本日は、バングラデシュの清掃労働に従事するカーストの人々に焦点を当て、現地調査から得た最新の情報を交えて報告をしたい。バングラデシュは1971年11月にパキスタンより独立したことは、ご存知のとおりである。
今回の報告では、首都ダッカの次に人口が320万人と大きく、港湾都市として知られているチッタゴン市にある清掃労働者地区(sweeper colony)に焦点を絞って報告をしたい。
バングラデシュの国勢調査では、人口は1億2300万,314,992人である(2001年8月)。しかし、バングラデシュの国勢調査はあまり当てにならないと考えてよい。このため、本報告の前に桐村先生が報告されたように、ネパールの国勢調査を参照しながら国家レベルを概観したのち、地方レベルに焦点を当てるという手法をとることは大変困難である。政治的な情勢も流動的である。2001年10月に政権はアワミリーグからBNP(バングラデシュ民族主義者党)に移行した。現在、総選挙をひかえ、野党アワミリーグとBNP政権との間で緊張感が高まっている。
BNP政権は、ジャマヤート国家党と連立を組んでいる。そのために原理主義グループに許容的で、民族主義的傾向が強まっている。ビンドゥーに対する暴行・攻撃は頻発している。そうした人権侵害を報道する英国人ジャーナリストが拘留されたり、それに協力したジャーナリストや歴史学者などが逮捕されたりしている。そうした文脈のなかで、Human Rights(人権)は一種「過激な言葉」となっている。
バングラデシュのエスニック構成は、ムスリム教徒が約88%で多数を占める。ヒンドゥ教徒が約11%、チッタゴン丘陵に住む仏教徒が0.6%、キリスト教徒は0.3%である。
バングラデシュの階級構成
バングラデシュは被援助国である。一人当たりのGDPが258ドル(2002年)で世界の最貧国の1つに数えられる。貧困線以下の人口はネパールと類似する47.5%である。今日、都市化が急速に進行しており、外国・多国籍企業が進出し、既存の階級構成に影響を与えている。しかしながら、産業の発展は遅々と進まず大学卒業後も就職口がなく、NGOが最大の就職口となっている。さらに、84%が農村人口であるが、都市と農村の社会的、経済的な格差が拡大している。
ヒンドゥの人たち
私は、4つのカーストは観念の産物だとみている。現実の社会的実態はそれとは大きく異なる。バングラデシュでは特にそうであり、上位カースト(ブラーマンが中心)、カエステ、ノモ・シュードラ(工商人)が漠然と意識されているが、どのジャーティに所属しているのかと質問しても明確な答えは返ってこない。
一般的には、ノモ・シュードラは漁業、洗濯、理髪、鍛冶などに従事する職人階層を意味するとされている。これらの人々が賎視されているかどうかといえば、インドのように厳しい状況に置かれているとは思えない。
ノモ・シュードラとは区別されて、ハリジャンが存在している。その間に立つ障壁は高い。ハリジャン(ホリジャンと発音)はバングラデシュでは、清掃人カーストの人びとの間で自称されており、インドでの意味とは異なる。ハリジャン(神の子)はガンジーが命名した言葉であるが、インドでは今日、当事者からは嫌われる呼称となっている。しかし、バングラデシュでは自らホリジャンと呼び、肯定的にとらえている。ホリジャンと自称する人たちは、英領時代インド、ウッタール・プラデシュ州から清掃労働人として連行された人々の子孫であるという起源を共有している。
その人たちの権利主張の組織として「バングラデシュ・ホリジョン連合会」がつくられている。この組織は、インドにあっては指定カーストとされている人びとを包含するものではなく、もっぱら清掃人カーストの人々をメンバーとした組織である。
バングラデシュにおける清掃人カーストの位置
清掃人カーストの人びとは、インドから移住してきた人々であるといわれているが、元は農民であったという人々も多い。したがって、所属するジャーティはよくわからない。呼称については、すこし前までは、行政当局はホリジャンをメトールという言葉を使って呼んできた。従業員証にも、そのように記載されていた。しかし、当人たちは、この呼称を嫌っている。職業名としては、cleaner やsweeperが使われている。チッタゴン市長モヒウディン・チョドリーは、シェボック(サービスをする人)と呼ぶよう提案して、これを徹底させようとしている。
