調査研究

各種部会・研究会の活動内容や部落問題・人権問題に関する最新の調査データ、研究論文などを紹介します。

Home調査・研究 部会・研究会活動 職業と世系に基づく差別」に関するプロジェクト > 研究会報告
2008.04.10
部会・研究会活動 < 職業と世系に基づく差別」に関するプロジェクト>
 
「職業と世系に基づく差別」に関するプロジェクト
2006年4月24日

ネパールにおける職業と世系に基づく差別

桐村彰郎(奈良産業大学教授)

1.はじめに

 ネパールは現在人口およそ2700万人と言われており、すごい勢いで人口増加が進んでいます。91年の国勢調査では1850万人、2001年の調査では2315万人ですから、急速な人口増加が見られます。本来は2001年の調査を利用すべきですが、アクセスの関係上、それを一次資料として利用することができません。様々な報告書が出ていて、それを再引用するかたちでしか2001年の調査結果を利用できないということを報告者としてお断りしておきます。

ネパールについてはこの図を見てください。これはアジアボランティアセンターの山本愛さんがまとめられたものです。ネパールは北から南に向かって、山岳地帯(Mountain)、丘陵地帯(Hill)、タライ平野(Tarai)に分けられます。地勢は峻険です。ネパールでは経済開発も進んでいて、西から極西部・中西部・西部・中部・東部と、5つの区に分けて経済開発が行われているということです。この図は、ダリットの分布、1991年の国勢調査に基づくものですが、非常にわかりやすいので参考にしてください。

91年の国勢調査によりますと、ヒンドゥー教徒が86.5%と多いです。あとは仏教徒が7.8%、イスラム教徒が3.5%いるということです。宗教的にはもっと複雑ですが、主要な宗教の割合そのようになっています。 人口構成は表1.を見てください。これは1991年の国勢調査に基づいてハルカ・グルンという人が分類をしたものです。mountainとhillとさらにインナーテライ、テライと分類をしています。それぞれがエスニックとカーストに分かれていますが、これは比較的大きなエスニックグループ、カーストグループです。難しいのは、センサスではこれがエスニックだ、これがカーストだという分類を必ずしもしていないことです。だから見当をつけて考えていかないといけません。

ネパールはモザイク的な民族構成になっており、大きく分けますと、カースト、ヒンドゥー教に基づく集団、言語的に言いますと、インド=ヨーロッパ語系のアーリア系の人たちであるコーカソイドがカーストグループを構成しています。エスニックグループは、言葉で言いますとチベット=ビルマ語系・モンゴロイドというふうに言うことができます。カーストグループはカーストをもとに分かれておりますし、エスニックはエスニックで、様々なグループに分かれています。

1991年の国勢調査では、カーストグループは29、エスニックグループは26にわかれていました。グルンが分けたカーストグループとエスニックグループの区分は、きちんとしたものではありません。場合によっては解釈が分かれるところもあります。ここには入っていませんが、もっと小さなグループもあり、カーストグループとエスニックグループを合わせると100くらいあるという説もあります。

91年の国勢調査をおおまかに言いますと、カーストグループが56.2%、エスニックグループが35.5%、その他が8.2%となります。そのうち、上位カーストでは、ブラーマンとクシャトリヤ、ネパールでは、ブラーマンのことをバウン、クシャトリヤのことをチェットリと言います。これらがおおまかには上位カーストとなります。合計しますと、チェットリが16.1%。12番のところにタクリがありますが、これはチェットリの一部ですが、いわゆる王様の一族です。ですからこれらは別格ということで、1.6%。バウンの他にテライの方にブラーマンが0.9%あります。これらがネパールで、上位カーストと言われている部分であり、約30%を占めます。 それに対してカーストグループでダリットと言われるのはどういう人々かと言いますと、一番大きい集団は9番のカミ。それから11番のサルキ。それからダマイが7番。これらが大きな集団になります。これらは丘陵部のダリットとして有名ですが、合わせて8.7%くらいになります。

