現在、同和教育と人権教育の関係について、混乱している実態があることを踏まえて整理してみたい。
過去に、「荒れ」との格闘の中から産み出された「わかる」授業づくり等の実践や部落問題学習等の体系化の時期を、カリキュラム改革のパート1とする。そこでは入門期教材の開発等、かなりめざましい成果を挙げたといえる。しかし、それが「古い学力観」の中での「わかる」授業になってしまっていたということも、課題としてあった。
そのことから概念の再整理が必要であると言える。すなわち、1点目は人権教育と同和教育の関係であり、2点目は学びの意味である。
現在は2002年学校5日制に向けて、カリキュラム改革のパート2の時期である。その中身としては、まず、特色ある学校づくりなど人権教育への多様なアプローチの創造。
次に、人権教育教材・手法の開発がある。ただし、それらの教材や手法は、あくまでも学習をのきっかけや動機付けを仕掛けていく装置である。3点目は、人権教育推進体制の再構築である。
そして、4点目は、自立困難層に焦点を当てた取り組みである。従来の同和教育は最もしんどい子に焦点をあててきた。この視点は抜けることがないようにしたいものである。
更に、改革を進めていく際に、多くの現場で問題に成っていることを整理する事ができれば、と考えている。
参加型に関しての議論は、現在ある程度落ち着いて来たと言える。
学校論を巡る課題としては、集団づくりの大切さを改めて見直す必要がある。これまで、集団主義教育の細部にわたる検討が少なかった。
カリキュラム論を巡る課題としては、総合学習の多様な展開ということがある。参加型についてはもっと現場から新しいものが作られるであろうと期待していたのに、なかなかそうなっていないが、総合学習の場合はそういうわけにいかないだろう。
同和教育と人権教育の関係については、かつての山脈モデル、アンブレラモデルの不評を踏まえ、今回はコスモスモデルを提示したい。コスモスの花心が人権教育であり、その花びらの1枚に同和教育がある。茎や葉も人権教育で、栄養を吸い上げている。
しかし、花心や茎や葉も同和教育であるとも言える。様々な教育課題を結びつけるのが、人権教育である。現在は花弁を強調すべき時期に来ていると言える。
その様な概念のもとに、カリキュラム論上の問題として多様性教育と総合学習を挙げたい。この場合の多様性教育は個人を前提としており、集団を前提としている多文化教育とは意を異にするものである。
行政組織では同和から人権へ思ったより早いかわり方をしているが、その中身を問うていかねばならない。