チッタゴンには4つの清掃労働者地区(sweeper colony、以下SCと省略)が存在する。バンデルSC (172世帯、949人、 5.517人/h)、マダルバリSC (91世帯、554人、6.088人/h)、ジャホダラSC(約70世帯)、フリンジ・バザールSC(約40世帯)である。4つの地区はいずれも旧市街地中心部に存在する。
清掃労働者地区が中心部に作られた理由を、権力者・支配層が清掃人を必要としたためではないかと私は考えている。設立時代についてはよく分からない。記録もなく、質問しても記憶は曖昧である。特に数字には弱く、世帯数や年齢について質問しても的確な答えはもどってこない。
差別の原風景
地域の人々の差別についてのとらえ方は、われわれのものとはかなり違う。単純に聞くと、差別を受けていないと答える人が多い。身体的な危害を与えられない以上、差別と捉えない人が多いためであろう。結婚差別は歴然とあるが、見合い結婚が一般的な状況では、差別とはとらえられていない。
出自は名前によってすぐに分かる。そのため、地区外の学校に通うことになると名前を変更することも少なくない。居住差別について、地区外で居住することは、名前を変えない限り事実上困難である。バングラデシュでは、多くの人びとが貧困線以下にあり、スコッターやスラムに居住している人は多数にのぼる。転出先をスコッターやスラムを想定するのか、ミドル・クラスの住む居住地を想定するのかによって事情は異なる。仕事も清掃労働に従事している限り、ミドル・クラスの居住地に住むことを想定するのは非現実的である。仮にホリジョンが公務員や専門職についたとすれば、名前を変更することで差別を回避することになる。
共食の拒否も顕在している。かつては店に入ることを拒否されたり、欠けたコップでお茶がだされたり、露骨な差別がみられた。今日では、露骨な差別は少なくなっているが、差別以前に経済的な格差があり、一般の庶民が高級レストランで高価な食事をすることはほとんどない。そもそも、そんなところで食事をしようという気にならない。
言語によってもホリジョンであることが分かってしまう。ヒンドゥの人たちは、ベンガル語ではなくヒンドゥ語を話す。ホリジョンは、カンプールの方言がまざった言葉である。だから、しゃべれば出自が明らかとなる。さらに転職することも困難である。また、ヒンドゥ寺院へ入ることがバングラデシュ独立後、許可された。しかし実際はコミュニティごとに寺院が所有されているため、いまだ排除の構造が存続している。
清掃労働者の職種と労働の現場
清掃労働者の職種を大まかに分類すると、下水道の清掃、市場の清掃、道路の清掃、薬剤の散布、トイレの清掃、ごみ運搬車の作業員などである。また、多くの清掃労働者は黄色地に緑で「チッタゴン市清掃局」と書かれたユニフォームを着ており、これが清掃労働者とそうでないものを識別するシンボルになっている。チッタゴンの場合、41の区(ワード)があり、ワードごとに事務所がある。そこに清掃労働者が朝6時ごろから集合し、監督者がその日の担当の現場の指示をする。
現在、市にはトイレの清掃を専門的にする職種はない。民間住宅のトイレの清掃については、市は担当していない。最近、市内の各所に公衆トイレがつくられているが、その管理は民間業者にゆだねられている。使用料は有料で、大が5タカ(1タカ=約2円)、小が1タカである。シャワーなども完備されているものもある。請け負っている業者は、清掃労働者地区出身者がほとんどである。
見えないトイレ清掃の実態
当初は、ホリジョンの人びとだけが清掃労働に従事していると考えていた。しかし実際は、ベンガル・ヒンドゥといわれる人たちも清掃労働に従事にしていることが分かった。ベンガル・ヒンドゥというのは、土着のベンガル人のヒンドゥ教徒という意味である。清掃労働に従事にしているのは、下位カーストの人たちである。例えば、ジョロダスという漁民やマリといわれる園芸職の人びと、さらにその他農村部から移住してきたノモ・シュードラの人びとなど、さまざまなヒンドゥの人たちが従事している。
それだけではなく、農村から移住してきたムスリムなど、都市の貧困層の人びとが清掃労働に参入してきている。清掃労働は、これまでのようにホリジョンたちに「特権的」に与えられた職業ではなくなってきた。
