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2008.04.10
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「職業と世系に基づく差別」に関するプロジェクト
2006年2月19日

ラテンアメリカにおける人種主義と職業

崎山政毅(立命館大学)

ラテン・アメリカには人種主義に関する文献が非常に多くある。しかし、本日のテーマと関連することとして、これまで皆さんが収集した文献をふまえ、どのような文献が適切か選別したい。私の研究の専門はラテン・アメリカ思想史の研究である。その他、人類学的および社会学的な現地調査を行っている。この点からすると、私が言うラテン・アメリカとは、固有の条件を調べている人類学者と違いカリブ海領域を含めた非常に大きい領域である。この点については、メリットになるところとデメリットになるところがあり、みなさんとの質疑応答を通し指摘をいただければと思う。

 これは私の確信の一つではあるが、差別についてはマクロな社会的構造や歴史的構造が存在する。一方で、その差別が発生するミクロな点も考える必要があると思われる。本日の報告では、ほとんど触れることはできないかもしれないが、ラテン・アメリカにおける社会的差別に関して最も激烈に現れるものとして、実はセクシャリティーをめぐる差別がある。アルベルト・フジモリが大統領の頃の1990年代初頭に、ペルーの日本大使館占拠事件が起こった。

この際、これはほとんど日本のマスメディアには報道されることがなかったが、同性愛者のことに関する問題が生じていた。多くの同性愛者を擁護する人権団体の人々が誘拐され殺害されるような状況が起こった。そのころのラテン・アメリカは右翼と左翼に二分されていた。このどちら側の勢力においても、同性愛者は「裏切り者」で信用できないということで、社会的秩序を乱すものとして見られていた。このようなセクシャリティーに関する差別の事実は職業と世系に基づく差別に連関しているものである。このため、本来であればミクロな意味での差別に関する報告をしたいのであるが、本報告ではラテン・アメリカ全般に関する職業と世系に関する問題を取り上げ、みなさんと質疑応答を通し、ミクロな問題へも目を向けたいと考えている。

差別の問題を構造的にとらえるというさい、歴史的な定義および社会的な定義についての論点から入る必要があると考える。また、差別を論理的に捉える際に、社会的に取り上げられてきた諸範疇がどのように歴史的にまた社会的に形成されてきたのか、についての論議も必要となる。さしあたって、ここでは2つの範疇を挙げておきたい。民族(エスニシティー)と国民(ネイション)の2つである。

ラテン・アメリカのエスニシティーに関しては、この10年余りに独自の内容を含むものとして形成されてきた、しかし、今も19世紀の流れの中で生み出されてきた、人種という意味合いも存在し、この2つはいまだはっきりと分かれていない。そしてこのことは、かつての実体としての民族集団が存在しているということを意味はしない。これは現に生きている先住諸民族という人々を否定しているのではなく、理論的にとらえる際、民族というものが、実はその個人の生活レベルにつながっているだけではなくて、国家レベルにまでつながっているという問題に関係する。というのも、人口センサスレベルでアメリカが実施しているように、あなたはどの民族に属しているか、というような聞き方もあるが、例えばメキシコをとってみても、1970年の人口センサスでは、先住民族に属しているとする答えは5%であった。そのころは、それから20数年間で、先住民族の国際年の時に行われた人口センサスでは、その数字が10%以上にまで上昇した。この先住民族の人口は自然増加も含め増えたと考えることが出来れば良いのであるが、2倍以上もの人口増は考えられない。

自分がどのエスニック・グループに属しているかについては自己申告なので、1970年のときと1990年代とで自らを先住民として申告する人々が増えたということだろう。社会的差別が厳然と存在する一方で、こうした変化は人々のミクロで具体的な生活に「先住民であること」が大きな意味を持ってきていることを意味するのではないか。または、このことは先住民族にとってみればかなり明らかな意味合いを持つが、アフリカ系民族にとってはさらに複雑な問題を含むことになる。このことについては後ほど触れることにする。