 後ほどとりあげますが、ネパールのダリットは全人口の何%を占めるのでしょう。大きな問題ですが、13%から25%くらいまで諸説あります。いったいどのように数えるかという問題があります。もしも25%としますと、上位カースト以外はほとんどダリットだということになります。ただこれは、1991年の段階の人口構成なので、どうも2001年の調査になるとかなり人口構成が変わっているように思えます。引用した資料は、ネパールの内戦におけるカースト差別を扱っているHuman Rights and Global Justice CenterというNGOの資料です。上位カーストは35%だということです。その内バフンが16%だという記述があります。

ネパールではジャートという言葉が使われます。インドで言うジャーティです。ジャーティというのはいわゆるヴァルナよりさらに下の、もともとのカーストと言われるものです。インドでは2000から3000あると言われるもともとのカーストです。

ネパールではそういう言い方よりも例えば具体的に言いますと、バフン、チェットリ、カミ、サルキ、ダマイなど、そういうものがジャーティと区分けされています。ですからここに書いてあるのはジャートだと考えて頂ければいいです。エスニックグループだったらそのままグルンとかマガールそれぞれがジャートということになります。また丘陵部に住むヒンドゥー教徒の人たちはバルバティヒンドゥーというふうに呼ばれています。バルバティとは「山の」という意味です。もともとネパールの西の方から入ってきた人たちですが、全国に分布しています。このバルバティヒンドゥーの人たちの使う言葉が現在のネパール語ということになります。

次に、タライ平野にヒンドゥー教徒が住んでいます。これはだいたいビハール、南の方から入ってきた人たちで、非常に厳格なヒンドゥー教徒が多いと言われています。エスニックグループは北と東から入ってきている。東から有力なリンブーとかライ、シェルパなど。カトマンズ盆地の近くには非常に有力なネワール、その周辺にタマンというエスニックグループの集団がいます。もっと西の方に行くとグルンとかマガール、ゴルカ兵で有名な集団であります。さらに西に行くと、少数点在のエスニックグループ、ドルボとかビャンシというグループがいます。

2.カースト制度の拡大・浸透

 最初にカトマンズ盆地にキラータ王朝があったのではないかと言われています。これはライとかリンブというようなエスニックグループで、総称してキランティと言われています。このキランティの王朝であったという説がありますが、正しくはわかりません。ただ紀元前7世紀くらいに独自の行政組織をもった先住民がカトマンズ盆地に居たということは事実のようです。その子孫は、ネワールではないかという説もあります。

 その次にリッチャヴィ王朝がカトマンズ盆地にできました。それはだいたい紀元後4世紀の中頃インドのビハール州から入ってきたアーリア系の一族で、こちらにきて先住民を支配するようになりました。仏教が盛んでしたが、ヒンドゥー教もだんだん浸透しました。ただリッチャヴィ王朝は宗教を統治の手段として用いなかったということもあり、カースト差別の問題からはずれています。西部にはカスの諸王国というのができます。特に10世紀くらいになるとインドにイスラム教徒が侵攻してきて、それに追われた集団がネパールに入ってきました。

16世紀くらいになると西部のカルナリ地方、中部のガンダギ地方に様々な小王国が建設されます。そこではカースト制度が導入されるということになります。それからカトマンズ盆地にマッラ王朝というのができました。先住民族のネワールの王国です。14世紀になると、ジャヤスティッティ・マッラという王様がカースト主義を法制化します。64の職業カーストを編成しました。清掃や皮革のカーストが作られ、厳しい統制が布かれました。これが15世紀になるとカトマンズとバクダブルとパタンというカトマンズ盆地に近接した3つの王朝が栄えました。

現王朝につながるゴルカ王朝についてですが、もともとゴルカ地方に住んでいた集団ですが、これが11世紀頃からカースト制度が支配的になってきます。ラム・シャハという王様がカーストを法制化してカーストごとにどのように裁判をやるかについて、裁判組織をつくりあげます。地方ごとにナラヤン・シャハという王様はネパール統一運動に乗り出す。プリトゥヴィ・ゴルカからカトマンズに移っていくわけですね。そしてネパール全土を統一する。1769年に建国。統一後にテライ平野はどんどん開発されていきます。その過程で北インドの方から移民が入ってきます。カースト制度を守ろうとする厳格なヒンドゥー教徒と言われています。