都市貧困層の人々の主な仕事は、リキシャ・ワラ(人力車曳き)、荷役人夫、レンガ割りといった重労働である。市の清掃労働は、これらの仕事からみればはるかに恵まれたものである。市の清掃労働者の雇用形態には、常雇と臨時雇の二つがある。もともと市の清掃労働者の定員は、人口により国によって決められている。しかし、常雇のポストは年々減少してきて臨時雇に置き換えられている。このような現状が生まれてきたのは10年ほど前からである。そのために、最近では臨時職にもありつくのが難しく、競争が厳しい。噂によると、職につくには市の偉いさんに賄賂を渡さなければならないといわれている。
ベンガル・ヒンドゥの清掃労働の状況
市雇用でない民間の清掃労働者は、どのような実態であろうか。チッタゴン国際空港は日本のODAで建設された。空港の敷地の南側に空港職員の住宅がある。そこに清掃労働者の住宅があると聞き、飛び込みで調査をした。清掃労働者の居住地は、空港職員の住宅団地から少し離れたところにある。他が鉄筋住宅であるのに対して、清掃労働者の家屋は、トタン屋根と竹を編んだ壁面の粗末なバラック住宅である。明らかに、周辺部分に追いやられたという印象をいだかせるものであった。ここの清掃労働者たちはホリジョンではなく、ベンガル・ヒンドゥであり、以前は農民であったという。
また、チッタゴン市北部にあるヒンドゥ寺院の門前街の一角に、清掃人たちの居住地がある。ここはホリジョンではない。マリという園芸職のカーストの人たちである。市に雇用されている清掃労働者は一人もおらず、民間住宅の家々のトイレの清掃をしている。彼らは市に雇用されることを願っているが、その道は厳しい。ホリジョンたちも、彼らは園芸の仕事をするのが神から与えられた仕事であるので、園芸で生活をたてていくべきであり、市の清掃労働者になろうとするのは間違っているという。厳しい利害の対立がみられる。
ンドで起きたヒンドゥとモスリムとの間の大流血事件は、ここにも影響が及んだ。ムスリムの原理主義者たちがヒンドゥ寺院に押しかけ、ヒンドゥの人たちを襲撃した。多くの家屋が焼き討ちにあい、怖くなったマリの人たちは避難した。軍隊がでてようやく騒ぎが収まったが、家財道具など多くのものを失った人も多い。
ベンガル・ヒンドゥとホリジョンの間の結婚は厳しい。同じバンデルSCに住んでいても、ベンガル・ヒンドゥの男性は子どもがホリジョンと結婚するのは認められないという。その一方で、マダルバリSCに住むベンガル・ヒンドゥの男性はホリジョンとの結婚はかわまないという。従来の観念から自由になった人がどれぐらいいるのか、まだわからない。現在のところ、清掃労働に従事しているベンガル・ヒンドゥの存在が明らかになっただけで、まだ彼らの全容はつかみ切れていない。
ホリジョンの住宅の現状
ホリジョンに対しては、インドから移住の際の契約として、仕事と住宅の保障やカンプールへの帰省の休暇も約束されたという。それを根拠に、ホリジョンたちは市へ仕事と住宅を提供を求めている。だから清掃労働者地区は一種の従業員住宅である。原則的には、退職すれば転居を求められる。家族の誰かが市の清掃労働に就けば問題がないが、昨今のように市雇用の清掃労働者になるのが難しくなってくると、立ち退きを迫られる。そのため、最近では退職後も住む場所を提供してほしいとの要望がだされるようになった。しかし、現在のところ、まだその要望は実現していない。
他方、モスリムの清掃労働者にはチッタゴン市は住宅を提供していない。ダッカ市のガナクトリ地区では、ホリジョンの住宅地に隣接して、モスリムの清掃労働者の住宅地がある。ホリジョンの住宅は鉄筋コンクリートの団地であるが、モスリムの方は土地だけを提供し、建物は自前でバラック建ての住宅が建ち並んでいる。あきらかに、モスリムとホリジョンの間には政策の違いがある。それには、上に述べたような歴史的経緯があるのだ。ダッカでは住宅をめぐって両者の間にコンフリクトが生まれかけているが、チッタゴンの場合は、まだ顕在化していない。
市当局者にいわせれば、モスリムの場合は住む場所は探しやすいから住宅を提供する必要はない。ホリジョンの場合は差別があり、住むところを見つけるのが難しいから、市が住宅を提供する必要があるのだと説明する。