これと関連しているのは、さまざまに複雑な状況の中におけるエスノグラフィックな規定である。エスニック・グループを固定的な実体として捉えてしまうと、大きな誤りをおこす危険がある。このため、民族ということに対してもたいへん注意深く取り扱う使うことが必要になる。ましてや歴史的に具体的に捉えていくとすれば、あたかも民族が実体的に存在するというように取り扱うわけにはいかない。とりわけ、民族というものが多民族多言語多文化の相互関係の中でできあがっていることを踏まえれば、関係論的な視座こそが重要であることがわかる。

このため、国民という様相として一括りにとらえることはできない。ところで、このことは、ラテン・アメリカ全域に限り考えることができる一方で、1910年代のメキシコ革命という政治的激動を踏まえた後、全ラテン・アメリカをラテン・アメリカ連邦へとまとめあげていこうとするシモン・ボリバル以来の政治目標が台頭してきた。しかし、この全ラテン・アメリカ的に展開した国民というものは基本的に「混血」を前提とするものであった。19世紀末以降の国民国家とは政治的独立を果たしたものの、それはまだ表面上、観念上の共和制であって、現実の機構としての共和制になるために繰り返し作り替えられてきた。その際に基となったのが「混血」という血統主義的なイデオロギーであり、歴史的なイデオロギーでもあった。

そのイデオロギーの効果として、「混血」に含まれない存在である「実体としての先住民族」という考えが見いだされたのである。具体的にいえば、表面上、観念上、つまり理念としての共和制では、実は異なった生活形態を営むエスニック・グループが、多々存在していたということになる。その人々を国民国家のもとで統治する際、どのように統治するかという問題が浮上する。もちろんその中で「ケダモノ」扱いされたものや集団もあった。自分たちとは違う「ケダモノ」のような集団として捉えられた人々を、自分たちと同じ国民であると捉える際、異なった生活形態を持っている人々のその異なった生活形態をやめさせ、「近代生活」に統合しない限り、つまり、国家のもとに生活をゆずりわたし、近代化にしたがわない限り、同じ国民と見なされない、という観点が非常に強く現れた。

たとえばアメリカ合衆国の軍事的侵攻が、1910年から20年代に中南米を中心に開始される。それに対抗しようとして、貧農を中心としたゲリラ軍である「ニカラグア民族主権防衛軍」を組織したナショナリスト、アウグスト・セサル・サンディーノは、「ニカラグア=混血国家」神話を絶対的なものとしていた。主権の独立と自由を訴えるさいでも、先住民的なものが入ることを露骨に拒否したのである。このことをまとめると、国民的なものが先住民族を支配的な統合の下におこうとするさい、包摂と排除による周辺化や不可視化しようとする圧力が、文化的なエスノサイドを導く。こういったメカニズムが国民を形成する際に先住民族的なるものの排除のもとに展開されたということができる。

このために国民と民族つまり、ネイションとエスニシティーとの関係は、先住民族の存在が混血的なものへと変形され、つねに消滅していくべきものとされる。支配的な「非先住民」の関係に「先住民」が包囲される。そしてまた同時に、先ほどの民族の問題ともかかわるが、「非先住民」と「先住民」という言葉は、どういう意味を持つかというと、トートロジーを意味する。つまり、先住民が生み出されると、非先住も生み出される。つまり、これが非先住民なのだという願望を境界内に示すと、境界の外側に居るのが先住民となる。こんなに恣意的な民族概念というものがこの際に強化される。

アフリカ系に関する人口制度については、しばしば言い換えの差別が生まれてくる。アフリカ系の人々が非常に多い国として、例えばブラジル、ベネズエラ、コロンビアがあげられる。なかでもブラジルとベネズエラの例をあげて考えてみると、ブラジルの場合には、センサスの数え方として最も少ない場合で6000万人、最も多い場合には1億3000万人のアフリカ系がいるとされる。ベネズエラでは10万人から140万がアフリカ系で占められている。このように数字の数が14倍違うということは何を意味するかというと、どのようにアフリカ系の人々を規定したうえで国民として受けいれるか、または国民から排除するかという分け隔てがあるためで、ここではアフリカ系を確定することは非常に難しくなる。具体的なセンサスの取り方はここ十数年の間にようやく完備されてきた。