こうしてカトマンズ盆地ネワール人の社会、西のカスの諸王国、それからテライ平野のヒンドゥー社会。この3つの地域でカースト制度が発展しました。それがやがてエスニックグループも巻き込むかたちで、ゴルカ王朝時代の1854年のムルキ・アインのもとでの社会構造に統一されていきました。

3.1854年 ムルキ・アイン

 ムルキは「国の」、アインは「法典」という意味です。民法だけでなく、刑事法も含んでいました。環境の問題も含んでいて、非常にトータルなかたちで法律を制定していました。これは直接、表2.のような形になっているわけではありません。様々なカースト間の結婚を規制したり、カーストごとに処罰の仕方が違うなど、それらの規定からこういう表を導き出すことができるということです。そのため、解釈する人によって若干の違いが出てきます。このムルキ・アインが現在のカーストグループやエスニックグループのヒエラルヒー的な社会配置のモデルになっています。この表2.ではいくつか問題があります。「奴隷化できないマツワリ」とありますが、リンブーというのはここに入るのかどうかあいまいです。

先ほど言ったように、ムルキアインというのは3つの地域で発展していたヒンドゥー教のカースト制度を統一しようという側面と、様々なエスニックグループをうまくこのカースト構造の中に組み込んでいこうという側面をもっていました。しかも組み込む際にはカーストグループの上位の下につけるというかっこうで、組み込むかたちになるわけですね。エスニックグループに対して、カーストグループの上位カーストが明らかに優位になっています。

 それから注意しなければならないのが2つの大きなグループに分割しているということです。バラモンをはじめとする上位カーストが水を受け入れることができる集団と、バラモンをはじめとする上位カーストが水を受け入れることのできない集団、2つに分かれました。まず表2.のIがタガタリ、聖なるひもを着用する。たすきみたいに左肩からかける。これが上位カーストと言われる人たちです。その中のウパディヤ・ブラーマンというのは正統なブラーマンです。正式な司祭者。それからラージプートというのはクシャトリアです。インドのラジャスタンというところにいた一族のことです。これはイスラム教徒がインドに侵攻したときに、最後まで抵抗した集団だと言われています。ネパールに入ってきた人たちで、王家の人たちはラージプートの子孫だと言います。これはタクリと言われる一族ですが、これはクシャトリアあるいはチェットリの一部ですが、別格で上にいます。ジャイシ・ブラーマンとは非嫡出子ないしその子孫。ネワール(有力なエスニック集団)のブラーマンがデウ・バジュ。インド人のブラーマン、インドブラーマン。サニャーシ、苦行をする人。IIのマツワリというのはお酒を飲む人々。これはIIの1の奴隷化できるマツワリと、IIの2の奴隷化できないマツワリの2つに分けられます。奴隷化できないマツワリというのは実はナラヤン・シャハのネパール統一運動の過程で積極的に参加していった人たちです。またその中のネワールというのは非常に有力なエスニックグループです。エスニックグループでないと言う人もいますが、いちおうエスニックグループと私は考えます。

 それからIIIのバラモンが水を受け入れることができない集団。不浄だが可触。ネパールではさわっても穢れないグループと、不可触・さわったら穢れるグループがあります。この不浄・可触は水や食べ物は受け入れることはできないが、触っても穢れない人たちとされていました。IVの不可触には、カミ・サルキ・ダマイ・ボレ・チャなどのグループがあります。IIIとVIは現在ダリットと言われる人たちに結びついていきます。☆印はエスニックグループです。その後の経緯ですが、ラナ家の支配によって鎖国が行われる。ちょうど日本の天皇と徳川将軍というような関係です。実際的にはラナ家が権力をもっています。国王はシンボリックな存在です。それが1951年になってトリプヴアン国王のもとで王政復古となり、政党政治が始まります。しかし、すぐに次のマヘンドラ国王のときにクーデターで国王親政のパンチャヤート体制が始まりました。パンチャヤートのパンチは「5」という意味で、パンチャヤートは「5人組の村落自治制度」。村落パンチャヤート、その上に、郡のパンチャヤート、その上に国家のパンチャヤートというふうに組み立てていくのです。評議会です。国家パンチャヤートになると40%以上は国王が認定します。有力者がなります。つまり地主が代表になります。実際的には国王と国王を支える地主の体制です。ですからパンチャヤート・デモクラシーというのは間違っていて、国王親政、国王独裁を保障する体制でした。それが大問題ということで、1990年の民主化運動で多党制民主主義ができて、立憲君主制になりました。その後、共和制を求めて1996年にマオイストが人民戦争を開始します。2001年6月に王宮の虐殺事件が起こり、国王一族が全部殺されてしまいます。殺したとされる皇太子も自殺してしまいます。そして、唯一王宮に居なかったギャネンドラ一族のギャネンドラが国王に即位することになったのです。いろんな噂がたち、宮廷の虐殺事件はギャネンドラが裏でなにかやったのではないかと言われました。ギャネンドラはもともと保守的です。立憲君主制に対して疑問を持っていました。民主化運動のときも非常に保守的な立場を貫いた人です。それが国王になり、いろんな状況の中で2005年の2月直接統治を始めます。