チッタゴン市の市長は労働組合出身であることもあって、ホリジョンにかなり親身になって対策を講じている。バンデルSCの一角に公立小学校を建てた。また、2005年には6階建ての住宅棟が完成した。2004年のことだったが、私たちの滞在期間中にあわせて、住宅棟の起工式が開催された。数日前までバラックが建っていたところが撤去され、その跡地に鍬を入れる儀式がおこなわれた。その鍬を入れる栄誉ある役を市長は私にさせた。
移転の際の仮設住宅とその後建築された住宅。その住居者を決定する際の基準についてもいろいろと話を聞いてきたが、ここでは省く。
ホリジョンの教育の現状
一般的にバングラデシュの非識字者の比率は高いが、ホリジョンはそれ以上に厳しい状態に置かれている。私が初めてバンデルSCを訪ねた1998年の頃は、地域の青年が教師をする夜学校とNGOが運営する団地の集会所を借りておこなう学習会があったぐらいである。市長は国に働きかけ、小学校をバンデルSCの一角に建設した。その開校式にたまたま立ち会うことができた。それから数年経つが、小学校の就学率は期待されたほど高くなっていない。2005年9月の就学状況は次のとおりである。
表、バンデルSC小学校の就学状況(2005年9月)
1年生------------- 20人
2年生------------- 19人
3年生------------- 14人
4年生------------- 9人
5年生------------- 5人
合計 67人
学校には先生が3人生徒は67人。学年が上がれば上がるほど児童数は少なくなる。中退者がそれだけ多くなっている。小学校は5年生で修了である。1991年から2005年までの間、5年生を修了した児童は合計わずか9名である。就学率の悪さは、親が教育に熱心ではないことにされる。これはかっての部落の不就学・長欠問題とよく似ている。
小学校は電気代が払えず、電気もとめられている。また水道も使えず、トイレは鍵をしめられ、子どもたちは利用できない状況である。
夜学校も引き続き運営しているが、小学校との連携は悪い。両者がその役割を上手く果たせていない。
清掃人カーストの解放運動の可能性
Bangladesh Harijan Okya Parishadと呼ばれる運動組織を紹介するパンフレットが、2004年8月に出版された。その資金援助はノルウェーの企業が出している。当組織は、次の4つの組織を統合してできたものである。1)Bangladesh sanjugta harizan sangh (バングラデシュ・サンジュグタ連合)、 2)Uttar Banga Harijan Federation(北部バングラ・ホリジョン連盟、3)Bangladesh Banshrrore Harijan Oikya Parishad、4)Bangladesh Hela Samaj Unnayan Sangha(community) (バングラデシュ・ヘラ・コミュニティ開発団体)。
ホリジョンは、バングラデシュ全土で150万人存在しているとのことであるが、この数字はあまり信用できない。54の支部が作られている。その目的は生活改善と諸種の権利擁護である。大まかな運動の要求として、市の清掃職に関しては、市が清掃人カーストの失業状態をなくすために仕事を保障すべきであり、モスリムやベンガル・ヒンドゥより優先的に雇用すべきであるとしている。また、住宅に関しては、市が住宅を確保することはインドより移住してきた際に交わした契約に基づけば当然であるとし、退職後の居住地を提供すべきであるとの要求がある。これらの要求に加え、父親は常雇であったが、その息子はパートタイムにしかなれないという事例が増えてきている。そのため、常雇を確保することに対する要求も増加している。
ホリジョンの下位グループは、hal, hela, lalbagi, dome, banshore, domer, bulmiky, rooutという8つのジャーティである。ジャーティ間の関係がどうなっているかはまだよくつかめていない。カンプール出身のホリジョン同士でも地区間で対立があり、どのようにうまく連帯していくことができるのか、これが大きな問題となっている。また、同じ地区に住んでいるホリジョンとベンガル・ヒンドゥとの関係も微妙である。個別の利害を掲げた要求運動・改良闘争は、分断されやすい。連帯の基礎となる共通課題、共通の目標をどのように見つけるのか、まだ展望はみえていない。
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