大坂三郷には四つの垣外集落があった。これを四ヶ所と呼んだ。そのなかでも四天王寺と特別の関係をもち、文禄3(1594)年の検地で3反8畝12歩の屋敷地除地を受けた天王寺村内の囲い地を天王寺垣外もしくは悲田院といった。元禄11(1698)年に189軒600人の規模であり、村に比定すれば大村といえる集落であった。本文書は、この集落で代々長吏を勤めた家系に伝来した文書群である。古書肆を通して関西学院大学文学部教授であった藤木喜一郎の入手するところとなったが、大学紛争の過程で氏が精選して別置しておいた一部が流出した。
そのうちの200余点が大阪府立中之島図書館に購入され、これが岡本良一・内田九州男編『悲田院文書』(清文堂出版 1989年)として刊行された。残る文書については、大学紛争時全体が水びたしになり、藤木の手で焼却処分されたとの証言もあった。その時、藤木の手元に残されていた史料の点数は不明であるが、死後、1200点余の悲田院関係文書は、他の藤木旧蔵文書の一部とともに神戸市立博物館に購入された。上記の刊本分と区別するため天王寺長吏文書とした。全国的にみても「非人」身分が作成し伝来した文書群として唯一のものといえる。
刊本分との際立った違いの一つに年紀がある。前者は、ほぼ全部が年紀を有するのに対して、後者の6割は年欠文書である。幸い悲田院の場合、代々の長吏名が異なっており、それによって幅はあるが年代を推定することができる。『大阪の部落史』第二巻の七章「四ヶ所長吏制の展開と非人番統制」に年欠かつ推定年紀が明らかでない文書であるにもかかわらず収録したのは、刊本に収録されている関連文書に長吏名があるなどの理由による。
すでに一部が刊本になっているが、本史料編に収録する点数も限られることから、長吏文書研究会が組織されてこの類例のない貴重な文書群の全点刊行が計画されている(2008年5月、『悲田院長吏文書』として刊行された)。