本報告は、5月30、31日に行われた「大阪における解放教育のあり方」研究会で東京大学教授の佐藤学先生をお招きした講演会での内容を(1)「教育改革の現状」、(2)「学びを中心にすることの意味」に関わる部分にしぼって、まとめたものである。以下、要旨を紹介する。(文責:事務局)
(1)教育改革の現状
1つ目は、公教育のスリム化論。スリム化という名のもとに、教育予算がさらに大幅に削減されると考えられる。
2つ目は、市場原理の導入。これは個性化教育という形でどんどん浸透してきている。しかし、今の教育が、本当の意味での個性化教育になっているかどうかは疑問であり、個性化という多様化が個々人をバラバラにしてしまっているように思われる。確かに、学校の自由競争化は、学校内にある種の活性化をもたらすことになると思われるが、それが子どもたちをどの方向に持っていくのかはよく考えてみる必要がある。
3つ目は、新しいナショナリズムの問題。個人主義が徹底すればするほど、あるいは経済がグローバル化し国境がなくなればなくなるほど、新しいナショナリズムが問題になってきている。
4つ目は、強い自己、自立的な自己の強調。今の子ども達は、自分の世界や自分の欲望に固執して、自分のこと以外には関心がない、といった状況から抜け出せないでいるように思われる。大人になる通過儀礼をくぐれないことでのもがきやしんどさと、どう付き合っていくかは教育上の大きな課題である。それには、つまづきとか、これだけは絶対にするとかいったことの持つ積極的な意味をていねいに取り上げていくことが大切である。
5つ目は、中高一貫校の導入、飛び入学の問題である。中高一貫校の問題は、学区制の崩壊や受験の低年齢化に関わる問題である。いくら進学校でも受験校でもないと言っても、受ける方はそうは思わないため、ますます競争原理を加速することになると思われる。飛び入学に関しても、教科は数学と物理に、しかも博士課程のある大学に限られており、多く見積もっても2,000人の枠であり、全くの例外措置だと言える。
(2)「学び」を中心にすることの意味
1.「学び」にとって重要なこと
「学び」にとって一番重要なのは、「つつましやかさ」であり、「注意深さ」や「聞く力」であり、小さな違いの中に様々な色合いや味わいを感じとることである。
その「学び」の根本にあるのが出会いと対話である。
その第1は、「もの」の世界との出会いである。「もの」が喚起する力は無限であり、教材の世界や文化・芸術の世界といった、「もの」との出会いと対話を重ねることを大切にすることである。
第2は、仲間との出会いと対話である。教室に複数の子ども達がいることは「学び」を豊かにする。「学び」をめぐる関係がきちんと作れているかどうかは、教室の「学び」を貧しくもし、広げもする。そうした意味でも、対人関係や横の関係というのは非常に重要になる。
第3は、自分自身との対話である。教室の中で絶えず自分の存在というものをきちんと位置づけることができることである。それには、人との関係の中で絶えず自分を見つけ出し、さらに自分という人間を絶えず崩して、前に進められることが大切である。
文化や世界と対話し、仲間と対話し、自分自身と対話する。この関係を通常の授業の中で作っていこうというのが「学びの共同体」である。これからは共生の時代と言われているが、共生の出発点はお互いの違いを尊重し合うことからである。
お互いがまるごと響き合える関係を子どもの時から訓練していくことは必要なことであり、私達自身がそんな社会を作っていけるかどうかである。それには、まず、学校が「学び」の場でなければならないし、そして地域に学校をもう少し開いていくことで、より重層的な厚みを持った学びの関係を築いていくことが大切である。
2.「学びの共同体」づくりの課題
第1は、自分の存在意義や生きていることの意味(アイデンティティの問題)である。それには、人とのつながりをどう作っていくのか、その場所をどう作っていくのかといった共同体づくりが課題である。
第2は、伝達の効率化が日本の学校を支配している問題である。実はそれが、差別や序列化を生む一機能になっている。世界ではすでに、個人の作業を中心に共同的な学習を組織する授業へと変わってきており、少ない教育内容を深く学ぶといった考え方になってきている。
第3は、カリキュラムそのものの見直しである。例えば、アメリカのオープンスクールは、複式学級といった形で、同じ内容を2年間かけて学ぶといったカリキュラムになっている。伝統的なフランスでさえ、カリキュラムを2年単位で緩やかに考えるといった改革が進められている。19世紀型の伝達中心、競争中心の学習形態、授業形態からの脱却を図る必要がある。
第4は、教育するものと教育されるものといった関係が一向に変わっていないといった問題である。最近では、教育学も教師を中心にした研究になってきており、教育学を子どもの問題としてではなく、教師や大人の問題として考えるようになってきている。「学び」や「学びの関係」をどう築いていくのか、大人と子どもとの関わりをどう作っていくのか、そこに地域の人たちとの関係をどう位置づけていくのかは、学校を地域に開くといった観点からその全体の関係を見直す中で考えることが必要である。
3.階段型学習と登山型学習の違い
次に、「学び」を競争の過程の中でしか理解しないような枠組みをいかに打開するかである。そのポイントの1つが目標達成評価モデルからの脱却である。目標達成評価は階段型の学習と名付けることができるように、階段型の学習の場合、学習形態は非常に一元的であり、評価もしやすい。その意味では、非常に効率的で、内容を消化するには非常に有効だと言える。
それに対し、もう1つは登山型と言われる学習形態である。登山型は、ある主題をもとに、それぞれが様々に学習するといった形態である。山へ登る道にも、初心者コース、森林浴コース、沢登りコース等といろいろあるように、共通の主題をもとにそれぞれが違った経験をしてよいわけである。階段型との違いは、この経験そのものの意味が問われ、経験そのものが価値を持つことである。
当然、教師の役割も変わる。教師に1番重要となるのは、その山の魅力を1番よく知っていることである。要するに、旅の案内人のようなものであり、子どものつまづきに対してきちんと援助ができることである。登る山を選択すること、山のぼりの経験を大切にすること、さらにその経験を表現すること。その表現そのものが評価のプロセスになる。
最近のアメリカの高校では、テストで評価せずに、学習成果をレポートやブックメーキング(本づくり)といった形にして発表させ、その質を評価するといった運動が進んでいる。
4.学び上手な子どもを育てる
分かったことをお互いが分かち合い(=ケアーし合う)、教室の文化に作り上げていく、それが「学びの共同体」の意味である。共同体というと何か画一的なイメージで使われがちだが、そうではなく異質なものが響き合うことであり、あくまでも学びは個人、個から出発して個に戻るということである。
今の子ども達は「もの」への関心がすごく薄らいでいる。その子ども達に必要なのは、「もの」を注意深く調べることであり、そのための柔らかさや異質なものに対する感受性である。それをていねいに作り上げていくことである。その中で、友達とすり合わせていく力、つながりを作り出していく力、喜びとして表現できる力、新しい自分自身のイメージを絶えず確かめていく力を育てていくことが、学び上手な子どもを育てることである。