摂津国住吉郡平野郷町は中世惣村として形成され、近世には在郷町と位置づけられた。本郷7町と散郷4村からなる。前者は野堂・流・市・背戸口・西脇・泥堂(でいどう)・馬場の各町、後者は新在家・今林・今在家・中野の各村である。町ごとに会所と年寄、村は年寄を置いたが、郷町の運営機関として野堂町に惣会所が設けられた。史料を現蔵する杭全神社は近世平野郷町の産土社で代々惣年寄が神主代を勤めた。
大阪市史編纂所の調査によれば文書点数はおよそ600点、冊子が大半を占める。その中心は郷町全体の記録である『覚帳』120冊(うち1冊は表題が異なる)である。このほかに背戸口町の宗門改帳を主とする戸口史料180点余が含まれる。『覚帳』は宝永元(1704)年から慶応元(1865)年までの御用日記の性格をもつ。調査は所蔵者の了解を得て前記大阪市史編纂所が収集された写真版でおこなった。
津田秀夫「後期封建社会に於ける平野郷町の人口の変遷」(『ヒストリア』2号 1951年 のちに改題されて『封建社会解体過程研究序説』塙書房 1970年 所収)が『覚帳』を主たる史料として「エタ・非人・隠亡」人口の推移を追っている。