とくに最近私が調査をしている中米においては、アフリカ系に関しては、ネグロ、「黒人」と見なされることもあれば、外からもまた自分たちの内からもクレオールだと名乗る場合もある。アフリカ系の中にも差別は存在しており、クレオール系の方が「黒人」よりも地位が高い。ところが、「黒人」であるということは国民の起源であると認識されている。実はこのことが、カリブ海域を中心にして考えると、イギリスの植民地主義の影響が非常に強く働いていた事が分かり、ニカラグアという小さな国ひとつをとったとしても、太平洋側では共通言語はスペイン語を主流とし、カリブ海を中心に考えると英語、特にクレオール英語が多くなる。ニカラグアにカリブ海地域が「再統合」されたのは1894年だが、ラテン・アメリカの地域においてそこに関わった支配がどのようなものであるかについて、そしてその際に文化、言語、さらに民族集団の構成をめぐっても歴史的推移がどういうものであるのかということを、一つ一つ具体的にとらえない限り、民族、国民という範疇を無防備に扱うことになることを押さえておく必要がある。

さて、歴史的な背景を次に見ていく際、歴史時期を「見取り図」的に3つに分けてみたい。植民地期、独立以後から冷戦期まで、さらに、1990年代前後のグローバリゼーショのもとの3つに分けた。このように分けた理由として、職業と世系を含んだ人種主義というここでのテーマがあるからだ。とりわけ人種と階級は、差別のレベルでは露骨に出てくる。したがって、この問題を考える際に、さし当たって生まれてくる条件を考える必要がある。その状況は、植民地期以降、同じ状況で存続しているとは考えられない。で、植民地期の人種とは、身分のことを意味していたと言える。とくにこれは、その後のポストコロニアルという言葉にかかわる。

日本とアメリカにおけるこの言葉の使われ方は、近代英仏帝国主義の下における植民地支配の影響と非常に強く連関していることがいえる。しかし、ラテン・アメリカに関して言えば、この状況は、そのまま当てはめることができない。植民地のことに関して言えば、スペインとポルトガルが占領した。そしてスペインとポルトガルは両方ともがカトリックの王国であった。カトリック支配における植民地支配から19世紀半ばに王国が独立し、19世紀末から20世紀中頃にかけてアメリカによる支配を受けるようになった。従って、ポストコロニアルとして日本で流布しているような内容と同等に扱うことはできない。特にこれは、人種が身分であるという考えは世系と職業と密接な関係を含んでいた。

つまり、ある人種に生まれたのであれば、その人は農民であるということが決められていた。ところが、同時に社会的な規範がゆるんでくると身分から、人種からの脱出が可能になってきた。例えば、メキシコの事例からすると、自分の家族に新しく生まれた子供をその家族が住む村の教会の門前に捨て、その捨てられた子どもは如何に先住民族から生まれた子どもであっても、メスティーソとして育てられるという、暗黙の了解がある。これを社会的に考えてみると、最も身分の低い先住民族が、身分的紐帯を切断することによって、社会的な身分の上昇を可能にすることになる。

一方で、共同体からの排除を意味する。つまり、共同体からのつながりを断ち切ることにもなるため、野たれ死ぬ者もでてくる。ある意味で、網野道彦がいう無縁ということにも当てはまる。そこに存在した人々がどのように人種、民族をめぐってのやりとりをしたのかということのなかで、どのように、人種また、人種主義が支配的に行き渡り、どの時点で地場が固まり、無効化されてきたかを考える必要がある。ところが、近代になって、この根拠が無効になる。カトリック支配の下での差別か社会的な秩序の常識であったことが、根拠を失い国民という言葉により再編され、法すなわち政治的言説上での「平等」な関係のみしか扱わなくなる。差別の根拠とは従来のカトリック的な考えに基づくものから、歴史的、社会的根拠を失うことになった。これが先ほど述べたコロニアル状況といえる。