 現在ネパールは非常な混乱状況にあります。国王、議会政党、マオイストの三者が対立する状況でしたが、去年の12月からマオイストと国王の独裁に反対する7つの政党(特に大きいのがネパーリ・コングレス、それに統一共産党というネパール共産党統一マルクスレーニン主義者、この2つが非常に大きいですが)が、ゆるやかな形でマオイストとの連携に入ったと見ることができます。マオイストと7政党が緩やかに支え合いながら、国王と対決するという構図ができています。この議会主義政党が制憲議会、憲法を制定する議会をつくっています。今の憲法はいけない。国王に権利を与えすぎている。もっとちゃんとした格好で憲法をつくりなおそう、憲法制定議会をつくろうということで国王と対決しています。国王は元の立憲君主制に戻しましょうと譲歩しており、インドその他の外国もそうした方がよいと言っていますが、議会主義政党側はあくまでそれに反対して憲法を改正したいと考えています。立憲君主国になるのか共和制になるのか、異なりますが、国王の権限を削除しろというところでは一致しています。流れとしては、ネパーリ・コングレスは立憲君主制の国家でいこうというところで、統一共産党の方は共和制で国王はもういらないという方向にあるようです。

4.ダリットとは誰か

 一般にカースト差別は東よりも西で強いと言えます。エスニックグループの中でも被差別カーストを差別する状況にあります。だんだんヒンドゥー化していきます。有力なヒンドゥー教にエスニックグループも影響されていきます。そうするとサンスクリット化というヒンドゥー教文化を受け入れて、ヒンドゥー教徒の支配階層のやり方をまねるという傾向が出てきますので、エスニックグループもダリット、被差別カーストを差別するようになります。被差別カースト自身も内部の様々なグループの中で差別するという状況が出てきます。ダリットは非常にわかりにくいわけで、表3.を見ていただきたいのですが、これはネパールのFEDOの活動家のアニタ・シュレスタがまとめた論文から頂いたものです。これが現在のダリットの比較的わかりやすい情報です。ただしこれはネパール政府が行った2001年の国勢調査ででてきたものだけです。これに基づくとネパール総人口の13%を占めており、298万7639人というのが国勢調査に基づいて算出したダリットの人数になります。ただ13%というのは政府の国勢調査を下敷きにした割合ですから、FEDOも13%の線を正しいと思っているわけではありません。ダリットに属するカーストを23とする考え方や28とする考え方もあります。FEDOは30のカーストをダリットと見ています。被差別カーストに対する認識は一致していません。どのカーストがダリットか。FEDOはだいたい人口の16-20%がダリットであると見ています。約20%とすれば460万人になります。ネパールの人権団体JUPは20-25%と言っています。アダム・ロバートソンというイギリスの研究者と、ネパールのシサム・ミシュラが共同でつくった研究報告は15%と見ています。どこの集団がダリットかダリットでないかまだはっきりしていません。5.ダリット差別の諸相

