摂津国西成郡津守新田は、貞享~元禄の大規模河川工事の一環として十三間川を直線化した時期に、右岸に開発された新田の一つである。元禄15(1702)年に検地竿入れが行なわれ、反別72町余の広大な地所が確定した。高445石中畑高が313石を占める畑勝ちの土地で、明和8(1771)年には75軒316人、人口規模は天保15(1844)年でも家数は78軒とあまり変化はないが、人口は530人に増加している。
白山家は新田開発の請負人であり、代々支配人の地位にあった。明細帳でも村名がないように高と年貢を上納する事実上の村でありながら役人名も庄屋でなく、支配人制をとり会所で運営され、地主経営が大きなウエイトを占めていた。また十三間川は多くの船舶が通行する重要な要路であり、国役普請堤に指定されていた。新田は通船の妨げとなる小舟の繋留を見回るなど管理責任を負い、堤番人2人を置き非人番1人と連携してパトロールを行なった。
白山家に伝来した文書は、現在は白山殖産株式会社が管理している。関係史料は大別3種類からなる。1つは十三間川対岸に当たる渡辺村に関する新知見、2つめは堤番人もいれて実質3人の非人番を置いていたためその実態が記録されたもの、3つめには大坂座頭組織からの勧進に対して組合村が留場制を敷くに至るが、その前史も含めてまとまった一件記録があった。