特にこの際、民族をかつての実体ではないということを考える必要がある。とりわけ、20世紀の人口移動による首位都市化現象を考えた際、この歴史的なプロセスは変容に重点を置いて考える必要がある。中米ニカラグアの調査をしたときにこのことがはっきりしている。定住定着にもとづく調査を行った。しかし、現実は流動性が大きいためにその調査は適しない。1920年の人口センサスの農民の数は220万で、1924年の人口センサスではそれが178万へと減少する。この原因は大きな戦争があったわけではなく、また疫病によって減少したのでもない。しかし、40万人以上、つまり5人に一人いなくなったことになる。この理由はあまり問題にされてこなかった。

通常こういった調査は9月から10月にかけて、独立記念日の前後に行われている。この時期、北半球に位置する中米地域は農作物の収穫期にあたる。貧しい農民たちは自分たちの農作物を蓄えるために農村から町に出稼ぎに出る。1920年には、調査員である高級官僚が首都から出かけて農村へ入り、そこで「おまえら動くな」といって人口を数えた。その役人が次の村に行くとまた同じ方法で人数を数えた。そうすると、役人が動くのと同じときに出稼ぎ農民も移動しており、その人々の数を4回から5回は重複して数えることとなった。これが減少した40万人の謎の理由である。しかし、ここで考えたいのは、流動性が基本であるということである。つまり、常に移動しており、ただ一方的に農村から都市へと出稼ぎに出るのではなく、一定の蓄えが貯まると都市から農村へと戻る環流がはじまる。

つぎに、ペルーの事例を挙げる。2つのペルーが存在すると1920年代の思想家ホセ・カルロス・マリアデキは主張する。そこには近代化した都市部と前近代的な農村部が存在しているとされた。たとえば、開発された都市部(特に海岸地帯に集中している)においてはスペイン系や混血の人々が多くを占め、一方で、農村部、とくにアンデス高地においては先住民が多くを占めている。都市部では資本主義が、農村部ではいまだ封建的な政策が1920年代頃にとられていた。こういった観点を生み出す具体的根拠が存在する。それは、都市部に2割、農村部に8割という人口分布である。

ところが、1960年以降は都市部8割、農村部2割という逆転状況が起こった。かつての都市部に2割、農村部に8割という状況は、定住性、村共同体意識が強く、さらに言えば、文化の定着性が強かったとも言える。これは職業と世系に基づく問題にも深く関わる。ところが、1960年代以降は出身地が重要ではなくなった。その間の時期に村八分に近い地位にいるcholo(チョロ)といわれる人々が現れる。これは差別語である。この人々は今では都市部下層を占めている。そのため、政治にも大きく影響を与えている。この人々は先住民であるが、その出自を辿ることができず、このため以前まで固定化されてきた文化や出自などが問題視されなくなった。

結果、60年代以降、都市の新たな層としてチョロという集団同士が紐帯し、新たな文化が高まった。これは、これまでの静的で本質主義的に固定された文化や民族が存在しているということを崩壊させた。この問題を前提にし、1990年代より顕在化したラテン・アメリカにおけるエスニシティーの問題について考察する必要がある。

 このことは、第三世界と呼ばれていたある種の実態について、特に、アメリカに関してメキシコとはどこか、またナショナリティとしてのメキシコ人が一番多いのはどこか、これは誰がメキシコ人であるかという定義づけは今日困難になってきていることを表している。それは、メキシコシティーである。その次は、ロス・アンジェルス、サン・フランシスコ、サン・ディエゴと続く。このことは、ある国家領域内にその国の国民が住んでいないことを表している。それでは、ドミニカ人が一番住んでいるのはどこか。それはドミニカではなくてグローバル都市ニューヨークである。

つまり、第三世界の民衆運動が展開されていた60年代には、第三世界は政治的、社会的な意味で存在していたといえる。しかし、今日このようなかつての第三世界と呼ばれるような場は存在していないと思われる。マンハッタンの中のエスニック集団は、ここがドミニカ、ここはプエルトリカンなど別れて住む凄み分け(セグメンテーション)が行われている。