 ダリット差別の諸相のところを見てください。社会的差別、経済的差別、雇用差別、健康、債務奴隷制、教育面での差別、カースト差別とジェンダー差別の二重性、政治的差別等に分けて書いてあります。これはほぼインドと同じです。日本の部落差別ともほぼ同じです。独自の文化もあります。例えば、喫茶店でお茶を飲む場合も自分でその器を洗わないといけない。水については、西部では井戸が別です。農村や学校では、タップ(蛇口)を別にする。最高裁も是正命令を出していますが、うまくいきません。上位カーストのタップから水を飲んだということで、暴行を受けて大けがをしたという事件もあちこちで起きています。非常に大きな問題です。電気や水道、道路など、各地の村にインフラ整備がされていますが、ダリットの集落は放置されたままであるとか、あとまわしになっています。なぜでしょう?開発を担当しているのが、村落開発委員会(VDC)です。これはネパールの行政組織の地方の拠点になるわけです。全国で3913あります。一つのVDCはほぼ30から40くらいの自然村を集めたものです。自然村は3つから5つくらい合わせるとワード、すなわち区になります。だいたい9つのワードで、一つのVDCを構成します。大きさが様々ですから1000所帯5000人くらいのものもあります。その上に郡の開発委員会DDCがあります。郡はDistrict。開発を担当していますが、VDCへのダリットの参加は非常に少ない状況です。やはり有力者、上位カーストの人たちが支配的で、ダリットの人たちは委員会に入りにくい。入ってきても非常に少数です。そういうこともあり、いつまでも放置されたままになっています。ネパール憲法は、カーストを理由とした差別は法律で処罰されると規定しています。しかし同時に別の条項には、宗教的慣行は尊重されると書かれています。だから宗教差別を明確に認めるかっこうになっています。ネパール憲法が両面をもっていることになります。

 経済的差別ですが、耕地全体に対してダリットの持分は1%です。これはダリットが貧しい農業労働者であることを示しています。人口の42%が貧困線以下の生活と言われていますが、その多くがダリットです。健康面でも明らかに非ダリットとダリットの間には非常に大きな格差があります。雇用差別(雇ってくれない、雇っても一般の人たちに比べて明らかに低い賃金で雇われる)の問題があります。債務奴隷制はハリヤシステムと言われています。債務奴隷制は南アジア全体に広がっています。インドにもありますし、パキスタンにもあります。インドもパキスタンもこの債務奴隷制を禁止する法律を制定しています。インドではこの法律に基づいてNGOが裁判所に訴え、債務奴隷を解放するという戦術をとっています。ネパールでは債務奴隷にはハリヤの他にカマイヤがいます。タライ平原、テライ平野の先住民にタルーというエスニックグループがいますが、その人たちは1カ所にとどまって農業をするのではなく、移動性の農業を行っています。その状態につけこんで、彼らをカマイヤという債務奴隷にしていました。それが大問題になり2002年にカマイヤを解放するための法律ができました。ただカマイヤの人たちをほんとの意味で救うにはその人たちにトレーニングやリハビリテーションを提供して、正式な形で土地を保障しなければなりません。NGOはいろいろな活動をしていましたがうまくいっていません。カマイヤの人たちはいったん奴隷状態で使われていた地主の元を去り、国有地の一部などで無断に生活を始めました。しかし、国は結局なにもやらないため、また元の地主のところへ戻っていくという状況があります。あまりうまくいっていないのが事実です。他方、ハリヤの人たち、ダリットの人たちは、債務奴隷制の下にいます。これに関してまだ法律はできていません。

 1964年にネパールは土地改革法をつくりましたが失敗でした。インドでは1950年代に土地改革法ができて、1960年代に強化されています。インドの場合には中央政府ではなく、州別に法律が作られています。1960年代に強化されて一定の土地以上を持ってはいけないという土地上限法ができました。そうは言っても、地主側はいろいろ工夫して土地を温存しています。名義を変えるなどいろいろな方法があります。今でもインドの場合は土地を国が集めるという政策をやっています。土地を持たない労働者、これはダリットが多いのですが、ダリットに再配分するという政策は今も続けています。インドの研究者の間では、この土地改革はどうもうまくいっていないという評価が多いです。それでもインドのダリットの半分は土地を持つことができました。ただ0.5ヘクタールでは自立した農業ができません。少しばかりの土地をもったというだけです。それでもだいたい50%程度が貧しいながらわずかな土地を持つことができた。ただこれだけでは、ダリットにちゃんとした土地を与え、そこで農作業を行って農民として自立することはできません。インドの土地改革は最初の目的からするとうまくいっていません。ネパールはさらにひどい。過度の土地所有を抑止するために借地権を保障しようとしたが、逆にダリットの借地農は追放されて、土地をもたない農業労働者になってしまいました。しかも土地を所有しているということが非常に重要になっています。いろいろな市民サービスを受けるための前提条件となっています。土地を持たないとうまくいきません。

