意識しにくいところを鏡的に捉える意味で、アメリカと比較してみたい。
授業が成り立つ前提を考えた時、授業を見れば見るほど、授業そのもの以前の問題を感じる。例えば、大阪のある中学校の例だが、授業は成立している。しかし、子どもが授業を聞く様子はない。ラジオのついたペンを耳にあてて聞いていて突然大きな声を出す子もいる。制服を着ない子もいる。また、先生を「さん」付けで呼ぶ子がいる。机には落書きがある。ジュースとお菓子を持っている。漢字は殆ど読めない。
また、ある学校では「活動のある授業」と称する数学の授業を見た。しかし、数学的活動とはプリントをホッチキスで止める作業であった。数学は積み上げの教科であろう。何も問われないまま、学年を進行してしまっている実態がある。
日本の子育ては「いい子主義」「気持ち主義」の原理に基づき、受容的勤勉性を重視する。アメリカの子育ては、原理原則主義に基づき、自主的選好性を重んじる。現在は、いい子主義がなくなり、気持ち主義が甘えを生むことになっている。
また、日本の授業は、表のように発問主義に大きく依存している。しかし、子どもの側は質問をしない。問うのは教師だけ。問える子どもを育てねばならない。話し合い主義も日本に固有である。ペーパーテストではかれる学力は日本はアメリカと比較しても高得点であるため、日本の授業が優秀であるとして、アメリカでも日本に似た授業をする動きもある。アメリカは、能力主義、個人主義である。
日本の一斉授業にもすばらしいものがある。始めにその日に学ぶ目的が提示されているアメリカの授業と比べて、思わず子どもが引き込まれていつの間にかその日の目的にたどり着いているようなすばらしい授業が日本にはある。しかし一方、現在の子どもの実態を見れば、本当に学力をのばす為には、ある種の能力的編成はやむを得ないのではないかと思う。