さらに、本研究会に関係する食肉の話になるが、たとえば、ミネソタでは、メキシコ人が食肉に関係した職についている。また、シカゴでは、ヒスパニック系は犯罪商売に主に従事している。次に、グアテマラ人は、パラメディク(救急救命センター)もしくはサービス産業(セックス・ワークも含む)を主に行っている。このように、ある職業とも新たな連関が生まれ、それが自分の子どもたちに受け継がれていく現象がある。しかし、これは現状として現れているがメカニズムとしてまだ確定していない。この観点からすると、世系と職業に関するラテン・アメリカの状況や問題を一般的に語ることは困難である。

つまり、文化的な価値序列と社会的な忌避・排除、あるいは囲い込みとの動的な繋がりが存在する。たとえば、パラメディックやHIV、B型肝炎の人々は付き合わなければならない、そのような血まみれの場面と関連して暴力的な犯罪が現れてきており、これは傾向として現れており、具体的な条件を詳しく調べることが必要がある。

 世系と職業に関するラテン・アメリカの状況や問題を一般的に語ることは困難である。つまり、文化的な価値序列と社会的な忌避・排除、あるいは囲い込みといった事例に基づくと、図式的ではあるが、次のようなタイプから理解することが可能ではないかと思われる。

まず、アメリカ合衆国の事例にあるような中心における周辺がある。また周辺における中心、たとえば、国内人口移動を中心とした人の移動、具体的には、ボリビア・チリ・ベルーなどの国境を接した国々が挙げられる。つまり、域内移動について考えなければならない。これは国家だけを単位とするのではなく、ある種の地域単位までも含めた周辺における中心の形成に関する問題を考える必要がある。最後に、周辺における周辺が上げられる。これは、「第四世界」の問題と考えられている。

つまり、ナショナルの中から確実にはずされてしまう矛盾。特にこれは先住諸民族を取り巻く問題として考えられ、ラテン・アメリカではこの問題がまず存在することを認識する必要がある。これら3つのタイプがそれぞれ分かれて、モザイクのように存在しているのではなくて、相互に相対的に連関している。周辺における周辺から逃れようとする人々については外からの囲い込みがあるが、周辺における中心への条件が存在し、それがうまく働きうると周辺における中心や中心における周辺へのシフトが起こりうる。

しかし、これは現在ほとんど研究が果たされていない。たとえば、移民や労働の国際移動に関する問題などは、いまだエスニックに基づいて順列付けられる。うまく文化産業的な職業に乗っかった人ではまだしも、これはまれでほとんどの人々はそれほどうまくは行かない。さらに、この人々はペルー人であれば、ペルー人であり、彼、彼女たちの持つ多様なアイデンティティは一様に無視される。したがって、この問題は深くエスニックに関連する。

 この観点に基づき、世系と職業と差別の関係について考えてみると、これら3つの領域は相互に深く関連している問題である。なぜなら、それはグローバル資本主義の影響があるためである。まず第1に、中心における新たな周辺の形成と周辺における新たな中心の形成についての例を次に示す。たとえば、情報を含めた金が動き、それにしたがってヒトやものが動くためにこれが可能となった。少なくともそこの個人レベルでは労働と生活の価値が激変する。

 今日のペルー大統領は先住民出身であるが、彼はエール大学で経済学を学んだエリートである。このことは次の構図を表している。インディオ(差別語であるが、腐ったインディを野郎)という集団は、国家の脅威でもあった。このCholo(チョロ)とは「貧しい」、「惨め」、「可愛そうな」を意味する言葉であった。しかし、今日SuperCholoが生まれ、都市の中の貧しい人々である一方で、ペルーの藤森大統領の後に出た大統領のようにエリートも出てきている。このことは、ひとつのエスニック・グループが1つの身分や階級に固定されているのではなく、エスニック・グループの中の階級化が生まれており、さらにマジョリティー内部の二極化や二分化が進んできている。