 教育面での差別に関して、ネパールの平均識字率に比べるとダリットは明らかに低い状態です。ジェンダー差別の問題では、バディ(エスニックグループの一つ)の女性は売春カーストになっています。結果としてそうなっていくしかない状況におかれています。この人たちをはじめとして、多くのダリットの人たちが、売春をやらないと食べていけないのです。国境を越えてインドのムンバイに自主的に売られていきます。ネパール憲法では父が特定できれば市民権が与えられます。バディの女性は父親不明で生まれた子どもが多いのです。その場合は実質的に無国籍の状況に置かれています。

 政治的差別については、表4.をみてください。バウン、チェットリ、先住民のグループ、テライの人々、ダリット、ネワールのそれぞれが、国家機関やその他各界の指導層にどの程度入っているかを示したものです。ダリットがあらゆる分野で代表されていないことがわかります。

5.内戦とダリット差別の激化

 最後に、内戦とダリット差別の激化について話をします。マオイストが人民戦争を宣言したのが1996年2月13日です。期限までに回答がなければこの戦争を始めるぞと通告書を送りつけて戦争を始めました。西部・極西部で拠点を作り始めたわけです。特に西部のロルパ郡の住民(ここはマガールの人たちが多い)がなぜマオイストの運動を支持したのか?マオイストの軍事部門の最高責任者であるバダルがマガール出身だからです。バタライとカマル・ダハル(別名プラチャンダ)はバラモン出身です。高位カーストやマガールという有力なエスニックグループ出身の彼らが運動を始めたのです。最初に40ポイントのプランがでました。資料を見ておいてください。初期のプラットフォーム(綱領)になります。内戦の拡大とともに、非常にすさまじい拷問や死刑が行われるようになりました。ダリットの村落にマオイストの部隊が駐留します。一晩二晩と宿泊しても宿泊料の保障はないようで、水や食糧は貧しい村人たちが供出しなければいけなかったのです。人民政府が作られ、人民税が課されるようになりました。女性たちは、政府軍だけではなく、今度はマオイスト軍からも性的に搾取されています。こうした問題にどう対処するのかという問題があります。戦争がもつ悲惨な状況です。非常に残虐なことを行って、自分たちの勢力を有利に保とうとします。

 政府軍の方は、非常に多くの人びとを裁判もしないまま処刑します。失踪という形で強制連行をして殺します。政府もこのような人権侵害を行っています。マオイストの方は見せしめのために民衆の前で村人を拷問にかけたり処刑しています。政府軍は、特にダリットの人たちをマオイストの支持者であると思いこんでいるため、ダリットは相当の被害を受けています。内戦と差別の激化については、2005年に出たCenter for Human Rights and Global Justiceを読めばよく分かります。IMADRジュネーブofficeの田中フォックス敦子さんもこの報告執筆に協力されています。内戦の経緯がよくわかります。マオイストは初期の政治綱領では、共和制の確立、女性への権限移譲、カースト差別や人種差別の終焉、エスニックグループへの自治権保障などを約束しています。そのため、初期の頃は女性やダリットの人たちが支持していたのは事実です。ただ、現在のマオイストの運動は、そのような理念を掲げる一方で、結果としてダリットの人びとを非常に厳しい状況に追い込んでいます。ダリット差別が内戦の抗争・反乱の一原因でありながら、戦争でダリット差別が解消に向かっているかというとそうではなく、結果的にダリット差別は激化していると言えます。以上で雑ぱくな報告を終わります。