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大阪における解放教育のあり方研究会・学習会報告
1999年09月01日
日米マイノリティー教育の現状と課題
〜ジョン・オグブ氏を囲んで〜



オグブさんの紹介

 池田寛(大阪大学)さんより、オグブさんの紹介が次のようにされた。John.U.Ogbuさんは現在カリフォルニア大学バークレー校人類学部の教授である。80年代の数多くの論文の理論的な精緻さは広く知られており、アメリカのマイノリティー教育をリードしている彼の研究は、世界のマイノリティ教育の研究の中でも、日本の同和教育を考える上で1番近いと思われる。

オグブさんより

 マイノリティー教育の研究を30年間してきた。最初にお伝えしたいのは私は人類学者であるので、教育を変えよう、社会を変えようという研究関心ではなくて、何が起こっているのかを明らかにしてみようとしている。

まず、マイノリティーがどういう被差別的な状況にあるのかを明らかにし、学力への影響を明らかにする。その研究を通じて、差別的な体験が子どもにどういう影響を与えるか、特に子どもたちの学力への影響を明らかにしようとしてきた。

アメリカだけではなく、日本の状況、部落の状況等にも興味を持った。1978年の本『Minority Education and Caste』に部落について書いた1章がある。その本では、ほかの国のことにもふれている。

 1980年代には違った関心が生まれた。マイノリティーの中でも、社会においてうまく上昇しているグループ、そうでないグループがある、それはなぜかということである。そこからマイノリティーには、「自発的」マイノリティーグループと「非自発的」マイノリティーグループ、「移民」グループと「非移民」グループがあることがわかった。被差別部落の場合は後者である。

 その研究のためには歴史的な位置づけや相違をみていく必要があるし、様々な情報源からデータを入手する必要がある。1988年から移民グループの例として中国人系、非移民グループの例として黒人、中間の例としてヒスパニックを対象に有名な財団の援助を得て、大規模な調査を行っている。

 マイノリティーの学校での状況を知るためには、そのマイノリティーが「自発的」か「非自発的」かを知ることが大切。2〜3年観察する。人間を観察する事で考えや行動を理解しようとしている。

 「移民型」マイノリティーにも問題はある。しかし両者では問題の質が違う。その違いをしっかり認識する必要がある。望んでマイノリティーになったのではない。そこが部落問題等ではほかのマイノリティーの問題と異なっている。ほかにも様々な考えはあるが、自分は比較によって明らかにしようとしている。


討論

(質問)自発的マイノリティーと非自発的マイノリティーの違いは。

オグブ―例えば、1970年代以降難民が増え、日本ではニューカマーの人たちが増えているが、周囲の対応は部落の人への扱いと全く違う。また、たとえニューカマーと部落の両者が社会において同じ扱いを受けたとしても、ニューカマーの人たちは「観光客的な」対応をする。

旅行者としての見方とは、自国のアイデンティティーや文化を持っていて、その国の文化や言葉を学び適応しようとする。そのことが自国の文化を破壊するものではないのである。だが部落の場合、自分の文化を固持しようとする。

移民集団にしても非移民集団にしても主流社会の言葉を大切と思っているが、後者は主流社会の言葉を話すことで自分の価値が消えていくような、マイナスのそんな見方をしているところに大きな違いがある。



(質問)オグブ先生の対抗的カルチュラルモデルはある種の悲劇的シナリオとなる要素をはらんでいるが、それを変える要素はどこにあるのか。

オグブ―まず明らかにしたいのは、文化という言葉を使うのは多くの人のパターンを表しており、すべての人が同じ行動をとるわけではない。中には、グループのメンバーをひとまとまりにして考えているという批判をうけるが、集団の中には個人差がある。すべて同じ行動をとるわけではない。

しかし、多くを調べることでパターン化ができる。どうしたらよいか考える上でパターンを考え、集団を考えるのである。

 どの言語にも価値があるが、日本人がアメリカにいったら英語、中国にいったら中国語を身につける必要に迫られる。それは優劣の問題でなく、その社会で生きていく手段。日本のニューカマーの場合も同じ。日本語を身につけるのは日本で生きていくためであり、日本語を身につけるとき、対抗的アイデンティティーは形成されない。

しかし、非移民集団にとっては、言葉を学ぶことで、自分自身の行動や言葉をあきらめなければならないような恐怖感すら抱く。



(質問)大阪の部落でライフヒストリーを研究している観点で。部落自身がカースト的マイノリティーというのはその通りだと思う。文化的違いというのは何らかの形で感じているが、文化的違いはイコール対抗的文化になってしまうのかどうか。それと関連するが、反差別の立場で対抗的な文化は当然生まれてくるが、反差別でありながら市民の主流にどうなっていくのかという意識が部落問題の場合は強かったのではないかという感じを持っている。そのあたりはどうみておられるのか。

オグブ―アメリカの差別の状況は様々な対策によって変化し、中には人種差別はなくなり、あとは社会階層の問題だというものもいる。しかし、アファーマティブアクションがあっても会社は嫌々マイノリティーを採用する状況。マイノリティーも主流社会に受け入れてほしい気持ちがある。しかし、そのために自分の行動パターンをあきらめてしまうのは問題がある。

 被差別部落では社会的に成功を求める人々がコミュニティーをでてしまうという話を聞いた。その点をもっと知りたい。マイノリティーの人たちが主流になりたいと思う気持ちの根底には平等に受け止めてほしいという気持ちがある。「私たちは白人のまねをしたいのではなく、黒人として認めてほしいのだ。」ということ。

主流集団と自分たちの言語の狭間にあって揺れ動いている人たちもいる。マイノリティーによって言葉、文化を身につけるということの意味は違う。重要なのはそのために何を代償とするのかということ。大切なことはマイノリティーの人がマイノリティーとして受け入れられること。そのためにはマイノリティーの成功者を生み出すことが大切。マイノリティーの中から成功者がどんどんでるのをみれば、自分たちの文化をあきらめる必要がないことがわかるし、主流社会からもマイノリティーに対する見方がかわってくる。どのように自分たちを社会に映し出していくか。

 自分は研究者である。自分の研究の中で様々な種類のマイノリティー集団がいることを明らかにするよう心がけている。自発的か否かで抱える問題は別。それぞれの抱える問題を認識する事が大切。学校に関心を持っているが、歴史を始め広く社会を研究の射程に入れている。今研究していることを論文にまとめているが、状況を変えていけると自分は信じている。第一にそのためには問題の認識をすることである。マイノリティー集団は平等を求めている。

 そのための方法は2つある。1つは差別と闘い続けること。同和対策事業などの措置だけで差別はなくならない。もう一つはマイノリティーグループの中でどうしていくかということ。自分自身の持っているものに誇りを持ちながら社会にでていく。方言や文化や価値観をうまく利用して社会の中にでていく方法を獲得する。

 部落で成功した人にはコミュニティから消えてしまわないように考えてもらう。主流集団のように振る舞う必要はないことを示す。主流集団の基準にあわせず、自分たちの力を発揮して社会にでていくのだ。成功した人に地域にかえってもらうことで、モデルの役割をはたしてもらう。その中で主流集団の見方もかえられる。

(N.T)