 2番目の問題であるが、周辺における中心の例について、周辺関係が変化してきていることがある。一見社会的条件の「維持」としばしば捉えられてきた「世系と職業」の姿を、「変容」の観点から再考する必要があると思われる。たとえば、シャーマンの例を挙げると、もともと、シャーマンを継承する家系があった。彼らは恐れられ、差別される存在でもあった。たとえば、メキシコからグアテマラにかけてシャーマンはコカ・コーラの元になるコカを1950年代まで栽培していた。しかし、今日このシャーマンという存在や内実が変化してきている。

3番目に、周辺の周辺化に関する例としては、従来の構造的差別に加えて、周辺部において曝されつつある差別の社会的諸関係について考える必要がある。つまり、ジェノサイドの対象として先住民がおかれてきた。

たとえば、メキシコシティーの地下鉄の清掃労働者は、暴力や差別に直面する。この人々は、どれほど差別され、暴力を受けようが最低限の生きる術は確保される。そのため、かれらは清掃労働者としての地位を手放さない。かれらは社会の底辺の人々としての扱いをされる。しかし、メキシコシティーでの地下鉄はメキシコオリンピックが開催される際に建設されたもので40年ほどしか経っていない。そのため、地下鉄の清掃労働に携わっている人々は2世代から3世代といえる。建設時当初から清掃労働者は、孫たちもいまだ同じ仕事についている。したがって、国家の問題ではなくエスニックな問題へと差別の対象がシフトしてきた事例を新たな事例としてあげた。

 2番目に、文化の担い手が転換してきていることが上げられる。特に、ペルーの山岳地帯において先住民としてのメスティーソという語義矛盾する表現が生み出されるようになった。これまでは、白人と先住民しか存在しなかった。しかし、植民の過程で混血の人々が生まれるようになった。このメスティーソの人々は長ければ20世代もアンデスの先住民の世界へ辿ることができる。先住民たちは1920年代の資本主義により道路建設による強制労働があり、都市部へその多くが流入するようになった。

一方で、メスティーソはその流れに乗るものが少なく、ところが資本化が進めば進むほど都市化が進み、農村部における自分たちのステイタスを保持することが困難になった。その代わりに彼らが受け継いだのは先住民文化を受け入れることで自らのアイデンティティを維持することであった。彼らはこれまでの先住民以上に先住民らしく振舞うことを試みながらも、自らが先住民であるとこれっぽっちも特定していない。

こういった差別的な意味転換が起こる一方で、従来からの先住民も存在する。彼らの文化は植民地化の影響もあり男性中心的な社会が色濃く残っている。かれらは先住民であることが、文化の担い手であることに関係しているのであるが、そのアイデンティティを活用するメスティーソに対し、自らのアイデンティティを見出すことが困難になる、つまり、文化の自己破壊がおきている。そのため、先住民からの不満も出てきている。これは、エスニックという内実の転換が差別的な現状、つまり文化の自己破壊というエスニックとアイデンティティに関わる問題に差別が連関しながら顕著化していることを示す例といえる。

 3番目は、グアテマラとメキシコ・チアパス州の事例が挙げられる。グアテマラはジェノサイドの対象として先住民族が置かれてきた。またチアパスでは土地に関する問題がある。1940年にとられたセンサスが最も信頼度が高い。このセンサスに基づきチアパス州の土地所有を示すと、土地所有者人口の2.6パーセント、つまり733人の中でもとくに21人が857,101haを所有している。またそのうちの 9人が630,532haを所有している。また、土地所有者の76.97パーセント、つまり14,620人(ほぼ全員が先住民)が28,911ha(約4.39%で一人当たり2ha)。耕作することができるが、植民地の過程で耕作できなくなった土地もある。こうした人々がかつてよりも厳しい流動化にさらされ、新たな差別の対象にされてきている。

 以上のような3つの諸相が相互に連関しながら生まれる問題が、現在におけるラテン・アメリカの現状だといえる。また、旧来の形を更に強化しながら、またそれが新たな意味での職業と世系の問題を生んできているということを提示して、本報告を締めくくりたい。