文書には関係史料はほとんど含まれない。そして、皮多村の全体を視野に入れて考察する場合には配慮が必要になる。
また、幕末には住居地が手狭になり矢田部村に屋敷地を拡大している。その要因となった人口増を史料からみると、移転30年後の元文元年「村明細帳」によれば本村42戸198人に対して皮多44戸206人で本村とほぼ同規模であったが、幕末には本村の戸数人口は大きな変動がないなか皮多は60戸300人を越える(いずれの場合も枯木村分は含まれていない)。
『大阪の部落史』第二巻には移転直後の史料群とお救い米に関する史料を収録した。